カテゴリーに「母性」が入っているブログはそう多くないと思うが、自分の場合(他の3人のはらから=姉・兄・弟も)母性に恵まれない生い立ちだったので、いつも気になっていることであり、特に取り上げている。
昨日のどの番組だったか失念したが、家庭に恵まれず養護施設などで成人(18歳まで)したあと社会に出る、つまりほとんどの場合職に就くのだが、就職後の離職率が普通家庭で育った者に比べ5倍から6倍も高いそうである。
ひとりのそういう渦中の女性がインタビューに応えていたが、一番の問題は「困った時に相談する人がいない」というのと、「仲間と打ち解けて話せない」とが挙げられていた。
養護施設では親相当の指導員がちゃんと面倒を見てくれており、相談にも乗ってくれるのだが、社会に出るとそういつまでも相談員のもとに通うわけにはいかないのだろうし、やはり「本当の親」ではないので気兼ねするに違いない。
この気兼ね(遠慮)も、実は親から捨てられたという感情を持っている彼らにとっては不変的な心理なのである。
社会に出てから「仲間と打ち解けて話せない」というのも根本的には同じ感情に基づいていると思う(自分がそうだった)。
職場の普通の家庭に育ったであろう仲間の一人が、「今日はお母さんの誕生日だから、プレゼントを買って帰るんだよ」などと話しかけてきても、せいぜい遠慮がちに相槌を打つくらい。そもそも両親がいないのだからそれ以上の会話は弾まない。
下手に会話を深めたら、自分がみなしごだ(親に捨てられた)という点にまで触れざるを得なくなるかもしれないーーと思い、触れられたくない過去に起因するトラウマが頭をもたげるのだろう。居たたまれない、というと大袈裟だが、その場にいるのが気まずくなるはずだ。
こういうことが何度も続くと、トラウマを隠さざるを得ない自分に嫌気がさし、引きこもるようになるかもしれない。自己否定が強すぎる場合、命取りにもなりかねない。
今の時代、障がい者への理解が進み、社会への進出もかなり緩和されてきた。障害の中でも特に「身体障害」はほぼ市民権を得たようで、町の中でもそれなりの工夫がなされて生きやすくなっている(もちろん親の理解がまず始めだが)。
それに比べると「精神障害」のほうは著しく制限されている。しかしパラリンピックでは精神障がい者に陸上種目があり、また水泳種目もあったりして、かなり社会に受け入れられるようになった(これも親のサポートがあってこそだが)。
家庭の都合で養護施設に入れられた子供の場合、上記のように成人(18歳)とともに社会への自立を慫慂されるのだが、親のサポートのない状態なのが普通である。
傍目から見たら心身に何の障害もないこのようなケースを「家庭障害」として他の障害と同列にするべきではないかと思う。そうすれば彼らの社会に出てから出くわすであろう様々なレベルの「自己否定的行動・心理」はかなり緩和されるだろう。
要するに安心して「自分の生い立ちはこうこうなんだ」と「自己をさらけ出す」ことが可能になれば、彼らの人には言えないトラウマが和らぎ始め、そんな中で同じ「家庭障害」を持つ他者との交流につながればさらにトラウマの縮小が期待できるのではないか。
トラウマ学説では「家族障害」と名付けているが、これは「家庭障害」でなくてはおかしい。
「家庭」でこそ子供は育つ。猫も犬も遺伝子的な血のつながりで親子(家族)があるが、犬猫やほかのどの哺乳動物も「家庭」は営めない。人間だけが「家庭」を持つことができるし、これなくして子供の養育は不可能である。
家庭の中では特に母親のハタラキは大きい。出産後の育児(哺乳・糞尿の始末・衣類の調達・言葉の教え・病気の手当て・炊事・洗濯・・・)の仕事量はまさに「半端ない」。
これらのことごとくをタイムリーに機嫌を取りながら、倦まずたゆまずやっているのだからなおすごい。しかも一銭も取らない。究極の奉仕活動だ。
およそ人間のすることで神仏の働きにもっとも近いのは、母親の育児だろう。だから子供はいつまでも母親には頭が上がらない(足を向けては寝られない)。/strong>
