1964年9月8日、米空母艦載機F8Cクルセイダーが厚木基地離陸直後に基地北側を200メートルも滑走し舘野鉄工所に衝突・爆発して広範囲に機体が飛散、5人が亡くなり、3人が負傷する大惨事となりました。
鉄工所を経営していた舘野正盛さん(事故当時50歳)は、事故で3人の息子さんを亡くしました。 毎日新聞は今年1月、「基地のあるまち」を連載し、舘野鉄工所米軍機墜落事故を取り上げました。 舘野さんの生前の国を相手の交渉や裁判闘争の経過が紹介されています。
同連載記事1月12日(日)付には、次のような内容が掲載されています。
「82年に和解が成立した。 『国は舘野さんの現在の生活が事故前とかけ離れていることの遠因に、米軍機墜落事故があることを考慮して1200万円を支払う』。 争点となった『約束』(国有地払い下げの)の存否については決着が付かなかったが、1審で全面勝訴した同庁(防衛庁)が、改めて責任を認めて解決金を支払う異例の結末だった」
「田島さん(征三・絵本作家)らの支援者は、『これで舘野さんも、少しゆっくりした余生を送れる』と胸をなで下ろした。 しかし、事故で息子3人と鉄工所を失い、18年間に及ぶ国との闘争の中でさらに多くを失った舘野さんの心の傷は埋まらなかった」
昨日結成された、「50周年慰霊実行委員会」結成集会では、事故当時、たまたま休暇で自宅にいた尾形斉(おがたひとし・元中学教師・78)さんが目撃した状況を、 「エンジン音がぱたっと止まり、『ドドーン』とすごい音がして、墜落と直感した。 手元にあったカメラを持って現場に駆けつけようとしたが、畑のあちこちで煙が上がっていたのでどこが本体の墜落現場だかすくに分からなかった」「大勢の人が集まっているところがあったのでやっとそこが現場だと分かった』と語りました。
尾形さんが撮影した未公開写真も公開されました。
「慰霊実行委員会」は、この重大事故を記憶し、「犠牲者の慰霊と追悼」を行うことを共通の課題として、市内の4団体(厚木基地爆音期成同盟、憲法9条やまとの会、大和の空を考える市民ネットワーク、大和市平和委員会)がよびかけて結成されました。
実行委員会は、9月13日(土)午前10時から墜落現場(舘野鉄工所跡地)等で慰霊祭を行うことにしています。
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