鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

深紅の大優勝旗が初めて東北へ

2022-08-24 13:47:14 | 日本の時事風景
夏の甲子園高校野球は、東北勢として初めて宮城の仙台育英高校が優勝した。

今年で104回目の夏の甲子園だが、東北6県(青森・秋田・岩手・山形・宮城・福島)の高校勢はかつて10回ほど決勝戦にコマを進めているが、残念ながら優勝まであと一歩届かなかった。

10回のうち仙台育英は2回決勝戦を戦っていたのだが、今度3度目の正直でようやく念願の深紅の大優勝旗を手にした。

北海道勢の方が先に優勝旗を津軽海峡を越えて持って行ったのだが、東北は沖縄にも先を越され、悔しい思いをしていたに違いない。(※北海道勢では駒大苫小牧高校が2度、沖縄勢では興南高校が1度手にしている。)

決勝戦の相手は山口県代表の下関国際高校で、こちらは決勝戦初出場であった。山口代表では64年前(1958年)に柳井高校が優勝を飾っており、久しぶりの2度目の優勝が懸かっていた。だが、7回までに4対1とリードされた上、満塁ホームランを打たれ、8対1の大差で敗れた。

決勝戦3度目の強豪育英高校が相手では致し方ないのかもしれない。それでも下関国際高校はあの優勝候補の一角だった大阪桐蔭高校を破っての決勝進出で、これは見事だった。

閉会式の直前に、勝利した育英高校のキャプテンと投手のヒーローインタビューがあり、そのあと、育英高校の監督がお立ち台でコメントしたが、大変印象的だった。

まず、地元宮城を含む東北の野球ファンに「おめでとうございます」と言ったのにはちょっと驚いた。宮城県民のみならず、東北全体が待ちわびた大優勝旗だったということを端的に示したかったのだろう。

時折り涙を見せながらはっきりした口調で、最後に全国の高校球児に対してエールを送っていたが、「この人は高野連の役員?」と勘違いしてしまいそうな素晴らしい、といって決して上から目線ではない語り口には好感が持てた。素晴らしい監督を持った育英高校は幸せだ――と思うことしきりであった。

「甲子園の夏、日本の夏」からすると、日本の夏も終盤に近付いているが、例年になく暑かった東北では「夏の思い出」が一つ増えたろう。

来年の夏は深紅の大優勝旗が白河の関を再び越えて、甲子園に返される。

さわやかな球児たちは次の甲子園に向けて、もう練習を始めていることだろう。

来夏も東北勢が球場を沸かすか、いや、このところ優勝に遠ざかっている九州勢が盛り返すか、願わくば九州勢の奮起を!

憧れのヘラクレスと水族館

2022-08-22 13:19:50 | 日記
昨日は孫の男の子(5歳)を連れて、鹿児島市内の2施設を訪れた。

一つ目は県民交流センターというかつては鹿児島県庁舎があった場所に改築された施設で、ここの6階のギャラリーと名付けられた会場で催されている「大昆虫展ワンダーランド2022」という展示会である。

改装されたとはいえ元県庁舎なので幾分いかめしい建物の入り口を入り、エレベーター(これもかなりレトロだが)で6階まで上がる。

上がるとすぐ向こうにギャラリーが見え、入り口でチケットを購入する。(※大人1200円は良いにしても、子ども3歳以上が600円とはちと高い気がするが・・・)

子どもは金銭感覚がないから、それに当て込んだわけではあるまいが、まあ、季節的な短期の展示会ではこんなものかもしれない。(※次に行った施設鹿児島市立水族館「いおわーるど」では、大人1500円、子どもは300円であった。)

でも無邪気な孫の前でそんな現実的なことはおくびにも出さない。

というわけで、ギャラリーを回ってみる。割とがらんとした会場は、それもそのはず、ほとんどの展示物は壁に掛けられている木造りの標本箱展示であった。

展示の中での一番人気は「ヘラクレスオオカブトムシ」に触れることができることだ。

ギャラリーの中に農業で使う防風ネットで囲った部屋があり、そこにヘラクレスオオカブトムシと普通のカブトムシとが木の切り株の上に置かれていて、それを自由に手にすることができ、子どもたちには大人気なのだ。

