今月は、先月の第5回で提示した邪馬台国論における持論の中の中心的なテーマ5つ(邪馬台国位置・投馬国の位置・伊都国の位置・イキマの意味・大倭の意味)のうちの「伊都国の位置」を取り上げる。
伊都国とは帯方郡使が邪馬台国を訪問した際に、九州島の末盧国(唐津市)に上陸したあと、末盧国から東南に500里歩いた先にある国で、ここには外交施設のようなものがあったらしく、必ず宿泊する所として描かれた国である。戸数は1000戸の小国であった。
この伊都国を「イト国」と読み、同じ音価から福岡県の西部海岸沿いに位置する糸島市に比定されているのだが、次の2点からこれに対しては大きな疑問がある。
まず第一点は、末盧国は佐賀県唐津市に比定されるのだが、ここから徒歩で行くとすると方角は東南ではなく東北になること。
これについては誰もが気付いているのだが、糸島市(旧前原町)で発掘された三か所の弥生王墓(甕棺墓)の副葬品の余りの豪華さから、「帯方郡からの使いが留まる(宿泊する)場所としては最適だ」として、方角を無視してしまうのである。
次に第二点。もし糸島市が「伊都国」であるのなら、壱岐の島から唐津に行かずに糸島へ直接船を着ければいいだけの話であって、何もわざわざ唐津で船から降りて福岡県と佐賀県境の山が海に迫った難路を歩く必要があるのか、という点である。
現地に行ったことのない人でも九州の地図帳を開けば、唐津市から東隣りの浜玉町までは虹ノ松原などの見える平坦な道だが、そこから福岡県境に近づけば急に山が海岸に迫り、県境を越えて二丈町に入ってもずっと同じような難路である。こんな大変な道をなぜ貴重な魏王朝からの下賜品の数々を背負って歩かなければならないのだろうか。
以上の2点から「伊都国」が糸島市ではないことは明らかだろう。
(※以上の第一点について、唐津市からだと東北になるのでなんとか東南にしようと、唐津市よりかなり北にある呼子町辺りを末盧国と比定する人もいるが、そうすると確かに最初の行程は唐津への東南陸行になるが、しかし唐津からはやはり東北は東北であり、総合的に見て東でしかなく、東南陸行から逸脱する。第一、上の第二点目の疑問のほうはますます大きくなるのだ。やはり呼子などで下船せず、直接糸島に船を着ければよいだけの話である。)
糸島市では、ほとんどの邪馬台国論者が「伊都国は糸島で決まり」というものだから、かなり前に「伊都国歴史資料館」なる施設を建設してしまっており、私が訪れた時に資料館の職員の方に「末盧国は唐津市ですよね。唐津からだとここは東北にあたるんじゃないですか?」と、直接「ここは伊都国ではないでしょう」と言うのを避けて訊ねたことがあった。
すると職員は気まずそうにして口ごもり、「そう考える人もおりますよね」と返したのだった。私はそれ以上訊ねることはしなかった。しかし伊都国の是非云々を考えずとも、この資料館に展示されている「弥生王墓」からの副葬品の量と質には圧倒されること請け合いである。一見の価値は十二分にある。
ただしこの豪華副葬品を伴った王墓群は時代的には2世紀以前に属し、魏志倭人伝上の邪馬台国時代より100年以上前の時代の物である。
また糸島は古代には怡土郡であったので、「イト」という音価がずっと使われていたと思われがちだが、実は日本書紀の「仲哀天皇紀」と「筑前国風土記逸文」には「イトではなくイソである」と書かれているのである。
この「イソ」の語源だが、両書によれば仲哀天皇がここを訪れた時に土地の豪族「五十迹手(イソトテ)」がまめまめしく、いそいそと世話をしてくれたので、感心した天皇が「お前は伊蘇志(いそし)き男であるから、この地を「伊蘇」と名付けよ」と言い、その名が付いたとある。
以上から、糸島はもと「イソ(五十)」だったことが分かる。
また豪族「五十迹手」が言うには「自分の祖先は韓国の意呂山に天下りました」とあり、このことから「五十(イソ)」の名を持つ二人の天皇「第10代崇神天皇=ミマキイリヒコ五十(イソ)ニヱ」とその次代の「第11代垂仁天皇=イクメイリヒコ五十(イソ)サチ」はここの出身だったとも判明するのである。
