鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

ウガヤフキアエズの4人の皇子の消息

2021-03-20 13:23:43 | 古日向の謎
以前ホームページ「鴨着く島おおすみhttp://kamodoku.dee.cc/index.html」を作成していたのだが、今はもう記述はできなくなった。しかしホームページそのものは開けばダウンロードはでき、眺めていたら「記紀を読む」という連載物で、【神話の部】の最後がヒコホホデミノミコト(山幸彦)の項で終わっているのに気付いた。

あと一息、ホホデミの子の代であるウガヤフキアエズノミコトの物語について書き加えたいと考え、今日、このブログで補いとした。


〈 ウガヤフキアエズノミコトは南九州日向で成長し、その後叔母のタマヨリヒメと夫婦となり4人の皇子をもうけた、とされている。

その四人とは「イツセノミコト(五瀬命)」、「イナヒノミコト(稲氷命)」、「ミケヌノミコト(御毛沼命)」、「ワカミケヌノミコト(若御毛沼命)」の四皇子である。

このうち最後の皇子「若御毛沼命」がいわゆる神武東征の主人公で、大和に橿原王朝を築いたのちに「神武天皇」(和風諡号ではカムヤマトイワレヒコ)と言われるようになる。

東征の理由として、古事記ではあっさりと「どこに征けば、天の下を平らかに統治できるだろうか。東を目指そう」と書くのだが、日本書紀の方はその経緯を詳しく記している。要点は次のようである。

【豊葦原瑞穂の国をニニギノミコトが授かって降臨し、荒々しかったこの国の西に長く歳を経て来た。しかしながら遠くの国々では互いに争い合っている。シヲツチノオヂに聞けば、東方に四周に青山を巡らせているうるわしい土地があるそうだ。そこはすでにニギハヤヒという者が降り下っていて、国の中心であるらしい。そこなら大業(あまつひつぎ)を継続して行けるだろう。】

南九州日向に居ては国の統一がままならないゆえに、列島の中心である地に行って新しい天下を始めようという意気込みが伝わる書きぶりである。

しかし私はこの東征の理由に加えて、実はのっぴきならないことが南九州で発生したのでそれから逃れるといった事態を考えている。つまり「神武東征」というより「東遷」か「移住」と言うべきだと思っている。

その事態とは、一つは火山の噴火、もう一つは南海トラフ地震による津波のような大災害だろうと考える。事実、南九州の弥生遺跡の時代区分で前期(2400年前~2200年前)・中期(2200年前~2000年前)・後期(2000年前~1800年前)のうち後期の遺跡(遺構・遺物)はゼロに等しいくらい少ないのである。人々が大挙して南九州から移動したとしか思われないのだ。

さてその東征だが、古事記と日本書紀では東征を主導した神武の他に兄のイツセノミコト(紀州の窯山で戦死)と神武の子であるタギシミミ(後継争いで、カムヌナカワミミによって被殺)が加わっていたとするのは共通なのだが、他の皇子「イナヒノミコト」と「ミケヌノミコト」について両書は全く違う書き方をしている。

まず二男のイナヒノミコトだが、古事記では南九州にいる間に「稲氷命は母の国として海原に入りまし」ている。

ところが日本書紀では、東征後、4年近く経過して紀伊半島の熊野に向かった時に船が暴風に翻弄されてしまうのだが、その時、イナヒノミコトは「ああ、私は天津神の子であり、母は海の神だ。それなのにどうして陸や海で苦しまなければならないのか」と慨嘆し、所持していた剣を引き抜いてそのまま海に飛び込み「鋤持神(さひもちのかみ)」に化したとする。

古事記も日本書紀もイナヒノミコトが海に入ったとするのは共通なのだが、古事記では南九州にいる間のことのように書き、日本書紀では東征途上の船の上から海に入ったとする。前者は至極坦々としているが、後者はドラマチックな書き方である。

しかし、いずれにしてもこのイナヒノミコトが海に入った後の消息は記されていない。

ところが、9世紀前半に編纂された『新撰姓氏録』には次のような氏名が登場する。

【新良貴 (しらぎ)】・・・ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトの男(こ)、イナヒノミコトの後(すえ)なり。これは新良国(新羅)にて国主となりたまひき。イナヒノミコトは新羅国王の祖なり。日本紀に見えず。(同書第5巻・右京皇別下)