沢山の来場者があったため入室するための時間制になっていて、私と孫は一回待たされてからいよいよ入室となった。

ヘラクレスの場所とカブトムシの場所が分けられており、それぞれ切り株の上にエサとともに置かれていたが、比べるまでもなく、ヘラクレスの方が普通のカブトムシより3倍は大きい。

孫は最初ヘラクレスにビビっていたが、手渡すと満足気に掌に載せていた。たしかにでかい。


孫の手のひらに余るサイズのヘラクレスオオカブトムシ。

係員に聞くと、このヘラクレスは鹿児島の松元町に養殖場があるそうで、そこから仕入れたという。

孫の関心は、甲虫類より魚類にあるらしいことは聞いていたが、それでも展示されている昆虫を興味深げに眺め、時にはナナフシがどうのこうのと解説していた。

1時間余りで大昆虫展を後にし、市電に乗って郡元まで行って昼食を摂り、そのあと今度は水族館「いおわーるど」に行った。

ここは孫たちはすでに3回くらい見物しているのだが、私は2回目だ。この鹿児島市立水族館が開館したての平成8年か9年に訪れて以来である。

1時過ぎに入館したが、まずは大水槽で泳ぎまわる魚たちに圧倒される。ここだけで20分は眺めていた。


何と言っても目に付くのがジンベイザメで、やや小ぶりだが、それでも体長7メートルというから大きい。鹿児島近海で割合多く見られるそうで、多分このジンベイザメも近海産のはず。

一通り見終わったのが2時で、その時間からイルカの水槽で「イルカ時間」というのがあったので行ってみたが、家族連れで大混雑であった。

20分ほどのショータイムの後、孫はまた最初から見たいというので、再びあの大水槽を皮切りに、回るは回るは、結局館内を3周くらいは回る羽目になった。

孫はこちらが持参したデジカメを片手に、大小さまざまな水槽の魚を写しながら何とかかんとか言うのだが、付いていけない。

3時過ぎにようやく水族館を出たが、こっちは足が棒のようになった。帰りに桜島の白浜温泉に立ち寄る時間があったのでよかったが・・・。

帰省と感染増

2022-08-19 22:27:25 | 日本の時事風景
鹿児島県ではお盆が終わり、帰省子が都会に帰ってから急激に新型コロナ感染者が増えている。

予想されたことだが、昨年・一昨年と帰省をためらっていた都会からの家族連れが一気に増えたことがその原因に違いない。

お盆前の10日に過去最高の3988人だったのだが、お盆明けの17日は4000人をあっさり超えて4624人となり、翌18日は4948人、そして今日は速報値で4600人と3日連続で4000人台後半の高い感染者数を記録した。

全国的にも今日は感染者数が26万人を超え、過去最大になったという。また1日当たりの感染者数で、日本は世界的にもトップクラスになっている。

9時のNHKニュースでは各都道府県の数値を報道したが、大都市圏(首都圏・関西圏・中京圏)ではかなり感染者数を減らしているのに、九州・四国・中部・東北・北海道では過去最高の感染者数になっている。

やはり都会からの帰省子による感染が顕著に起きたのだ。

重症化率や死亡率はほとんど変わらないが、このオミクロン株BAー5型の素早い感染が全体の実数を押し上げ、重傷者と死亡者の絶対数は決して楽観視できない大きさである。

政府はそれでも国民に行動制限を訴えるつもりはないようで、2年前の腫物を触るような行動制限とは雲泥の差だ。もはや新型コロナ感染症は季節性のインフルエンザ並みになったというのだろうか。やがて獲得するであろう「集団免疫」を頼みにしているようにも見える。