伊都国資料館の2キロほど北東に高祖山がそびえ、その山襞の中に「高祖神社」という何かの祭りで有名な神社があるが、この神社の祭神は「高磯姫命」(タカイソヒメノミコト)といい、まさにこの地が「イソ」(高は美称、姫は言うまでもなく女神の意味)であったことを教えている。
だから「伊都国歴史資料館」は「五十(イソ)国歴史資料館」とすべきなのである。そして豪族「五十迹手」が自ら語ったように、先祖が韓半島南部の三韓(馬韓・弁韓・辰韓)の出身なのであるから、おそらく祖先が同族だった上記「五十」をその名に持つ崇神天皇・垂仁天皇の事績をも取り入れて欲しいものだ。また、糸島市の北岸の志摩町には秀麗な山容の山「可也山」(カヤサン)もあるから、彼我の海を介した交流を探るべく魏志倭人伝のみならず「魏志韓伝」の内容も考慮すべきだと考える。
以上から「伊都国」は「イト国」と読んで糸島市に比定するのは誤りであると結論できる。この結論に立つと、これまでさんざん無理・無茶な解釈がなされて来た行程論における矛盾はすべて解消され、邪馬台国畿内説は全く成立せず、九州説においても統一の道筋が出来上がる。これまで伊都国を糸島市に比定したことでいかに多くの行程解釈に誤謬が発生して来たかを思うと愕然とする。糸島市を伊都国に擬したら邪馬台国には永遠に辿り着けないのである。
それでは「伊都国」をどう読み、またどこに比定したらよいのか?
まず読みだが、私は古事記の神々(伊都之尾羽張=いつのおはばり、伊都之男建=いつのおたけび、伊都之竹鞆=いつのたけとも・・・など)の読み方に注目して「伊都」を「イツ」と読む。
「イツ」とは上記神々の名称から分かるように「厳格な・威力のある」という意味の「イツ」である。この属性を持った国が「伊都(イツ)国」ということで、これに関しては位置の比定のあとで触れることになる。
さて魏志倭人伝によると、唐津市の末盧国に上陸した後は東南に陸行(徒歩)500里で「伊都国」である。唐津市から東南というと、松浦川を遡行することになる。そう大きな川ではないが平野部を過ぎるといきなり谷間を縫うような川である。隘路も隘路、かつ水が岩を絡む谷川沿いの道は難渋を極めたに違いなく、ようやく上流部に差し掛かるとそこにちょっとした盆地がある。
そこは今の東松浦郡厳木町。この町の読みは「きゆらぎ」と読み、他では全く見られない読み方の町の名である。私はこの「厳木」を「イツキ」と読む。「厳」を「イツ」と読むのは安芸の宮島にある「厳島神社」の例があり、そうすると「木」と併せて「厳木」は「イツキ」となる。すなわち「伊都城」(イツキ)である。
したがって戸数千戸とされる小国「伊都(イツ)国」は「厳木町」に比定してよいことになる。
自分は以前に書いた『邪馬台国真論』の中で、「伊都国は厳木町から峠を越えたところにある多久市か、まだその先の小城市ではないか、ただ厳木町も捨てがたい」というように書いたのだが、今やもう伊都国は「厳木町」でよいと考えている。
ではなぜこのような山中の厳木町に伊都国があったのだろうか。
これについてはかなり長い考証が必要なので、ここでは詳しくは書けないが、先月の第5回で述べたように北部九州倭人連合である「大倭」との戦争によって敗れたために、それまで吉野ケ里を含む佐賀平野全域を領土とする大国だったのが、「改易」されてこのような山間の小国になってしまったのだろうとだけ、ここでは述べておく。
また、倭人伝では伊都国の官(王)を「爾支」(ニキまたはヌシ)と言ったと書かれているが、私は「ヌシ」説を採用し、この王の称号は「大国主(オオクニヌシ)」を連想させ、「九州北部倭人連合(大倭)」によって敗れたのちに、王族の多くは厳木町ではなく出雲に流されたのではないかとも考えている。「イズモ」は「イツナ(伊都国)」の転訛と考えるからである。