とある。最後に日本(書)紀では確認できないことだが、と断りを入れているが、記紀ともに海(海原)に入ったとしていることから、列島を離れて海外に行ったらしいことは考えられ、行くとすれば母タマヨリヒメ(海神の娘)の故郷とされる竜宮(琉球)が真っ先に浮かぶが、しかし距離と行き易さからすれば朝鮮半島の方が容易である。

私はこの姓氏録の「新良貴」の解釈にしたがう。

朝鮮の史書『三国史記』(金富軾著・1145年成立)の「新羅本紀」には、初代「赫居世王」の時に、「瓢公(ホゴン=ひょうたん公)」という名の使臣がいたが、この人は倭人であり、海を渡って来て王に仕えたのだという。

また、第4代の「脱解(トケ・タケ)王」は「倭国の東北千里にある多婆那国で生まれた」とあり、倭人そのものだったとしている。その脱解が半島に渡来した経緯はおとぎ話じみていて信ずるに足らないが、日本列島のどこかにある多婆那国からやって来たことは信用してよい。多婆那国を京都の丹波に比定する説が多いが、それでは「倭国の東北千里」に合致しない。

私見ではこの多婆那国は熊本県北部の玉名市である。

三国史記による第4代脱解王の時代は西暦150年代であり、この頃の倭国の中心は九州にあった。北部の博多奴国、吉野ケ里を含む古伊都国、筑後川流域の朝倉・甘木(旧国名は不明)、そして筑後川南岸で邪馬台国の前身の男王が統治していた古邪馬台国、そして熊本中部から南九州にかけての火山地帯に展開する古クマソ国が主な国々であった。

その中で古クマソ国の一領域である八代を中心とする「火(肥)の国」が当時、半島への交流の一大窓口として倭国の中心だったのではないか。欽明天皇の時代に朝鮮半島の百済で「達率」という最高ランクの使臣として活躍していた「日羅(にちら)」の父親は、八代より少し南の葦北国造であったことも参考になろう。

この八代から有明海を船で一日走らせれば玉名に到達する。水行の一日は倭人伝では「水行千里」であったから、「東北に千里」(水行千里)にある玉名市は新羅の第4代脱解王の出身地と考えても無理ではない。

なお、不思議というか面白いのは、この脱解王は即位後二年目にあの初代赫居世王に使臣に取り立てられ、その後百済に仕えていた「瓢公」を再び重臣として「大輔」に任命していることである。同じ九州島出身の倭人ということで寵遇したのであろうか。

さて、『三国史記』では、高句麗始祖「朱蒙」と百済の始祖「温祚」について同族であると記し、その即位年代はBC38年およびBC18年と確定しているが、新羅の始祖・赫居世王の即位年は特定していない。しかし他の二国よりは遅れて建国されたとはいえ、両国とさほどの隔たりは無いと考えられるから、およそ紀元ゼロ年を目安にしてよいと思われる。

そう考えた場合、赫居世王、瓢公、脱解王のいずれが姓氏録の「新良貴」の後裔、すなわちイナヒノミコトの後裔であろうか。いずれにしても半島との交流は紀元前後すでに活発であった考えてよいだろう。


次に、三男のミケイリヌノミコトだが、古事記では東征の前に「常世国に渡りましき」とし、日本書紀では東征途上の熊野の海上で兄と同じように船から離れ、こちらは「常世郷(くに)に往きましぬ」とあり、ともに列島を離れて海外に渡ったとしている。

常世(とこよ)については、垂仁天皇の時代、記紀ともに記すように三宅連の祖先であるタジマモリを常世国に派遣し「トキジクノカクノコノミ」(橘か)を採って来させたという共通の記述がある。常世国については古事記には記載がないが、書紀には次の記述がある。

【遠く絶域に往き、万里の浪を踏みて、遥かに弱水(よわのみず)を渡れり。この常世国はすなわち神仙の秘区にして、俗の至る所にあらず。往来する間に、おのづから十年(ととせ)を経たり。あに、独り峻爛を凌ぎて、また本土に向かはむことを期せめや。】

と記述があるように、往来に十年もかかるような絶遠の地であり、行くのはいいが二度と帰って来られないような荒波の向こうであることが分かる。そこもやはり列島を離れた海外であることには変わりなく、二男とともに三男までもが海外に行っているということである。これはまさにウガヤフキアエズノミコトの時代相を表していると考えられる。

