邪馬台国が九州にあった時代、畿内にはどんな勢力がいたのか?
これについて邪馬台国九州説を採る研究者の多くは、「そんなの関係ねー」で済ましてしまう人が多い。特にあの一世を風靡した「古田史学」の信奉者は、畿内大和政権であれ、畿内大和王朝であれ、「大和」にアレルギー症状を持っているので、畿内大和は眼に入らない、いや、入れたくないようだ。
古田史学の「反大和」は徹底していて、少なくとも継体天皇まで、記紀に記す畿内王権なるものはすべて九州王権だったとしている。
しかし古田史学ではない九州説論者の多くは、九州にあった邪馬台国そのもの、もしくは邪馬台国が九州内で南九州に移動し、その後「東征」を果たして畿内大和に入り、「ヤマタイ」からの転訛で「ヤマト」になり、それが畿内王権の「大和」になり、所在地も「大和(地方)」と呼称されるようになったと考えている。
私は魏志倭人伝の九州島への行程から、南九州(古日向)には「投馬国(つまこく=戸数5万戸の大国)があったと比定しており、その王名の「彌彌(ミミ)」からして神武の子に「タギシミミ」「キスミミ」がおり、かつ「東征」後の畿内大和橿原王朝樹立後に生まれた皇子の名も「カムヤイミミ」「カムヌマカワミミ」(その次の代にも「イキシミミ」がいる)と、まさにミミ名のオンパレードなるのを見て、いわゆる「神武東征」の造作説を捨てた。
ただ「神武東征」とカッコつきで書いたのは、南九州からの東征は俗に言う「武力討伐」ではなく、南九州特有の火山活動や台風の襲来による生活苦からの避難、つまり「移住」的要素の強い移動がなされたと考えているからである。
この「移住」は南九州から古日向の東岸を経て北九州の岡田宮で1年、瀬戸内の安芸(広島=タケリ宮)で7年、吉備(岡山=高島宮)で8年、と実に16年もかかってようやく難波(河内)に到着するという長期の移動であった。これを「東征」というのには無理があり、移住がふさわしいであろう。最終目的地は火山活動も台風の襲来もない大和地方だったのである。
この移住は先住の勢力(ナガスネヒコ=中津根彦)からすれば招かざる客であり、河内に入った途端に攻撃されて紀州方面へ大きく迂回をしなければならなかった。しかし早くに南九州から葛城地方に入り、出雲勢力と連携をしていたカモタケツヌミ(のちに京都に移住し、下鴨神社の祭神となる)の援助を受け、何とか大和地方入りを果たす。
しかしその後も大和先住勢力との確執は続き、書紀の記載では約7年かかってようやく定着し、「橿原王朝」を樹立する。大和先住勢力(八十梟師)の中には「エウカシ」「オトウカシ」という名が見えるが、これはのちにアイヌと呼称される人々の先祖の可能性が強い。
とにかく南九州の古日向人が最初の王権「橿原王朝」を築いたころの大和地方には、すでに各地からの流入者を含む先住勢力があったのであって、九州に邪馬台国を含む多くの王国があった頃の畿内大和は、空っぽ(王権空白地帯)ではなかったのである。
さて、では南九州の古日向にあった大国「投馬国」が畿内を目指して移動を開始したのはいつ頃であろうか。
私はこの時期を倭人伝や後漢書のいう「桓・霊の間、倭人は乱れた」いわゆる「倭人大乱」の頃であると考えている。「桓・霊の間」とは後漢の桓帝と霊帝の統治期間中ということで、具体的な年代は西暦148年から186年である。
このうちでも早い時期に南九州だけなのか九州全体なのかは判断でき兼ねるが、特に南九州で何か壊滅的な災害(火山噴火・大津波・巨大台風)があり、移住を余儀なくされたのではないかと考えている。
拙著『邪馬台国真論』(2003年刊)では、この南九州を襲った壊滅的な災害をその時期(140年代)に比定したのだが、このことを裏付ける考古学的な証拠が、現在進行中の東九州自動車道建設前の発掘調査で得られたように思う。
場所的には鹿屋市と曽於郡大崎町にまたがるのだが、道路建設予定地の発掘現場で確認された弥生時代三期、すなわち「前期・中期・後期」の出土遺物・遺構の量的比率がひどく偏っており、中期(紀元前200年~0年)までは非常に盛況なのだが、後期(0年~200年)となるとまさにぱったりと遺物・遺構が出なくなるのである。
ということは西暦0年から200年までの間、人は住んでいなかったか、住んでいても中期に比べればごくわずかしかおらず、人々の多くの足跡は消えてしまった。つまり人々は死に絶えたわけではなく、南九州からどこかへ移動したということになるだろう。
これが南九州からの畿内への移住、すなわち「神武東征」の中身であると考えるのである。
この移住は災害からの切羽詰まった避難であるから、統率のとれた移動ではなく、五月雨式に被災地から離れたわけで、初めから「移住団」のような組織的なものではなかったわけだが、少し落ち着いてみるとやはり目的地を決めたほうがいいに決まっている。