伊都国とは帯方郡使が邪馬台国を訪問した際に、九州島の末盧国(唐津市)に上陸したあと、末盧国から東南に500里歩いた先にある国で、ここには外交施設のようなものがあったらしく、必ず宿泊する所として描かれた国である。戸数は1000戸の小国であった。
この伊都国を「イト国」と読み、同じ音価から福岡県の西部海岸沿いに位置する糸島市に比定されているのだが、次の2点からこれに対しては大きな疑問がある。
まず第一点は、末盧国は佐賀県唐津市に比定されるのだが、ここから徒歩で行くとすると方角は東南ではなく東北になること。
これについては誰もが気付いているのだが、糸島市(旧前原町)で発掘された三か所の弥生王墓(甕棺墓)の副葬品の余りの豪華さから、「帯方郡からの使いが留まる(宿泊する)場所としては最適だ」として、方角を無視してしまうのである。
次に第二点。もし糸島市が「伊都国」であるのなら、壱岐の島から唐津に行かずに糸島へ直接船を着ければいいだけの話であって、何もわざわざ唐津で船から降りて福岡県と佐賀県境の山が海に迫った難路を歩く必要があるのか、という点である。
現地に行ったことのない人でも九州の地図帳を開けば、唐津市から東隣りの浜玉町までは虹ノ松原などの見える平坦な道だが、そこから福岡県境に近づけば急に山が海岸に迫り、県境を越えて二丈町に入ってもずっと同じような難路である。こんな大変な道をなぜ貴重な魏王朝からの下賜品の数々を背負って歩かなければならないのだろうか。
以上の2点から「伊都国」が糸島市ではないことは明らかだろう。
(※以上の第一点について、唐津市からだと東北になるのでなんとか東南にしようと、唐津市よりかなり北にある呼子町辺りを末盧国と比定する人もいるが、そうすると確かに最初の行程は唐津への東南陸行になるが、しかし唐津からはやはり東北は東北であり、総合的に見て東でしかなく、東南陸行から逸脱する。第一、上の第二点目の疑問のほうはますます大きくなるのだ。やはり呼子などで下船せず、直接糸島に船を着ければよいだけの話である。)
糸島市では、ほとんどの邪馬台国論者が「伊都国は糸島で決まり」というものだから、かなり前に「伊都国歴史資料館」なる施設を建設してしまっており、私が訪れた時に資料館の職員の方に「末盧国は唐津市ですよね。唐津からだとここは東北にあたるんじゃないですか?」と、直接「ここは伊都国ではないでしょう」と言うのを避けて訊ねたことがあった。
すると職員は気まずそうにして口ごもり、「そう考える人もおりますよね」と返したのだった。私はそれ以上訊ねることはしなかった。しかし伊都国の是非云々を考えずとも、この資料館に展示されている「弥生王墓」からの副葬品の量と質には圧倒されること請け合いである。一見の価値は十二分にある。
ただしこの豪華副葬品を伴った王墓群は時代的には2世紀以前に属し、魏志倭人伝上の邪馬台国時代より100年以上前の時代の物である。
また糸島は古代には怡土郡であったので、「イト」という音価がずっと使われていたと思われがちだが、実は日本書紀の「仲哀天皇紀」と「筑前国風土記逸文」には「イトではなくイソである」と書かれているのである。
この「イソ」の語源だが、両書によれば仲哀天皇がここを訪れた時に土地の豪族「五十迹手(イソトテ)」がまめまめしく、いそいそと世話をしてくれたので、感心した天皇が「お前は伊蘇志(いそし)き男であるから、この地を「伊蘇」と名付けよ」と言い、その名が付いたとある。
以上から、糸島はもと「イソ(五十)」だったことが分かる。
また豪族「五十迹手」が言うには「自分の祖先は韓国の意呂山に天下りました」とあり、このことから「五十(イソ)」の名を持つ二人の天皇「第10代崇神天皇=ミマキイリヒコ五十(イソ)ニヱ」とその次代の「第11代垂仁天皇=イクメイリヒコ五十(イソ)サチ」はここの出身だったとも判明するのである。
