醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1457号   白井一道

2020-07-07 15:05:26 | 随筆・小説


   ロシアを嫌うロシアの若者

 
呑助 ロシアの女の人は綺麗だね。
侘助 確かに綺麗な人がいる。しかしすべての女性が綺麗だというわけではないだろう。
呑助 でも皆、色は白く、眼は青く、痩せてスラっとしているように思いますね。
侘助 若い女の人はスラっとしているようだけれども、年と共に太って来るようだよ。
呑助 それはどこの国でも同じですかね。
侘助 そうなんだと思う。肌の色が抜けるように白い女性がいることは確かなことだけれども、アジア人と同じような肌色をした女性もいるようだ。
呑助 ロシアは広いからいろいろな民族の人がいると言う事なんですかね。
侘助 ウラル山脈より西側のヨーロッパ側にいるロシア人の中に背が高く、目が青く、色白の人がいるのだと思う。
呑助 最近、you tubeで若いロシア人女性が日本語でロシアに住みたくないという動画を見た。上手な日本語のyou tuberでしたよ。
侘助 そのロシア人女性はなぜロシアに住みたくないと言っているの?
呑助 そのロシア人女性の名前はアシアというようだ。いろいろ理由を挙げている。その一つがロシアには凄い酔っ払いがいるということを言っていた。
侘助 どんなに凄いのかな。
呑助 日本では考えられないような酔っ払いのようだ。アシアがバスに乗っていた時の話だ。酔っ払いがバスに乗り込もうとしてきた。運転手がウォッカの瓶を持って乗り込もうとしてきた酔っ払いに注意すると酔っ払いはウォッカの瓶を割り、バスの運転手の頭を殴りつけた。血が飛び散り、大騒ぎなった。アシアは恐ろしくなり、バスから降りてしまったというような話をしていた。それに比べ、日本人にはそれほどの酔っ払いを目にしたことはないと話していた。
侘助 日本の酔っ払いとヨーロッパ人の酔っ払いとでは大きな違いがあるみたいだね。
呑助 私はお酒が大好きですがね。人に絡んだり、暴力を振るったりすることはありませんね。
侘助 昔の日本人の酔っ払いは凄かったように思うな。私が子供だった頃かな。喧嘩をする酔っ払いが街中にはあったように思うよ。横浜の野毛、飲み屋街があった。そこでは暴力沙汰が日常茶飯事であったように思うな。
呑助 昔の日雇い労務者ですかね。宵越しの金は持たないなどと言って飲み崩れていたということですか。
侘助 幾分日本人の生活水準が上がった結果、どうしようもない酔っ払いがいなくなったのではないかと思っている。
呑助 まだまだロシア人の生活水準が低いためにそれに伴って酔っ払いの倫理水準が低いということですかね。
侘助 基本的にはそうなんじゃないかと思うな。ただヨーロッパ各国の酔っ払いの酔態は日本人に比べて酷い状況のようだ。それは日本と比べて欧米の貧富の格差は大きいように思っているんだ。日本にも貧富の格差はあるが、欧米と比べてみると小さいように思う。
呑助 それが徐々に拡大しつつあるという状況もあるということですな。
侘助 ロシアにあっては、ソ連邦が崩壊し、一気に貧富の格差が拡大したのではないかと思う。
呑助 ロシアは一時、東側諸国の覇権国として君臨した時代があったのでしょ。
侘助 ロシアはもともと貧富の格差が大きな国だったように思う。スラブ人とは奴隷という意味があったようだからね。西欧諸国からは奴隷の国として扱われた時代があったようだしね。それを一気にひっくり返した出来事がロシア革命であった。しかし社会は徐々に少しづつしか変わって行かないもののようだからね。
呑助 18歳から24歳の若者のアンケート調査によると53%のものがロシアから移住したいと言っているようですよ。驚きですよ。
侘助 ソ連の社会主義が間違ってしまったというとなんだと思う。厳しい冷戦を五十年も続けたからね。この冷戦によってロシアは破壊されてしまったのではないかと思う。数々の困難に社会主義の在り方がゆがめられたという事のように私は考えているんだ。
呑助 最大の困難とは何なんですかね。
侘助 それは何といっても軍事費の圧力じゃないかな。軍事費に国力を注入したことかな。