なお、「弱水(よわのみず)」であるが、これは『延喜式』の第8巻「神祇八 祝詞」の中に「東文忌寸部献横刀時呪」(やまとのふみのいみきべの・たちを・たてまつるときの・じゅ)というのがあり、その中に登場する、短いのでこの呪の全文を次に掲載する。

【謹みて請ふ。皇天上帝、三極大君、日月星辰、八方諸神、司命司籍、左は東王父、右は西王母、五方五帝、四時四気、捧ぐるに銀人を以てし、禍災を除かむことを請ふ。捧ぐるに金刀を以てし、帝祚を延べむことを請ふ。

呪して曰く、東は扶桑に至り、西は虞淵に至り、南は炎光に至り、北は弱水に至る。千城百国、精治万歳、万歳、万歳。】

この呪は道教的な世界観で作成されたもののようだが、東西の文忌寸部が奏上する祝詞で、内容的には天皇に禍災が起こらず、後裔が末永く続くように横刀を捧げる際に読み上げられるものである。

さて肝心の「弱 水」は下線部に見える。東西南北至る所まで天皇の権威が行き渡るように、という部分であるが、弱水は理想とする統治領域の北限であることが分かる。

この道教の世界観は漢王朝時代から三国時代にかけて成立したとされ、大陸から見て東は「扶桑」(日本列島)、西は「虞淵」(西アジア)、南は「炎光」(東南アジア)であり、北の「弱水」は朝鮮半島よりはるか北のアムール川辺りを指すのではないかとされる。

しかしそんな北国では「トキジクノカクノコノミ」すなわち「橘」が生育するはずがない。とすると垂仁天皇紀にあるように「神仙の秘区」つまり現実の国ではなく、天界或いは神界に属する別世界と考えるべきだろうか。

いずれにしても、兄のイナヒノミコトと同様、ミケヌノミコトも列島(南九州)からはいなくなったと書かれていることになる。私見で、「神武東征」とは南九州投馬国の移住だったとするのだが、この大移動を含め、南九州のウガヤフキアエズノミコト統治の時代状況は、天地動乱の時だったと考えてよいのかもしれない。〉

一喜一憂

2021-03-19 17:24:44 | 日本の時事風景
今朝の新聞の一面には「東海第2原発運転不認可」と「伊方原発3号機運転容認」の大きな見出しが載った。

全く相反する決定である。

東海第2の方は、「避難計画に容認できない不備があり、30キロ圏内の住民94万の避難は困難」という理由で認めず、四国電力伊方原発の方は、同じ広島高裁で1年前に運転差し止めの決定が出されていたのを取り消した。

私のように原発反対の立場からすれば、すべからく東海第2の決定のようになって欲しいのだが、脱炭素の掛け声に押されて原発容認派が息を吹き返したようだ。

東海第2の場合は30キロ圏内の人口の多いことに加えて、爆発事故があった場合に首都圏域も汚染地帯になる可能性が大きく、そのことは取りも直さず日本の政府機能の停止を招くから当然と言えば当然の話である。

東海原発の次に30キロ圏内の人口が多いのは静岡県の浜岡原発で、圏域には83万の人口を擁するそうである。これに比べると伊方原発のは11万ということで、かなりの差がある。逃げやすいと言えば逃げやすい。

東海と浜岡の二つの原発はどちらも太平洋に近く、トラフ性の巨大地震が起きた場合に揺れと津波の両方の被害を受けるだろう。2基が審査中という浜岡の方も、この際停止したほうがよい。

南海トラフ地震、東南海トラフ地震、相模湾トラフ地震、首都直下型地震と30年以内には必ずやって来るであろう巨大地震に対する備えは待ったなしだ。

14日(日)のNHK大河ドラマ『青天を衝け!』の中で、水戸藩の藩主斉昭の懐刀であった藤田東湖が圧死した江戸の「安政大地震」は1855年10月に起きたが、その前年には東海地震・南海地震が立て続けに起きている。トラフ連動地震の後の余震だったらしいが、大きな被害を及ぼした。

この約70年後の東京では「関東大震災」が発生している(1923年9月1日)。こちらはマグニチュード(地震のエネルギー)は7程度だったが、多くの家屋が燃えて焼死者が続出した。死者は10万を優に超えた。

