み言葉・聖書は1914年以降の終わる日には対処しにくい危機の時代になることが予告されていました(テモテ第二3:1)。対処しにくい危機の時代なる要因の一つに利己的な人・自己中心的な人が溢れることが挙げられています(テモテ第二3:2)。私の経験でも利己的な人が顕著になったのは、昭和40年代の日本列島改造論を経て第一次、第二次オイルショックを経て、何事も競争社会となり、日本人の慎みや穏やかさが後退したのと同時であったと認識しています。利己的な人は、多くの方が承知されている通りに、他の人を築き上げる言葉ではなく、刺激的な言葉を用い、いら立たせる場面が生じます。どうすれば、利己心を避け、刺激されてもいら立たない特質を培うことが出来るでしょうか。み言葉は「愛は・・・刺激されてもいら立ちません」と記しています(コリント第二13:4,5)。愛を身に着けることによって利己心を避け、刺激されてもいら立つことがなく、他の人を優先する特質を培うことが出来ます。私たちが愛を身に着ける点で神エホバと神のみ子イエスの残された模範の手本に見倣うことが出来ます(ペテロ第一2:21)。
神エホバの愛はみ言葉・聖書を学ぶことと、エホバの創造された私たちの目にするもの・美しい景観、星の輝く空、動物たち、花々、多種多様な食物等々を観察することによって理解し、身に着けることが出来ます(マタイ5:3.ローマ1:20)。さらに神エホバから出る教えの実・霊の実の愛や喜びや辛抱強さや親切や善良や温和や自制という特質を培うことです(ガラテア5:22,23)。神エホバの教えは私たちを益し、平安と義が満ちるようになるので、利己的な要素が入り込むことはありません(イザヤ48:17.18)。
イエスは神エホバを完全に反映することが出来ましたので、イエスの足跡に見倣えば、神エホバとイエスの模範に見倣っていることになります。イエス・キリストは苦しみの杭に付けられ、群衆や祭司長にあざけりの言葉を浴びせられ、刺激されても、いら立つことなく、み父エホバのご意志を完全に行い、従順の模範を残されています(フィリピ2:5~8)。福音書のマタイの書に次のように記されています。
「それで、通行人たちは彼(イエス)のことをあしざまに言い始め、頭を振って、こう言った。「神殿を壊して三日でそれを建てると称する者よ、自分を救ってみろ!神の子なら、苦しみの杭から下りて来い!」同じように祭司長たちも、書士や年長者たちと一緒に彼を愚弄しはじめて、こう言った。「ほかの者は救ったが、自分は救えないのだ!彼はイスラエルの王だ。今、苦しみの杭から下りて来てもらおうではないか。そうしたら我々も彼を信じよう。彼は神に頼ったのだ。神が彼を必要とされるなら、いま神に救い出してもらうがよい。「わたしは神の子だ」と言ったのだから」。一緒に杭に付けられた強盗たちまでが、同じようにして彼のことを非難し始めた」(マタイ27:39~44)。
上記の聖句に記録されている通り、み子イエスは苦しみの杭の上での極限の状態の中で、愚弄の言葉に忍耐し、み父エホバに従順を示されたのです(フィリピ2:8)。
伝道の書には次のように記されています。
「支配者の霊があなたに向かってわき起こることがあっても、自分の場所から離れてはならない。穏やかさが重大な罪を鎮めるからである」(伝道の書10:4)。
上の聖句が示しているように穏やかさ、つまり温和な霊はいら立ちを鎮めるのです。私たちは霊の実の「温和」という特質を培いたいものです(ガラテア5:22,23)。
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