醸楽庵だより   1457号   白井一道

2020-07-05 16:59:03 | 随筆・小説



  政治と友情について



 政治の世界での裏切りは日常茶飯事のようだ。昨日の敵は今日の友となり、昨日の敵は今日の友になったりするようだ。戦国時代の下克上の世界が政治の世界なのかもしれない。そのような世界を我々国民の目の前で繰り広げられた出来事がある。それが衆議院第48回総選挙であった。
 民進党代表、前原誠司氏は小池百合子率いる「希望の党」との合流を意図して民進党を解体したのだ。それまで野党の統一を目指して選挙協力体制を構築すべく、共産党、社民党は努力してきたが、それを一気に打ち壊したのが民進党を解体し、希望の党への合流であった。共産党、社民党は前原誠司氏を裏切り者として見なしたのではないかと思う。
 この前原誠司氏の裏切りに意図することなく加担してしまった衆議院議員たちの中に小川淳也氏がいる。小川氏の国会質問を聞いていると前原氏のような裏切りができるような人物ではない。真っ正直な、人を騙すようなことができない人のようである。愚直に生きる政治家、政治家ならぬ政治家、そのような印象が国会質問にはある。この小川淳也氏を17年間にわたってカメラに収めて来たドキュメンタリストがいる。大島新氏である。彼は大島渚映画監督の息子である。私が中学生だった時、松竹ヌーヴェルバークの旗手として大島渚は登場してきた。奈良の場末の汚い映画館で炎佳代子主演の映画「太陽の墓場」を見た経験がある。何か私の中にある汚いものが映像化されているような嫌な経験であった。それ以来私は大島渚の映画を見たいと思ったことはない。それでも大変な有名人であった。しかし大島渚の息子である大島新氏は父親とは違い、真実があるようなドキュメンタリストのようだ。大島新氏が小川淳也氏を17年間にわたって撮影し続けた映画が「なぜ君は総理大臣になれないのか」である。私はこの映画を見ていない。ただ私は小川淳也氏の国会質問を聞き、小川淳也衆議院議員のファンになった者である。大島新監督に17年間もカメラを回し続けさせる魅力が小川氏にあったという事なのであろう。私が小川氏のファンになったように大島監督もまた小川淳也氏のファンになったのであろう。小川議員が初めて衆議院選挙に立候補し、落選したときから17年間カメラを大島監督は回し続けて来た。きっとフイルム代にもなるかならないかの写真を撮り続けて来た。小川氏にはそれほどの魅力があったからなのであろう。
 「なぜ君は総理大臣になれないのか」が映画館で上映され始めると大島新氏へのインタヴューがyou tube で配信された。この中で清濁併せ持つというようなことのない愚直な政治家がいると大島氏は言っている。このような純な政治家は共産党の中に二、三いるだけだと、言う人がいると話していた。私も本当に小川淳也氏は清潔な政治家、真っ正直な政治家だと思っている。ここに小川氏の魅力があるように感じている。
 小川氏はインタヴーを受け、次のような発言をしていた。大島新氏を私は友人だと思っているが「友だち」だとは思っていない。このように小川氏は発言していた。この友人と「友だち」との違いについての私の考えを述べてみたい。
 小川氏は前原氏を尊敬していたと発言している。だから2017年に行われた衆議院選挙において前原氏と一緒に選挙に臨んだ。しかし選挙後小川氏は前原氏と袂を分けた。小川氏は無所属になった。国会内では「立国社」の会派に入り、国会でも質問権を得ているという。その後、前原氏とも年に数回は合い、仲良く歓談はするという。前原氏は小川氏にとって友人から「友だち」になった。和して同ずることはないということのようだ。自民党の中にも小川氏は友だちがたくさんといるらしい。
 小川氏にとって大島氏は「友だち」ではなく、真の友人のようだ。しかし政治の世界にあって、和して同ずることがなく、政治をすることは非情な事でもあるように思う。元総理の小泉純一郎氏は昔の仲間の選挙区に刺客を立候補させたことがある。元内閣官房長官後藤田正晴は共産党の不破哲三氏と仲良かったと話していたが、気を抜くことはなかったとも話していた。
 和して同ずることなかれと、昔の人が言ったというが、裏切った者を友だちとして仲良く付き合うことが本当にできるのだろうか、疑問である。そこには憎しみのような感情はおきてこないものなのだろうか。あくまで表面的な人間関係になっていくのではないかと思う。共産党の場合は赤裸々である。例えば筆坂秀世氏という共産党の幹部がいたが、問題を起し、国会議員を辞めさせられた後、秀坂氏は反共主義者に転落し、共産党を批判している。