それからすでに約100年後の今日、もう関東大震災並みの地震がいつ起きてもおかしくない状況にある。相模湾トラフ地震でも首都直下型地震でもとにかく首都圏への被害は深刻なものだろう。ましてや東南海・南海両トラフ地震が連動したら、深刻どころの話ではなくなる。

さらにもしその時浜岡原発が稼働していたら、静岡県のみならず愛知県や神奈川県も放射能汚染にさらされる可能性が高い。死者もだが、避難民の数は膨大なものになり、そこら中で阿鼻叫喚の事態となるはずだ。大同小異で与野党が揃って奮起し、一刻も早く対処しなければなるまい。

新型コロナ感染対策にばかり目を向けていると、文字通り「足元をすくわれる」。


あさって21日で緊急事態宣言は解除となったが、年度末を控えており、「歓送迎会は自粛せよ」・「花見もするな」と言われても守るのは難しいに決まっている。せめて年度初めをやり過ごした4月10日くらいまでは延長して欲しかったのに残念だ。

年末年始ほどの増加は無いだろうが、4月に入ってすぐに2000人規模の感染者となるのではないかと危惧している。そうなると東京オリンピック開催に赤信号が灯ってしまう。その時になって「ロックダウン」しても、もう遅いかもしれない。

去年は、何と、3月31日という早い時点でIOCのバッハ会長が正式に東京オリンピックの1年延期を決めているのだ。同じ轍を踏むのだろうか。

今回の緊急事態宣言には、まさに一喜一憂だ。




『武器よさらば』ヘミングウェイ

2021-03-17 13:05:56 | 日記
一週間ほど前に郵便で本が送られて来た。開けてみたら中古の文庫本で『武器よさらば』だった(※奥付は新潮文庫平成18年版。訳者・高見浩)。

送り主はアマゾン内の書店で、注文主は家内であった。しかし宛先は自分宛てだ。家内に訊くと、私が注文してくれと頼んでおいたらしい。

いくら思い出しても頼んだ記憶がないのだが、タイトルの「さらば」を見て、はたと気が付いた。3月になって最初と次のブログに「さらば」を2度立て続けにタイトルに使っていたのだった。もしかしたらその流れでアマゾンの古書を見ている時に、「さらば」繋がりの勢いで取り寄せてみようと頭に浮かんだのかもしれない。

まるで夢遊病者か、ボケの始まりのような経緯だが、まあ高くもない値段だし、読んでみても損することは有るまいと、手に取ってみた。

日本文学は学生の頃はよく読んだが、欧米の文学は数えるほどしか読んだことがない。カミュの『異邦人』、『シジフォスの神話』、サリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』などしか記憶に残っていない。

『武器よさらば』は、タイトルこそ眼にしたことが多かったが、読んだことはなかった。

ちょうどよい機会だ。錆び付いた脳みそがどれくらい読むのに耐えられるか測ってみるのも悪くはない。時間がないわけじゃないし・・・。

というわけで、合間合間に4,5日かけて読み終えた感想というやつを書いてみる。

『武器よさらば』の時代背景は第一次世界大戦であり、場所は大戦中のイタリアである。イタリアでもおそらく北部に属する地方で、英仏米の連合国軍と南下してきたオーストリア軍との熾烈な戦いがあった場所でのことである。

そこに若きアメリカ人フレドリックが、前年にドイツ・オーストリアに対して宣戦布告をしたアメリカの野戦病院付の「傷病兵搬送要員」として赴任してきた。

そこでこの小説の全体を貫く恋愛が始まるのだが、それはフレドリック自身が迫撃砲の直撃を受けて「傷病兵」の一人となるに及んで、イギリス人看護婦と親密な関係になることで表現される。

さて、フレドリックがその迫撃砲を受けた同じ施設にたまたまいて瀕死の重傷を負ってしまったイタリア人(パッシーニ)は、両足を切断されるという悲劇に見舞われ、そこで絶命するのだが、その今はの際の断末魔の叫びは心を揺さぶられる。