国内の行動制限はかなりフリーになったのだが、その一方で海外からの訪問者には厳しい制限を課している。

入国前の抗原検査による陰性証明書が義務付けられ、旅行の場合、団体旅行でないと認められない。ところが国によって開きはあるが、多くの国では個人旅行が主役なのである。

日本では子どもの時代からまず学校単位、あるいは学年単位で行われる団体旅行が一般で、その傾向は高校時代にもあり、就職してからは職場で「慰安旅行」という名目で、これまた集団旅行が津々浦々で行われている。

そういう日本人であるから、海外旅行も集団でというのが圧倒的に多い。

とにかく集団で行動することに違和感を感じないのが日本人の属性で、それは今しがた触れた学校における団体旅行をはじめ、運動会とか学芸会などで培われた面が大きい。

そもそもお盆という行事があり、お盆には御先祖様と交流できるから実家に帰って墓参りをするという集団行動も日本人ならではだろう。学校は夏休みでもあり、一家そろって故郷に帰省するにはちょうどよかったのだ。

かくて都会から新型コロナウイルスが大量に持ち込まれることになる。

私は実はもっと極端に感染が増加するだろうと予測していたのだが、そこはやはり日本人の律儀な、というか人の目を気にする集団的属性によってマスク・消毒・手洗い等の感染対策がきちんと守られていたため、最少の感染増加で済んだと言うべきだろう。

8月末の夏休みの終了に向けて次第に減少に転じると思われるが、明けてから学校の集団生活に復帰したあとの感染がどうなるか、は注目に値する。

スズムシの季節が到来

2022-08-17 19:50:03 | おおすみの風景
スズムシが鳴き始めた。

と言っても野生のスズムシではない。

昨日、愛犬ウメのためにダニ・ノミ取り用のパウダーを買いに市内のペットセンターに行ったのだが、ついでに店先の看板広告に写真入りで載っていたスズムシも購入することになった。

オス・メスひとつがいで230円というのは高いのか安いのか分からないが、とりあえず二つがいを求めた。

それと飼育ケースに敷くスズムシ用のマットとタンパク質補給のためのエサも一緒に購入した。

飼育ケースにはメスの二匹だけを入れ、丸いプラスチックケースにはオスを入れ、どちらにもエサとキュウリの輪切りを入れておいたところ、夜になって早速、一匹のオスが鳴き始めた。



まだすこぶる綺麗な音色とは行かないが、両羽根を立ててふるわせ、その際に両羽がこすれて絶妙な音を響かせる。

羽根を立てるのはもちろん音色を響かせるためだが、そもそもこれは求愛行動である。

この生物学的な求愛行動に過ぎない鳴き声をわれわれ日本人は、左脳で聴き、西洋人は右脳で聴く――ということを発見した角田という東京医科歯科大学の研究者がいた。角田によると、左脳は「言語脳」と言い、言葉を司る人間的な感情を表現する。逆に右脳は主に「空間認識」を司っているという。

以上の左右の脳の役割分担によれば、日本人は虫の音にさえ人間的な感情を聴き取り、西洋人にとって虫の音はオートバイの騒音のような「雑音」としか聴こえないという。

要するに夏の夜に虫の音を聴くと、日本人なら「ああ虫たちが鳴き始めた。お前たちの大好きな秋が来たな。暑かった夏ももうすぐ終わるなあ。やれやれ」と、季節の移ろいを感慨深く心に捉えるわけだが、西洋人はさほどの感慨(思い入れ)はないということである。

「一寸の虫にも五分の魂」ということわざがあるように、日本人は虫にも蝶々にも魂が宿り、人間と全く別の存在としては見ていない。

俗に言う「アニミズム」で、あらゆる存在は神の顕現であるという観念を持っているのだ。日本人の得意分野にアニメがあるが、そのモチベーションはこの「アニミズム」ではないかと思うのである。

また日常でも、例えば零細企業などでは、暮れになると工場の機械にも正月飾りを乗せたりするが、これも機械のハタラキを神の顕現(神道ではミコトモチ)と考えるからだろう。