醸楽庵だより   1456号   白井一道

2020-07-03 15:41:30 | 随筆・小説


  全世帯型社会保障制度の導入は福祉の削減だ 



高福祉高負担の全世代型社会保障を導入することなしにこれからの日本の高齢者福祉を持続することはできないと野党議員が述べるyou tubeを見た。野党議員氏はこれからの日本の年齢別人口構成を図解したものを見せていた。
 このyou tube を見る気になったのは、小川淳也衆議院議員の話だったからである。彼は北欧諸国を視察し、国民が政府役人や国会議員を心の底から信頼していることに痛く感銘を受けた経験があるようだ。高い消費税を支払うことを嫌がっていない。政府に支払った税金は確実に国民に戻されてくることを信じている。国民が政府を信頼していることに心底驚いた経験があるようだ。日本の国民は政府を信頼していない。税金はできるだけ安くしてもらいたい。これが日本の国民感情だという認識を小川議員は持っていたようだ。国会議員である政治家が国民の信頼を得ることができるなら高福祉高負担の税制が導入できると小川議員は考えているようだ。国民が政治家である国会議員におねだりすることがなくなり、政治家が国民の信頼を裏切るようなことをしないならば、高福祉高負担の税制を導入することが可能となり、持続可能な福祉制度を実現できると考えているようだ。
 確かに中学一年生の時に初めて社会科の授業で年齢別人口構成を習った経験がある。更に高校ではもう少し詳しく人口問題を勉強した経験がある。発展途上国の年齢別人口構成は高齢者になるにしたがってその人口が少なるピラミッド型をしている。それがより先進国になるに従って年齢別人口構成が釣り鐘型になっていく。高齢者の割合が全人口の中で増えていく傾向が出てくるというものだ。最終的には高齢者と低年齢者の割合が少なくなるつぼ型へとなっていくと高校の地理の教科書では説明している。
 この事を小川議員は歴史的なものとして説明していた。確かに産業革命は世界各国で人口爆発を発生させた。人口の増加は自然なものではない。人口の増加は人為的なものである。食料生産量によって人口は制約されている。世界的に見るならば稲作のできる地域の人口は多い。人口密度が高い。南アジアから東南アジア、東アジアのモンスーン地帯では稲作ができる。この地域の人口密度は高く。人口も多い。それに比べてヨーロッパなどの畑作地域にあってはアジアの稲作地域と比べて人口密度は低く、人口も少ない。ヨーロッパは一粒の麦を蒔いて一粒の実しか実らないと西洋史の授業で聞いた言葉がある。食料のカロリー量によって人口は制約されている。ヨーロッパは痩せた食料の地域、それに比べてアジアは食料の豊かな地域だ。人口問題を考える場合には、このような地理的条件も考えるべきであろう。
 世界の歴史を考えてみると産業革命に匹敵する技術革新がある。それは新石器の発明であった。イギリスの考古学者、チャイルドは新石器革命という言葉を使っている。新石器の発明によってはじめて農耕が可能になったと言われている。農耕の始まりによってそれまでの人々の生活を一新し、人口が爆発的に増大した。それは一面、人類の哀しみの始まりでもあった。国家が誕生した。国家が成立することによって一部の人々の生活が豊かになる一方、それまで以上に生活が苦しい奴隷身分の者が出現してきたのだ。新石器、農耕の始まり、国家の誕生は文明の誕生である一方、奴隷身分の者が大量に出現した。それ以来人口の量的拡大は少しずつではあったが、増大したが、爆発的増大は18世紀にイギリスではじまる産業革命まで起きなかった。
 産業革命は一方の人々を豊かにしたが、他方には窮乏化し、奴隷のような状態に留め置かれる人々を生み出した。その中にあって人々は豊かさを求めて貧しい人々は子供を持つことが豊かになることだと子供を作り、働かせることによって豊かな生活を求めた。その結果が産業革命による人口爆発であった。産業革命は世界的規模で貧富の格差を拡大した。労働人口を求める国の人々は外国から食料を輸入した。食料を輸出した国にあっては食料が欠乏する人々が生まれて来た。食料を輸出することによって豊かになる人々がいる一方、たくさん食料が生産されているにもかかわらず輸出されてしまうため、飢える人々が生れた。産業革命まで食料生産の少ない国々が食料を買ってしまうため、飢える人々が生れた。産業革命の恩恵に預かった国々で人口が爆発的に増大した。経済が成長し続ける限り人口は増え続け、年齢別人口構成はピラミッド型であり続けた。がしかし、世界的な貧富の格差が縮小してくるに従って先進資本主義国の成長の限界が見えて来ると年齢別人口構成が釣り鐘型になっていく。国の在り方を変える事なしの全世代型社会保障は弱者切り捨てだ。