(フレドリックは)すぐそばで誰かがうめいているのに気付いた。
(パッシーニ)「お母さん! ああ、マンマ・ミーア!」
       パッシーニは腕を嚙んでうめいた。
(パッシーニ)「ああ、マンマ・ミーア、マンマ・ミーア! 神様、助けて下さい。マリア様。マンマ・ミーア! ああ、誰よりも清ら       かな、うるわしいマリア様。マンマ・ミーア!」
       そして(パッシーニは)腕を噛んだまま静かになった。(p 93~94)


激しい痛みというよりかは、もうそれを超越したような魂の痛みに陥ったのだろう、パッシーニという青年の最期の心の叫びは、「マンマ・ミーア」(僕のお母さん)であり、聖母マリアによる救いであった。

これは特攻平和祈念館(鹿屋・知覧)に展示してある出撃青年の遺書に必ず見る「お母さん」を連想させる場面だ。実際にヘミングウェイが大戦のイタリアへ赤十字関係の要員として赴任した時に起きたことなのかは分からないが、自身も負傷しているのでパッシーニの絶叫は自分で経験済みだったのではないか。

また、傷病兵として赤十字野戦病院に入院している時に、見舞いに来た軍人軍属との会話で何と日本のことが書かれていた。


  「それから日本に対しても宣戦布告するさ」とぼくは答えた。
  「でも、日本はイギリスの同盟国だぞ」と彼らは言う。
  「イギリスなんか信用できるもんか。日本はハワイを欲しがっているんだから」とぼくは言った。
  「どうして日本人はそこを欲しがるんだ?」
   ぼくは答えた。
  「本当は欲しがっちゃいないさ、日本人は。単なる風評だよ。日本人というのは踊りと軽い酒を好む小柄な感じのいい連中なんだけどね」(p.128 )


日本への宣戦布告をアメリカがするというのは無理な話だ。なぜなら「彼ら」が言うように日本は日英同盟により、イギリスに慫慂され、ドイツとオーストリアに対して戦争開始2か月後の1914年8月に宣戦を布告した。アメリカとは同じ敵国を持つ仲間になっていたのである。

「ぼく」が「日本はハワイを欲しがっている」と言ったのは、明治になってから日本人の移民がハワイに押し寄せ、勤勉な日本人の中で成功者がどんどん生まれたことに対するアメリカの人種差別感を含んだ反発が大きくなったことと無縁ではない。

(※ハワイに限らずアメリカ本土、特にカリフォルニアなども日本人移民の多い土地で、第一次大戦後の1924年にはカリフォルニア土地法が制定された。実質的な日本移民排除であった。)

そのことを見越したのが、ブラジルへの移民替えである。1908年のブラジル移民船「笠戸丸」はその象徴だった。だから第一次大戦当時の頃の日本からの移民と言えば、その多くはブラジル移民であった

「ぼく」も「単なる風評さ」と打ち消している。もうハワイより当時はブラジルはじめペルーなど南米が移民の主流だった。

「日本人というのは」と「ぼく」が話している内容が面白い。「踊り」とはおそらく「芸者の踊り」であり、「軽い酒」はもちろん日本酒だろう。「小柄な」は全くその通りで、「感じのいい連中」も、単に「ぼく」の主観ではないだろう。実際、日本人は欧米やその他どの国の連中よりも「正直」で「従順」だった(※西部劇によく出るインディアンの定番の殺し文句「インディアン、ウソつかない。白人、ウソつく」は日本人にも当てはまるだろう)。

こんな場面をこの小説に想像していなかったので、かなり驚いた。作家というのは何でも自分なりに解釈し、自説に取り入れるのが巧みだと思わされた。またこの小説には酒を飲む話が随所に描かれており、ワイン、グラッパ、コニャック、ウイスキー、ビールと酒の種類が豊富である。しかし日本の「軽い酒」つまり日本酒は話だけで、実際に飲む場面は出て来ない。

小説の半分からあとは、傷病の癒えたフレドリックが、負けの込んで来た戦線でイタリア人将校たちが責任を取らされ、「憲兵」に容赦なく殺害され始めたのを見て恐れをなし、そこから脱走する。そして脱走先で恋人のイギリス人看護婦キャサリンと落ちあい、何とか一緒に逃れるのだが、その時キャサリンはフレドリックの子を身ごもっていた。