昨日のどの番組だったか失念したが、家庭に恵まれず養護施設などで成人(18歳まで)したあと社会に出る、つまりほとんどの場合職に就くのだが、就職後の離職率が普通家庭で育った者に比べ5倍から6倍も高いそうである。
ひとりのそういう渦中の女性がインタビューに応えていたが、一番の問題は「困った時に相談する人がいない」というのと、「仲間と打ち解けて話せない」とが挙げられていた。
養護施設では親相当の指導員がちゃんと面倒を見てくれており、相談にも乗ってくれるのだが、社会に出るとそういつまでも相談員のもとに通うわけにはいかないのだろうし、やはり「本当の親」ではないので気兼ねするに違いない。
この気兼ね(遠慮)も、実は親から捨てられたという感情を持っている彼らにとっては不変的な心理なのである。
社会に出てから「仲間と打ち解けて話せない」というのも根本的には同じ感情に基づいていると思う(自分がそうだった)。
職場の普通の家庭に育ったであろう仲間の一人が、「今日はお母さんの誕生日だから、プレゼントを買って帰るんだよ」などと話しかけてきても、せいぜい遠慮がちに相槌を打つくらい。そもそも両親がいないのだからそれ以上の会話は弾まない。
下手に会話を深めたら、自分がみなしごだ(親に捨てられた)という点にまで触れざるを得なくなるかもしれないーーと思い、触れられたくない過去に起因するトラウマが頭をもたげるのだろう。居たたまれない、というと大袈裟だが、その場にいるのが気まずくなるはずだ。
こういうことが何度も続くと、トラウマを隠さざるを得ない自分に嫌気がさし、引きこもるようになるかもしれない。自己否定が強すぎる場合、命取りにもなりかねない。
今の時代、障がい者への理解が進み、社会への進出もかなり緩和されてきた。障害の中でも特に「身体障害」はほぼ市民権を得たようで、町の中でもそれなりの工夫がなされて生きやすくなっている(もちろん親の理解がまず始めだが)。
それに比べると「精神障害」のほうは著しく制限されている。しかしパラリンピックでは精神障がい者に陸上種目があり、また水泳種目もあったりして、かなり社会に受け入れられるようになった(これも親のサポートがあってこそだが)。
家庭の都合で養護施設に入れられた子供の場合、上記のように成人(18歳)とともに社会への自立を慫慂されるのだが、親のサポートのない状態なのが普通である。
傍目から見たら心身に何の障害もないこのようなケースを「家庭障害」として他の障害と同列にするべきではないかと思う。そうすれば彼らの社会に出てから出くわすであろう様々なレベルの「自己否定的行動・心理」はかなり緩和されるだろう。
要するに安心して「自分の生い立ちはこうこうなんだ」と「自己をさらけ出す」ことが可能になれば、彼らの人には言えないトラウマが和らぎ始め、そんな中で同じ「家庭障害」を持つ他者との交流につながればさらにトラウマの縮小が期待できるのではないか。
トラウマ学説では「家族障害」と名付けているが、これは「家庭障害」でなくてはおかしい。
「家庭」でこそ子供は育つ。猫も犬も遺伝子的な血のつながりで親子(家族)があるが、犬猫やほかのどの哺乳動物も「家庭」は営めない。人間だけが「家庭」を持つことができるし、これなくして子供の養育は不可能である。
家庭の中では特に母親のハタラキは大きい。出産後の育児(哺乳・糞尿の始末・衣類の調達・言葉の教え・病気の手当て・炊事・洗濯・・・)の仕事量はまさに「半端ない」。
これらのことごとくをタイムリーに機嫌を取りながら、倦まずたゆまずやっているのだからなおすごい。しかも一銭も取らない。究極の奉仕活動だ。
およそ人間のすることで神仏の働きにもっとも近いのは、母親の育児だろう。だから子供はいつまでも母親には頭が上がらない(足を向けては寝られない)。/strong>
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