マタイの福音書には、山に上り座って休んでおられるイエスのもとに、大群衆が、足のなえた人、体の不具合の人、盲人、口のきけない人、そのた多くの病の人たちを連れて来て、イエスの足もとに投げ出さんばかりに置いたことが記されていました。それでも、イエスは、それらの困っている人たちの必要を顧みることを優先し、即座に治されました(マタイ15:29~31)。イエスは利他的な愛を表し、手本を残されました(ペテロ第一2:21)。そのため、人々は「神(エホバ)の栄光をたたえた」ことが記されていました(マタイ15:31)。次にイエスは、再び大群衆をご覧になられ、哀れに感じられました。大群衆がイエスのもとにとどまって三日になるのに何も食べていないからでした。そこで、このたびも、イエスは男性や女性や幼子を合わせると1万人を超える大群衆に七つのパンと数匹の魚を割いて与え、満ち足りまで食べさせたことが、マタイの福音書に次のように記されています。
「ところがイエスが弟子たちを自分のもとに呼んで、こう言われた。「わたしはこの群集に哀れみを感じます。わたしのもとにとどまって三日になるのに。食べる物を何も持っていないからです。そしてわたしは、何も食べないままで彼らを去らせたくありません。彼らは途中で力が尽きてしまうかも知れません」。しかし、弟子たちは言った、「この寂しい場所でこれほどの群衆を満足させるだけのパンをわたしたちはどこから得るのでしょうか」。するとイエスは言われた、「あなた方にはパンが幾つありますか」。彼らは言った、「七つです。それに小さな魚が何匹かあります」。そこで、地面に横になるよう群集に指示してから、イエスはその七つのパンと数匹の魚を取り、感謝を(神エホバに)ささげてから、それを割いて弟子たちに配りはじめ、ついで弟子たちが群衆に配った。そしてすべての者が食べて満ち足りた。また、かけらの余りとして、七つの食糧かごいっぱいに拾った。しかも、食べていたのは四千人の男であり、女や幼子たちがいたのである。終わりに、群衆を去らせてから、イエスは舟に乗ってマガダン地方に入られた」(マタイ15:32~39)。
イエスは、再び男も女も幼子も合わせて1万人を超える大群衆をご覧になられ、「哀れみを感じます」。それは、大群衆がイエスのもとに来てから、三日になるにも関わらず、食べる物を何も持っていないからです」。それで、イエスは「何も食べないまま彼らを去らせたくありません」と言われ、少し先に大群衆に満ち足りる食事をさせたときと同じように(マタイ14:14~22)、イエスには直ぐに食事を十分に行う用意がある事を示唆されました。しかし、イエスの弟子たちは、先に五つのパンと二匹の魚を割いて、大群衆に満ち足りる食事をさせたイエスの能力を、まだ学び損ねていたことを示しています。弟子たちは、この寂しい場所で大群衆を満足させるだけのパンをどこから得られるのでしょうか、と、そのようなことは出来ない主旨を述べています。しかし、イエスは、弟子たちに「なぜ前回と同じようなことを言うのか」、「まだ私の行う業が理解できていないのですか」などと、弟子たちをたしなめることは一切されていません。イエスは弟子たちに「パンが幾つありますか」と尋ねられています。イエスは弟子たちに、十分にご自身がみ父エホバからあらゆる権威が授けられていることを得心できるように、辛抱強く教えられます(マタイ28:18)。弟子たちが、七つのパンと数匹の魚を持っていることを答えると、神エホバに感謝の祈りをささげ、イエスは前回と同じ方法で、パンと魚を割いて弟子たちに配り、弟子たちが大群衆に配りました。その結果、大群衆は満ち足りるまで食べることが出来たのです。食べ残りのかけらは、こんどは七つのかごに一杯になりました。弟子たちは、イエスが七つのパンと数匹の魚を割き、自分たちに直接手渡される行為を通して、イエスがいつも自分たちを愛していることに、確信し、イエスが、いつでも満ち足りる食事を与えることが出来る能力を持たれる方であることに得心できたに違いありません。聖書は「愛は辛抱強く、また親切です」と記されていますが、イエスはまさにその愛を弟子たちに模範として示されています(コリント第一13:4)。
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白鷺と 鴨と海鳥 河口かな 今日の一句

柿畑に咲いている「菊」