スズムシが鳴くのは科学的つまり生物学的には子孫を残すための求愛行動に過ぎないが、夏が終わり秋を迎える「風物詩」であると、まさに「誌的に」捉えて止まないのが日本人の感性である。

全国戦没者追悼式2022

2022-08-15 15:58:33 | 専守防衛力を有する永世中立国
今年も終戦の日がやって来た。

日本武道館で行われた政府主催の戦没者追悼式は、この3年のコロナ禍の下では最大の参列者を得て、粛々と催された。

昭和20年(1945年)8月15日、前日の14日にポツダム宣言を受諾し、明けてこの日、昭和天皇自らが「終戦の詔勅」をラジオで読み上げられ、太平洋戦争は終わった。

それから77年、日本は幸いにも、「終戦」のお言葉通り、他国との戦争は一度もせずに日々を送って来た。

1945年をさかのぼること77年、1868年の9月、時代は明治となり、江戸城が天皇の住まいとなって、江戸幕府は崩壊した。(※ただし、幕府方の戊辰戦争の残党・榎本武揚が箱館五稜郭において降伏したのは、翌年の4月であった。)

今年は、ちょうどその明治の開始から数多の戦争を経て終戦の詔勅に至った年月と、戦後平和国家としてこれまで歩んで来た年月とが同じ長さになるという記念すべき年に当たっているのである。

思えば戦前の77年は戦争の時代であった。

戊辰戦争が終わって「明治維新」が完了し、近代国家が始まったのだが、10年すると「西南戦争」(1877年2月~9月)があった。これは内戦であったが、1894年には「日清戦争」が、1904年には「日露戦争」が起きている。

前者は福沢諭吉の唱えた「脱亜入欧」のモデルのような戦争で、西洋文明を素早く取り入れた日本が軍備にしろ軍隊にしろ格段に優れていたため圧勝した。後者は陸上では旅順後略をめぐって多大なる苦戦を強いられたが、対馬海峡の海戦でバルチック艦隊を破り、辛うじてロシア帝国に勝利した。

日清戦争によって清王朝は弱体化し、18年後の1912年、ついに王朝は滅び、中華民国が誕生した。また日露戦争によってロマノフ王朝は弱体化し、12年後の1917年、ついにロマノフ王朝のニコライ2世は退位してソビエトが生まれた。どちらの戦争も日本の勝利によって敗戦国では「革命」が起き、帝国は瓦解している。

また日本も勝利したことで、治外法権が撤廃され、関税の自主権を得ている。欧米から近代国家としての独立と主権が認められたのである。同時にまた日本は台湾を獲得し、朝鮮を併合した。これもほぼ同じ理由からだ。

(※ただ、どちらの国も欧米列強的な「植民地」ではなかった。現地に多大の資本を導入して産業の近代化を図り、現地人に必要な学校制度も整備している。韓国の女性大統領だったパク・クネの妹は、「日本に併合されていなかったら、教育などもっと遅れていた」と言っている。いま話題の旧統一神霊協会を創設した文鮮明(1920年生まれ)などもその恩恵を蒙っているはずだ。)

日清・日露戦争の勝利でやや天狗になった大日本帝国に対して、欧米列強は一種の人種差別的な脅威を感じ始めていた。俗に言う「黄禍論」である。

白人の欧米諸国の有色人種への人種差別は、植民地支配の内容を見てもすぐに了解されることで、これに対して異を唱えたのが、第1次大戦後に開かれたパリ講和(ベルサイユ)会議(1919年)において、日本の全権大使・西園寺公望に付いて行った副大使・牧野伸顕であった。

「人種差別を撤廃する条約を結んでもらえないか」と動議を出し、参加各国の賛否を問うたところ、賛成が多数を占めた。ところが議長だったアメリカ大統領のウイルソンは「全会一致でなければ、条約にはできない」と牧野の提議を葬ったのであった。(※ウイルソン自身が、アメリカ南部に黒人を奴隷的に使う農園を持っていたかららしい。)