途中のとある町の「伯爵」と呼ばれる老紳士との会話が考えさせられる。


(伯爵)「年を取れば信仰心が篤くなるものと以前は思っていたものです。ところが一向にそうはならない。甚だ遺憾なことにね」
(フレドリック)「死後の生というやつをお望みになりますか?」
(伯爵)「それは生の内容次第でしょう。いま現在の生は実に喜ばしい。このまま永遠に生きたいと思いますな。・・・(中略)・・・あなたも私くらいの年まで生きれば、不可思議に思えるものがたくさん出て来るはずです」(p.428)


伯爵と呼ばれる人は相当な老いぼれだが、巧みにビリヤードをする人で、現状にすこぶる満足していた。多くの老人が「死後の生」を考えるようになっても、今の「喜ばしい生」なら永遠にこのままでいたいとのたもう。

ただ、年を取れば「不可思議に思えるものがたくさん出て来る」そうだが、その内容には触れられていない。そのあたりは老年を生き始めた私なども関心を持たなければなるまい。

フレドリックの「妻」キャサリンは臨月を迎えるが、おなかの赤ん坊が大きくなり過ぎていると感じ、「ビールを飲めば大きくならないから」と信じてビールを飲む場面があるが、これは本当にそうなのか?

しかしその願いも空しくとある病院で帝王切開で産むことになったが、子どもは死産で、体重は5キロもあったうえ、産婦本人も間もなく息を引き取ってしまう。

小説『武器よさらば』は世界大戦という戦時下に起きた「戦争が無ければ有り得なかった死」の諸相を描くことで、戦争の忌避を訴えたドキュメンタリー色の強い文学である。日本の小説の分類では戦記文学と言えばいいのだろうか。しかし全編を貫く「恋愛」はやはり戦記文学を突き抜けているようだ。

ワクチン外交の不手際

2021-03-14 13:34:29 | 日本の時事風景
今朝のNHKの日曜討論を見ていたら、自民党の世耕参議院議員が、なぜ日本はワクチン開発に乗り出さなかったのかと問われ、「日本人の間でワクチンに対する拒否感が強くて、製薬会社が製造に取り組まなくなった」というようなことを言っていた。

あの10代女性に対する「子宮頸がんワクチン」(HPVワクチン)による副作用被害があり、その後の訴訟が全国的に起こされた、ということを念頭にそう言ったのだろう。

あのワクチンは外国製で、欧米では一般的なワクチンだったのだろうが、日本ではかなりの副反応による被害を生んでしまった。もちろん政府の承認が無ければワクチン接種認可も下りなかったわけで、これは単に輸入した製薬会社の問題ではない。政府の対策こそ問われなければなるまい。

今度の新型コロナウイルスに対するワクチンも、すべて外国製で、それを「ベスト・エフォート」契約したようで、向こうの都合によって出荷が止められ、結果として計画的な輸入(購入)の目途が立たなくなってしまった。

いま日本政府は慌ててインドに日本向けへワクチンの増産を依頼しているらしい。欧米の対応に右往左往しているようにしか見えない。

日本はここ15年位、毎年のようにノーベル賞受賞者を輩出するほどの「科学大国」でありながら、ワクチン一つ作れなくなってしまったのだ。

ソ連が真っ先にスプートニクという名のワクチンを実用化し、次いで中国が、そしてインド、ドイツ、イギリス、アメリカと目ぼしい大国はみなワクチン戦略で優位に立とうと思しのぎを削っているというのに、ただ指をくわえて見ているのが日本だ。

去年の今頃は学校の休校措置が行われ、部活も自粛され、世間でも自粛と「三密回避」の掛け声が連日飛び交い、そのせいもあって先進国ではけた違いに感染者も死者も少なかった。4月の末頃になると安倍首相の「日本型感染対策は誇るべきものだ」というような自惚れともとれる発言を生んだ。

しかし世界の感染状況はより一層ひどいものになり、安倍首相の「日本はもう大丈夫だ」との自信をよそに、東京オリンピックの延期が決まった。

この自画自賛の前に、なぜ日本は総力を挙げてワクチン開発に向かわなかったのだろうか。東京オリンピックを開催するためにも、早くワクチンを開発して欧米の感染を抑え込まなくてはとの気概をなぜ持たなかったのだろうか。不思議でならない。(※同じ頃、アメリカ製の治療薬レムデシビルが緊急承認されたが、日本製のアビガンは無視された。)

