古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉
句郎 芭蕉の句で最も広く知られている句というと何かな。
華女 そうね。「閑さや岩にしみ入蟬の聲」かしらね。
句郎 いやぁー、「古池や蛙飛びこむ水の音」じゃないかな。
華女 そうかもしれないわ。小学生でも知っている句かもしれないわね。
句郎 こんなに広く知られている句は他にないかもしれないよ。
華女 どうして、こんなににも広く知られるようになったのかしら。
句郎 すでに江戸時代に広くしられていたようだからね。
華女 でも現代俳句の祖と言われている正岡子規はこの芭蕉の句を認めていないというような話を聞いたことがあるわ。
句郎 『芭蕉雑談』かな。確かに子規は芭蕉の句の大半は悪句駄句だと言っている。
華女 「古池や」の句もその中の一つじゃないの。
句郎 そうなのかもしれないけど、事情は複雑だよ。この句は「俳諧の歴史上必要なる者に相違なけれども、文学上にはそれ程の必要を見ざるなり」。このように述べている。
華女 この「古池や」の句は、文学になっていないと言っているのじゃないのかしらね。
句郎 そうなんだろうね。「善悪巧拙を離れたる句他にこれありや」と言っているから。
華女 「俳諧の歴史上必要なるもの」とは、どういうことなのかしら。
句郎 蕉風俳諧成立を宣言した句だということのようだ。
華女 蕉風俳諧とは、何?
句郎 芭蕉の前に流行していた俳諧に松永貞徳という人を中心に行われていた俳諧があった。この俳諧を貞門俳諧と言っていた。その俳諧は言葉遊びの俳諧だった。その次に出てきたのが西山宗因が始めた談林派の俳諧だ。この俳諧は諧謔・滑稽を詠んだ俳諧だった。言葉遊びと笑いの俳諧を和歌に匹敵する情緒を詠んだ俳諧が蕉風なのかな。
華女 大衆文学を純文学にしたということ。
句郎 そう、俳諧は蕉風に至って純文学になったということなのかな。
華女 「古池や」の句が大衆文学だった俳諧を純文学にしたエポックを意味する句だということなの。
句郎 そう、「古池や」の句が蕉風を宣言したと。
華女 そうよね。この句には言葉遊びもなければ、諧謔・滑稽もないわね。でも、この句は文学になっていないと子規は言ってるんじゃないの。
句郎 そうだ。文学になっていないと子規は言っている。一人、芭蕉庵に居る時に感じたことをただ述べただけだから文学になっていないと子規は言っている。
華女 「古池や」は何でもない句よね。ただ古池に蛙が飛び込んだ音を聞いたと言うだけの句ですものね。
句郎 問題はこのなんでもない句が文学か、それとも文学ではないのか、ということだよね。子規はこの句に文学を見なかったというなんじゃないかと思う。
華女 句郎君はこの句に文学があると思うの。それとも文学はないと感じているの。
句郎 僕は「古池や」の句には文学があると考えているんだけどね。子規は西洋文学を読み、日本の詩歌に文学を発見できなかった。