醸楽庵だより   1455号   白井一道

2020-07-01 15:18:15 | 随筆・小説



  出家の記  3



 日光の街中から田舎に来た。これが実感だった。蜻蛉がたくさん飛んでいた。谷戸と呼ばれる小さな山と山との間に開けたところの真ん中に大きな農家があり、その周りに民家が十軒ぐらい建っていた。一日中、日の当たることのない北側の六畳一間を間借りであった。便所は南側の一間を間借りしている女性との共同使用であった。水道はなかった。農家の後ろに井戸があった。その井戸に紐に縛り付けたバケツを下ろし汲み上げてバケツに水をあけ、そのバケツを軒下に運び、そこで調理し、七輪で起こした火に鍋をかけ、煮炊きしていた。今から思うと母の苦労がどのようなものであったかがわかる。そのような母の苦労を理解することなく、私は歩いて四、五十分はかかる小学校へ通っていた。当時横浜の小学校低学年は二部授業だった。早番と遅番があった。早番の時は朝早く学校に行く。遅番の時は午後学校に行った。何を学んでいたのか全然記憶に残っていることはない。私は栃木県日光からの転校生だった。方言を笑われた記憶はない。私は横浜の方言が耳新しかった。横浜の農村地帯には一首独特な方言があった。「じゃ」、「じゃんか」と言う言葉が語尾につくことの違和感が記憶に残っている。
 この一年弱の滞在期間で残っている屈辱感は子供たちの間の遊び仲間から仲間外れにされたことである。ある時は私一人を遊び仲間全員が暴力的ないじめを去れたことである。私は恐ろしくなって家に帰ると家にいた「お父さん」が出て来てその遊び仲間を蹴散らしてくれたことがあった。それ以来、家の近所が子供たちが集まり、遊ぶことがなくなった。表に出てきて遊ぶ子供たちがいなくなった。それでも私は誰かと一緒に遊びたい一心で表に出て行き、一人で走ったりして遊んでいた。その時である私より年上のリーダー格の少年が私に言った。学校への通り道にある神社あたりのグループの少年と対戦する喧嘩をしないかと言った。私は承諾した。この喧嘩で勝つことができるなら遊び仲間に迎えてもらえると思ったからだ。対戦相手はやはり遊び仲間の中では浮いている少年のようだった。確かに私と同じように仲間たちから生意気だと云われている少年のようだった。私もその少年からイジメのようなことをされた記憶があった。私はリーダー格の少年が運転する自転車に乗せられて、対戦会場になる熊野神社の広場に夕方出向いて行った。高揚する気持ちと不安で保田氏は一杯だった。薄暗くなった広場に向かうと対戦相手はすでに準備万端喧嘩の準備は整っていた。私とあいての少年は向かい合い、殴り合いをした。二、三分の出来事であったが、私には長い時間のように感じられた。全然痛みを感じることはなかった。取っ組み合い、相手を倒すと起き上がり向かってきた。私はその時思い切り蹴り上げ、殴りかかった。これが俺の限界だと感じたときだ。突然、相手が泣き出した。私の気持ちが萎えていくのが分かった。と同時にあっけないものだとも、これで助かったという安心感も湧き上がって来た。帰りは悪いことをしてしまったという嫌な気持ちに襲われていた。この事以来、私は遊び仲間から外されることはなくなったが、私は誰とも仲良くしたいという気持ちもなくなった。それからすぐのことだったように思う。私たち家族は新築の二軒長屋の借家に引っ越すことになった。旧居から徒歩で10分くらいのところにある住宅地にある唯一の二軒長屋であ。二畳ぐらいの台所、四畳半と三畳の部屋しかない狭い借家だった。この借家が私の少年時代を過ごした住まいである。この借家にも風呂がなかった。当初は風呂屋まで三、四十分歩かなければならなかった。一年もすると東横線大倉山駅近くに風呂屋が開業した。この銭湯に通うことになった。
 小学校の高学年になると私たちの唯一の遊びが野球だった。野球ができなかったのでソフトボールの三角ベース遊びだった。そのうち野球チームを作ろうという話が持ち上がり、私たち悪ガキたちは鉄屑拾いをしてお金を集め、野球道具を揃えようとしていた。まずユニホームを作る。チーム名を作ろうと話し合った。その結果、私たちのチームは農村地域にあった。最も田舎っぺのチームだった。そこで師岡ベアーズとした。少年野球のチームの中では最も弱いチームだった。監督もいないチームだった。助けてくれる大人の人は誰はいなかった。街場のチームと対戦すると相手チームには大人の監督さんが付いていた。私たちの対戦チームは連戦連敗のチームだった。私はいつのまにか、チームの主将の役割をしていた。ある時、一駅ほど歩いて遠くのチームと対戦することになった。その時である。私はファーストミットとグローブを持っていた。そのファーストミットを年下の少年が失う出来事があった。