これ以降、欧米、とくに英米は日本を仮想敵国と見做し始めた。カリフォルニア州の「排日土地法」(1920年)、ワシントン軍縮会議(1921年)、移民法の成立(1924年=排日条項あり)、パリ不戦条約(1928年=英米仏日ほか12か国)、ロンドン軍縮条約(英米日=1930年)など、日本及び日本人への締め付けが強められている。

この流れとは別に、ソビエト革命(1917年)による影響が中国にも拡大して行き、1919年にモスクワで創設されたコミンテルンがその影響を後押しした。一言でいえば革命の輸出である。マルクス・レーニン主義とも言うが、大正時代(1912年~1926年)の後半に入ると日本の産業はもとより学術文化層にも多大の影響を与えた。

中華民国によって曲がりなりにも独立国家となった中国でも、1921年には上海で共産党が産声を上げた。以降、共産党は各地で勢力を伸ばしながら、民国との軋轢を生んで行った。中国大陸ではこのほかに各地に「軍閥」があり、特に満州の軍閥・張作霖は有名である。彼は日本の特務機関によって爆殺されたとされるが、コミンテルンの差配だった可能性も指摘されている。

コミンテルンの差配する中国共産党にとって、一番都合の良いのは、中華民国と日本が戦い、中華民国の勢力が減殺されることであった。盧溝橋から始まった日中戦争(1937年7月7日開戦)だが、この事件の主導者はコミンテルンの指示による中国共産党員の「数発の銃声」だったという説がある。自分もそう考えている。まんまと泥沼の対中戦争に引き摺り込まれたのだと思う。

この4年後の1941年12月8日、真珠湾攻撃により、日米間の戦争の火ぶたが切られた。

そして4年後の1945年8月15日に終戦を迎えた。

太平洋戦争で戦没した日本人は軍人軍属が210万、一般市民が100万と言われる。

それまでの日清・日露・日中のそれぞれの戦争では、戦死者は軍人軍属だけだった(ただし、日中戦争下では日本人居留民が殺害されている)が、最後の日米戦争では、2発の原爆と都市の無差別爆撃、それに唯一の地上戦となった沖縄県民への攻撃によって100万もの犠牲者を生んでいる。

原爆投下はもとより、一般市民への攻撃は国際法上認められていないにもかかわらず、アメリカはそれをやってしまった。彼らによると「米軍の戦死者をこれ以上出さないため、日本の降伏を早くする手段だった」というが、一般国民への攻撃に対する陳謝はない。

原爆を製造し、爆撃機に乗って投下の指示を出し、挙句にはその投下とすさまじい爆発(炸裂)によるキノコ雲の撮影までしたという、アメリカの一科学者が戦後40年してから広島を訪れたというドキュメンタリー番組を見たが、彼は被爆者二人が「(一般市民へ投下したことを)謝って欲しい」と詰問するのを受けてこう答えた。「謝らない。戦争とはそういうものだ。リメンバーパールハーバーだよ」と。

卑怯な真珠湾攻撃のお返しさ――というわけだが、ちょっと待てよ、真珠湾攻撃では一般市民は標的にしていないぞ。

ここに彼等アメリカ人の人種の優越感を感じてしまうのだが、私だけか。米軍では「良い日本人とは、死んだ日本人だ」という、かつて北米の先住民インディアンと戦う時に、あとから入って来た白人が「良いインディアンは、死んだインディアンだ」と言って殺害していたのと軌を一にする。

いずれにしても、もう戦争はこりごりだし、する理由は全くない。

だが、「強固この上ない日米同盟」が結ばれている以上、台湾をめぐって米中が戦い始めたら日本も参戦しなければならなくなろう。こんなアメリカの指示を仰いで台湾や沖縄で中国軍と戦うなんてまっぴらだ。日本は早く「永世中立国宣言」をすべきだ。

世界はそれを待っている。中国もそれを待っている。(※本当はアメリカもそれを待っている。)