そこで航海に詳しい「シオツヂノオジ」(海路をよく知る人物)などの助言により、かなりまとまった「移住団」が編成され古日向から出発したのであろう。その後は上掲のような行路を辿り、畿内に入ったのである。この時期は仮に西暦150年に出発したとして、約25年後には畿内大和に橿原王朝の樹立となったから、それは西暦180年頃のことと思量する。
初代神武天皇を、私見では神武の息子とされ神武と一緒に大和入りした「タギシミミ」だと考えているのだが、この「神武」は古事記では137歳、書紀では127歳の寿命があったとしている。これはいつの時代でもあり得ない長寿である。
そこで他の天皇の寿命を見ていくと、仁徳天皇の寿命を調べてみて納得がいくことがあった。
それはこの超長寿から60歳(干支一巡)を引けばよいということである。古事記記載の仁徳天皇の寿命は83歳であり、書紀記載の寿命は143歳であり、書紀の143歳から60歳を引くと83歳。これは古事記の記載と一致するのである。東洋の暦年は干支(十干十二支)で表現されており、一巡が60年であるから、故意に一巡増やすことで超長寿を演出できてしまうから注意が必要である。
いわゆる上代の仁徳天皇まで、天皇16人の中には書紀の記載では100歳以上が12人(古事記では7人)もおり、これらすべては干支一巡の水増しと思われる。(※この点についてはいずれ検証したいが、ここでは先を急ぐ。)
神武天皇(私見ではタギシミミ)の治政期間は書紀によると76年だが、これも60年引けば16年。これを神武即位の西暦180年に足すと196年。次の綏靖天皇(カムヌマカワミミ)の治政期間は33年なので、西暦196年から229年まで、そして三代目の安寧天皇は治政期間38年とあるから、西暦229年から262年までが三代目となる。
したがって九州に邪馬台国があった時代(卑弥呼と台与の時代)、畿内大和には南九州(古日向)からの移動による「橿原王朝」が生まれ、三代目までの時期と重なっている。
以上から、九州に邪馬台国が栄えていた時代には、大和には南九州由来の王権が三代目まで経過していたということができる。決して空っぽ(王権空白地帯)ではなかったというのが結論である。
これについて邪馬台国九州説を採る研究者の多くは、「そんなの関係ねー」で済ましてしまう人が多い。特にあの一世を風靡した「古田史学」の信奉者は、畿内大和政権であれ、畿内大和王朝であれ、「大和」にアレルギー症状を持っているので、畿内大和は眼に入らない、いや、入れたくないようだ。
古田史学の「反大和」は徹底していて、少なくとも継体天皇まで、記紀に記す畿内王権なるものはすべて九州王権だったとしている。
しかし古田史学ではない九州説論者の多くは、九州にあった邪馬台国そのもの、もしくは邪馬台国が九州内で南九州に移動し、その後「東征」を果たして畿内大和に入り、「ヤマタイ」からの転訛で「ヤマト」になり、それが畿内王権の「大和」になり、所在地も「大和(地方)」と呼称されるようになったと考えている。
私は魏志倭人伝の九州島への行程から、南九州(古日向)には「投馬国(つまこく=戸数5万戸の大国)があったと比定しており、その王名の「彌彌(ミミ)」からして神武の子に「タギシミミ」「キスミミ」がおり、かつ「東征」後の畿内大和橿原王朝樹立後に生まれた皇子の名も「カムヤイミミ」「カムヌマカワミミ」(その次の代にも「イキシミミ」がいる)と、まさにミミ名のオンパレードなるのを見て、いわゆる「神武東征」の造作説を捨てた。
ただ「神武東征」とカッコつきで書いたのは、南九州からの東征は俗に言う「武力討伐」ではなく、南九州特有の火山活動や台風の襲来による生活苦からの避難、つまり「移住」的要素の強い移動がなされたと考えているからである。
この「移住」は南九州から古日向の東岸を経て北九州の岡田宮で1年、瀬戸内の安芸(広島=タケリ宮)で7年、吉備(岡山=高島宮)で8年、と実に16年もかかってようやく難波(河内)に到着するという長期の移動であった。これを「東征」というのには無理があり、移住がふさわしいであろう。最終目的地は火山活動も台風の襲来もない大和地方だったのである。
この移住は先住の勢力(ナガスネヒコ=中津根彦)からすれば招かざる客であり、河内に入った途端に攻撃されて紀州方面へ大きく迂回をしなければならなかった。しかし早くに南九州から葛城地方に入り、出雲勢力と連携をしていたカモタケツヌミ(のちに京都に移住し、下鴨神社の祭神となる)の援助を受け、何とか大和地方入りを果たす。