あの頃、たいていの日本の感染症学者は「ワクチンができるのはどんなに早くても1年、通常は2~3年はかかる」と口を揃えて言っていたように思うが、実際はアメリカのファイザー社製が10か月くらいでできているではないか。これら感染症学者たちは、まるで日本でのワクチン生産よりアメリカの製薬会社のワクチン生産を支持していたかのようだ。

レムデシビルにせよファイザー社、モデルナ社のワクチンにせよ、日本は「言い値で、いいように」買わされているような気がする。戦闘機などの兵器と同じうように。

1年延期されて今年の7月23日に開会を迎える東京オリンピックは、菅総理によれば「人類が新型コロナウイルスに打ち克った証として開催する」そうだが、ワクチンも生産できない国が「打ち克った」と言っても、「感染を抑えたのはどこの国のワクチンだったのか。自分の国ではできなかったくせに」と突っ込まれはしないだろうか。

それとも「強固な同盟国アメリカのワクチンのおかげで東京オリンピックが開けますよ」と正直に言うのだろうか。情けない話だ。

IOCのバッハ会長が声明で、「東京オリンピック参加選手には中国製のワクチンを打ちたい」と言ってきたが、さすがに「それは無い」と丸川珠代五輪担当大臣が拒否反応を示したが、バッハ会長としてはどこの国のワクチンでも、とにかく開催できればそれでいい、ということだろう。

何しろオリンピック放映権をめぐってアメリカメディアから支払われる巨額なマネーも、オリンピックが開催されなければ元も子もなくなるのだ。それでいながら「ワクチンくらい中国製でも構わないだろう」と踏み込んでしまった。もしかしたらアメリカマネーからチャイナマネーに乗り移る気ではあるまいな、冬季北京オリンピックもあることだし・・・。

それはともかく、今度のワクチンを巡る対応を見ても、日本の外交の不手際は世界の中で際立っている。「アメリカとの強固な同盟関係」が外交音痴にしているのは、軍事も同列だ。

「尖閣諸島は強固な同盟国アメリカが守ってくれますよ」と呑気なのが日本だ。尖閣諸島を自民党政府がなかなか国有化しないでいるのにしびれを切らした石原都知事が、「あれを東京都が買い取る」と息巻いたことがあった。それでも自民党政府は国有化しなかった。

結局、民主党の野田政権になって国有化したわけだが、自民党政府のへっぴり腰外交には呆れる他ない。

いま種子島の離島「馬毛島」の国有化後の日米共同訓練場整備の問題で大揺れだが、国有化した途端に米軍との共同訓練場が計画された。こんな市民生活に近い所に対中国の共同訓練基地を整備するよりも、尖閣諸島に造ったらどうか。中国の「海警」に対抗するためにも。

東日本大震災から10年

2021-03-11 13:47:18 | 災害
今日は東日本大震災が発生してから10年の節目。

あの日、震災を知ったのは、仕事で外を巡回している最中で、岡山にいる息子からの携帯電話からだった。息子の会社の仙台工場が津波の被害を受け、工場内部にまで津波が押し寄せたという。

帰宅後、テレビではどこのチャンネルでも津波が海岸近くの町を押し流していく様子が映されていた。その時点ではいったいどれjほどの被害なのかはもちろん分からなかったが、その後、メディアでは死者行方不明あわせて25000名くらいな数で言われていた。

あの日の数日前に三陸沖を震源とするマグニチュード7の地震が続けて2回あったのだが、震源が深かったせいか、それなりの揺れはあったようだが津波の高さは微々たるものだった。

実はその3週間前の2月22日には、太平洋を遠く離れたニュージーランドのクライストチャーチという町でマグニチュード6.8とかの地震があり、それにより耐震構造の不備だった何とかいうビルが崩壊し、ビル内にあった語学学校の教室が壊滅し、日本人留学生28名が犠牲になっていた。

そのことを思い出して、「向こうはマグニチュードたったの6.8であの被害だが、こっちは最近マグニチュード7を超える地震が立て続けに起きて何の被害もなかった。直下型と海溝型の違いって大きいのだな」と感心したのをはっきり覚えている。

直下型(活断層型)はおおむね震源が浅いので、マグニチュードが小さくても揺れは非常に大きいのだが、それにしてもあれはひどい話だった。20歳くらいの若い学生たち(日本人だけではない)の犠牲は、親御さんたちのことを考えると胸が痛む。