伊都国資料館の2キロほど北東に高祖山がそびえ、その山襞の中に「高祖神社」という何かの祭りで有名な神社があるが、この神社の祭神は「高磯姫命」(タカイソヒメノミコト)といい、まさにこの地が「イソ」(高は美称、姫は言うまでもなく女神の意味)であったことを教えている。
だから「伊都国歴史資料館」は「五十(イソ)国歴史資料館」とすべきなのである。そして豪族「五十迹手」が自ら語ったように、先祖が韓半島南部の三韓(馬韓・弁韓・辰韓)の出身なのであるから、おそらく祖先が同族だった上記「五十」をその名に持つ崇神天皇・垂仁天皇の事績をも取り入れて欲しいものだ。また、糸島市の北岸の志摩町には秀麗な山容の山「可也山」(カヤサン)もあるから、彼我の海を介した交流を探るべく魏志倭人伝のみならず「魏志韓伝」の内容も考慮すべきだと考える。
以上から「伊都国」は「イト国」と読んで糸島市に比定するのは誤りであると結論できる。この結論に立つと、これまでさんざん無理・無茶な解釈がなされて来た行程論における矛盾はすべて解消され、邪馬台国畿内説は全く成立せず、九州説においても統一の道筋が出来上がる。これまで伊都国を糸島市に比定したことでいかに多くの行程解釈に誤謬が発生して来たかを思うと愕然とする。糸島市を伊都国に擬したら邪馬台国には永遠に辿り着けないのである。
それでは「伊都国」をどう読み、またどこに比定したらよいのか?
まず読みだが、私は古事記の神々(伊都之尾羽張=いつのおはばり、伊都之男建=いつのおたけび、伊都之竹鞆=いつのたけとも・・・など)の読み方に注目して「伊都」を「イツ」と読む。
「イツ」とは上記神々の名称から分かるように「厳格な・威力のある」という意味の「イツ」である。この属性を持った国が「伊都(イツ)国」ということで、これに関しては位置の比定のあとで触れることになる。
さて魏志倭人伝によると、唐津市の末盧国に上陸した後は東南に陸行(徒歩)500里で「伊都国」である。唐津市から東南というと、松浦川を遡行することになる。そう大きな川ではないが平野部を過ぎるといきなり谷間を縫うような川である。隘路も隘路、かつ水が岩を絡む谷川沿いの道は難渋を極めたに違いなく、ようやく上流部に差し掛かるとそこにちょっとした盆地がある。
そこは今の東松浦郡厳木町。この町の読みは「きゆらぎ」と読み、他では全く見られない読み方の町の名である。私はこの「厳木」を「イツキ」と読む。「厳」を「イツ」と読むのは安芸の宮島にある「厳島神社」の例があり、そうすると「木」と併せて「厳木」は「イツキ」となる。すなわち「伊都城」(イツキ)である。
したがって戸数千戸とされる小国「伊都(イツ)国」は「厳木町」に比定してよいことになる。
自分は以前に書いた『邪馬台国真論』の中で、「伊都国は厳木町から峠を越えたところにある多久市か、まだその先の小城市ではないか、ただ厳木町も捨てがたい」というように書いたのだが、今やもう伊都国は「厳木町」でよいと考えている。
ではなぜこのような山中の厳木町に伊都国があったのだろうか。
これについてはかなり長い考証が必要なので、ここでは詳しくは書けないが、先月の第5回で述べたように北部九州倭人連合である「大倭」との戦争によって敗れたために、それまで吉野ケ里を含む佐賀平野全域を領土とする大国だったのが、「改易」されてこのような山間の小国になってしまったのだろうとだけ、ここでは述べておく。
また、倭人伝では伊都国の官(王)を「爾支」(ニキまたはヌシ)と言ったと書かれているが、私は「ヌシ」説を採用し、この王の称号は「大国主(オオクニヌシ)」を連想させ、「九州北部倭人連合(大倭)」によって敗れたのちに、王族の多くは厳木町ではなく出雲に流されたのではないかとも考えている。「イズモ」は「イツナ(伊都国)」の転訛と考えるからである。
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