しかしその後も大和先住勢力との確執は続き、書紀の記載では約7年かかってようやく定着し、「橿原王朝」を樹立する。大和先住勢力(八十梟師)の中には「エウカシ」「オトウカシ」という名が見えるが、これはのちにアイヌと呼称される人々の先祖の可能性が強い。
とにかく南九州の古日向人が最初の王権「橿原王朝」を築いたころの大和地方には、すでに各地からの流入者を含む先住勢力があったのであって、九州に邪馬台国を含む多くの王国があった頃の畿内大和は、空っぽ(王権空白地帯)ではなかったのである。
さて、では南九州の古日向にあった大国「投馬国」が畿内を目指して移動を開始したのはいつ頃であろうか。
私はこの時期を倭人伝や後漢書のいう「桓・霊の間、倭人は乱れた」いわゆる「倭人大乱」の頃であると考えている。「桓・霊の間」とは後漢の桓帝と霊帝の統治期間中ということで、具体的な年代は西暦148年から186年である。
このうちでも早い時期に南九州だけなのか九州全体なのかは判断でき兼ねるが、特に南九州で何か壊滅的な災害(火山噴火・大津波・巨大台風)があり、移住を余儀なくされたのではないかと考えている。
拙著『邪馬台国真論』(2003年刊)では、この南九州を襲った壊滅的な災害をその時期(140年代)に比定したのだが、このことを裏付ける考古学的な証拠が、現在進行中の東九州自動車道建設前の発掘調査で得られたように思う。
場所的には鹿屋市と曽於郡大崎町にまたがるのだが、道路建設予定地の発掘現場で確認された弥生時代三期、すなわち「前期・中期・後期」の出土遺物・遺構の量的比率がひどく偏っており、中期(紀元前200年~0年)までは非常に盛況なのだが、後期(0年~200年)となるとまさにぱったりと遺物・遺構が出なくなるのである。
ということは西暦0年から200年までの間、人は住んでいなかったか、住んでいても中期に比べればごくわずかしかおらず、人々の多くの足跡は消えてしまった。つまり人々は死に絶えたわけではなく、南九州からどこかへ移動したということになるだろう。
これが南九州からの畿内への移住、すなわち「神武東征」の中身であると考えるのである。
この移住は災害からの切羽詰まった避難であるから、統率のとれた移動ではなく、五月雨式に被災地から離れたわけで、初めから「移住団」のような組織的なものではなかったわけだが、少し落ち着いてみるとやはり目的地を決めたほうがいいに決まっている。
そこで航海に詳しい「シオツヂノオジ」(海路をよく知る人物)などの助言により、かなりまとまった「移住団」が編成され古日向から出発したのであろう。その後は上掲のような行路を辿り、畿内に入ったのである。この時期は仮に西暦150年に出発したとして、約25年後には畿内大和に橿原王朝の樹立となったから、それは西暦180年頃のことと思量する。
初代神武天皇を、私見では神武の息子とされ神武と一緒に大和入りした「タギシミミ」だと考えているのだが、この「神武」は古事記では137歳、書紀では127歳の寿命があったとしている。これはいつの時代でもあり得ない長寿である。
そこで他の天皇の寿命を見ていくと、仁徳天皇の寿命を調べてみて納得がいくことがあった。
それはこの超長寿から60歳(干支一巡)を引けばよいということである。古事記記載の仁徳天皇の寿命は83歳であり、書紀記載の寿命は143歳であり、書紀の143歳から60歳を引くと83歳。これは古事記の記載と一致するのである。東洋の暦年は干支(十干十二支)で表現されており、一巡が60年であるから、故意に一巡増やすことで超長寿を演出できてしまうから注意が必要である。
いわゆる上代の仁徳天皇まで、天皇16人の中には書紀の記載では100歳以上が12人(古事記では7人)もおり、これらすべては干支一巡の水増しと思われる。(※この点についてはいずれ検証したいが、ここでは先を急ぐ。)
神武天皇(私見ではタギシミミ)の治政期間は書紀によると76年だが、これも60年引けば16年。これを神武即位の西暦180年に足すと196年。次の綏靖天皇(カムヌマカワミミ)の治政期間は33年なので、西暦196年から229年まで、そして三代目の安寧天皇は治政期間38年とあるから、西暦229年から262年までが三代目となる。
したがって九州に邪馬台国があった時代(卑弥呼と台与の時代)、畿内大和には南九州(古日向)からの移動による「橿原王朝」が生まれ、三代目までの時期と重なっている。
以上から、九州に邪馬台国が栄えていた時代には、大和には南九州由来の王権が三代目まで経過していたということができる。決して空っぽ(王権空白地帯)ではなかったというのが結論である。
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