ニュージーランドの地震と東日本大震災との関連はあるという人もあれば、無いという人もあり、どちらかは決めがたい。しかしつい最近、ニュージーランドの北方にあるニューカレドニア諸島の海域でマグニチュード7.7とか8.1とかの地震が発生しているのは不気味である。関連の無いことを願うばかりだ。

そして日本では2月13日夜の11時過ぎに、福島県沖を震源とするマグニチュード7.3の地震があり、最大で震度6強を記録したが、この地震を歌舞伎の市川海老蔵が「予言」したらしく、話題になっている。週刊誌によると、海老蔵はその日のツイッターで「何となくありそうな気がする」などとつぶやいたそうで、夜遅くにそれが当たったのである。

さらにまたこうも言っている。「5月頃に大きなのがあるかもしれない」と。彼にはそういった予知感が働くらしい。むやみに信じる必要はないが、侮れまい。あると思って避難と心の準備しておいて無駄にはならないだろう。

先の東日本大震災の数日前のマグニチュード7を超える2回の地震は、本震の前の「前震」に当たるものだが、2016年4月の熊本地震の時もやはり起こっている。熊本地震の場合は、最初の揺れとすぐ後の揺れに大差はなく、どっちが本震なのか分からないほどの大きな前震だった。津波の被害など全くないのに、いまだに仮設住宅暮らしの人たちがいるのは、2度の大きな揺れによる倒壊家屋が多かったためだ。

ところで東日本大震災の1か月半前の1月26日、霧島山系の新燃岳で突如大噴火があり、都城市方面へ大量の火山灰が流れて積もるという事態があったが、巨大地震と火山噴火の連動というのは過去にもあり、自分としてはあれは東日本大震災の前触れではなかったかとひそかに思っている。

東日本大震災は地震・津波という天災と同時に、原発の大事故という人災を生んだ「複合大災害」である。福島県では地震・津波による死者を「関連死」が上回っている。見えない放射能からの避難と避難所暮らしは高齢者をむしばみ、高齢者ではない人々を自死に追いやったりしているのだ。気の毒としか言いようがない。

津波という天災による死は不可抗力の面があり、誰しも「被害者」であるが、原発の場合は人災であり、「原発による経済活動」と「原発による汚染」と両方が人々を苦しめている。言うなれば誰しもの心の分断を招いた。

津波によって甚大な被害を受けた地区には人々が生まれ変わった町に戻りつつあるが、放射能の汚染地区に津波の爪痕など全くないにもかかわらず人々の姿はない。

もう原発は要らないだろう。スリーマイル島原発事故、チェルノブイリの原発事故、そして東京電力福島原発事故と、人類は3度も原発事故の恐ろしさ、理不尽さを目の当たりにした。ドイツのように福島の事故を見て「原発全廃」を決め、着実に実行している国がある。

日本は原発が一基も稼働しない5年間を経験しており、その間、電力不足で非常事態などということがなかったはずだ。

今後30年以内に、東日本大震災級の地震が70%もの確率で起きるそうである。まさに「災害大国日本」が現在も進行形なのだ。

上皇(平成天皇)が、平成を振り返って述べられたお言葉の中に、「平成時代は災害の多発した時代だったが、戦争災害の無かったことは嬉しかった。」とあったが、令和になっても災害は頻繁に起きており、この災害をどう防いでいくかに注力すべきだろう。

菅総理は口を開けば「国民の命と暮らしを守る」「まず自助、そして共助・公助だ」と言うが、これだけの天災・人災が続くともう「自助」ではどうにもならない。まずは首都東京の政府機関の地方移転を急ぐべきだろう。政府の政府による「自助」だ。

最後の一点は、政策としてやらなくても「首都直下型地震」か「相模湾トラフ地震」(大正大震災クラス)が起きればいやでもそうなる。しかし他人(天災)任せでは遅い。東京の壊滅は政府機能の停止であり、日本の損失のみならず、世界の損失だ。

いまコロナ対策で右往左往しているが、日本ではコロナ禍による死者は1年経っても東日本大震災による死者数の半分に過ぎない。ひとたび大震災が起きれば、数日で10万単位の人たちが命を失う。情報インフラも壊滅する。東京からの「戦略的逃避」はいつ始めても遅いということはない。東日本大震災に学ぶべきはそのことだろう。