鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

甲子園の夏、日本の夏

2022-08-13 20:25:28 | 日本の時事風景
蚊取り線香のテレビコマーシャルで「金鳥の夏、日本の夏」が始まった時期は定かではないが、美空ひばりがコマーシャルの顔として起用されていたので、少なくとも40年ほど前のひばり存命の頃にさかのぼる。

ひばりは平成元年(1988年)に52歳で亡くなったのだが、最晩年だった頃に「川の流れのように」(作詞・秋元康 作曲・見岳章)が大ヒットした。

一度入退院を繰り返し、退院後は復帰を危ぶまれたのだが、この「川の流れのように」を唄う頃はすっかり元のひばりに戻っていた。さすが大歌手だ。晩節を全うした人生だったと思う。

さて「日本の夏」だが、蚊取り線香はもちろん日本の夏の風物詩だ。そして、人それぞれに「夏と言えばこれ」というのがあるに違いない。

季節に敏感な日本人だから数えきれないほどの夏の風物がある。風鈴、団扇、打ち水、ゆかた、暑中見舞い、セミ取り、カブトムシ取り、ラジオ体操、夏祭り、盆踊り、花火、海水浴、スイカ割り、朝顔鉢・・・、誰もがほとんど経験している歴史と伝統のある風物詩だ。

忘れてはならないのが、現在進行中の甲子園の高校野球だ。夏休み中の2週間を占める全国大会は今年で104回目、特にテレビ中継が始まった1958年以降は、多くの家庭で団扇片手に(あるいは扇風機を横に)夏休みの高校生を中心に野球少年の胸をときめかせたものだ。

自分も高校生の時から観戦しているのだが、応援団が派手になったという点を除いてはまったく変わらないプレーに、つい歳を忘れて見入ってしまう。

それにしても連日の猛暑の中、選手陣ももちろん大変だが、応援団の活躍には頭が下がる。

一塁側でも三塁側でもアルプススタンドには屋根がなく、カンカン照りの日の光が容赦なく彼らの頭上を襲うのだ。


(NHKの中継画面から)
いやはやご苦労さんとしか言いようがない。他にブラスバンドもいる。そして母校の応援にやって来た多くの生徒たち。

彼等の声援の醸し出す一体感は、試合の勝ち負けを超えて青春の思い出の確固たる一ページになるだろう。

はつらつとしたプレーを見せて欲しい。甲子園の夏、日本の夏。

スポーツ新聞もびっくり

2022-08-11 13:29:30 | 日本の時事風景
我が家では南日本新聞という地方紙を取っているのだが、今朝の朝刊の一面トップには驚いた。一瞬、スポーツ紙の一面かと思ってしまった。

大リーグエンジェルス所属の大谷翔平投手の打者への投球のシーンがでかでかと半身カラーで載せられているのだが、その上の大見出しは「大谷2桁勝利本塁打」であり、中見出しは「ルース以来104年ぶり」となっていた。

カリフォルニア州オークランドで行われた対アスレチック戦で、先発した大谷は3季ぶりに10勝を挙げ、ホームラン第25号も放ち、投手兼バッターの「二刀流」としては、かつて全米で野球の神様と言われたベーブルースが成し遂げた記録を104年ぶりに達成したのだ。

去年はホームランこそ46号とベーブルースに並んだかに見えたが、投手としての勝利は9勝で終わってしまい、捲土重来が期待されていた。

ベーブルースが2桁本塁打・2桁勝利投手を記録した104年前とは1918年のことである。ずいぶん古い話だが、1918年と言えば1914年に始まった第一次世界大戦が終結を見た年であり、同年フランスベルサイユにおいて講和条約の会議が始まっている。

(※その前年にそれまで参戦していなかったアメリカが対独宣戦布告し、ヨーロッパの前線に兵隊を送り出しており、実はこれがいわゆるスペイン風邪をも引き連れて行ったとされる。100年後の2019年、新型コロナウイルスが中国の武漢で流行し、そのまま世界全体に飛び火したのと軌を一にしているとは皮肉な話だ。)

その頃日本では前年の1917年に起きたロシア革命の拡散を畏れたアメリカの要請で、シベリア出兵を強行し、数年続いたコメの不作で米価が上がっていたにもかかわらず、大手米穀商によるシベリア出兵用の米の買い占めでなお一層の高値となり、各地で米騒動が頻発していた。

日本や世界が物価高騰で難儀をしている時に、アメリカではベーブルースの大活躍に象徴される国民的娯楽の野球というスポーツ興行が花開いていたのだから、世界は広い、というか、アメリカは広かった。

野球と言えば、何と言っても今は甲子園夏の高校野球選手権だ。

不思議なことに、大谷の104年ぶりと合わせたかのように今回の選手権は104回目である。

初回は1915年(大正4年)に行われた「全国中等学校(旧制)野球大会」であるから、まさにベーブルースが活躍していた頃とぴったり重なるからさらに面白い。

甲子園での野球大会が定期的に行われるようになってから、全国津々浦々、旧制中学あるところ野球部の無い都道府県はなく、戦後は新制高校となって野球部の数は飛躍的に増えた。

今はサッカー部の数と競技人口にお株を奪われたが、それでも国民的アマチュアスポーツの一大組織であることは譲らない。

日本ではこの高校におけるアマチュアスポーツとしての野球があってこそのプロ野球なのだが、アメリカではどうか。ベーブルースがハイスクールで怪童と呼ばれたなどという情報はない。おそらく今でもそうであるように、日本の大相撲のように中学校か高校を終えたらそれぞれの球団にテスト(見習い)選手として入団するのだろう。その後は自分次第、自己責任でというコースを辿るに違いない。

大谷選手は周知のように岩手県の私立高校・花巻東高校の出身であり、甲子園の高校野球で活躍した選手である。この大谷が自己責任でのし上がっていくアメリカプロ野球で大活躍しているわけだが、アメリカ人はこれを「大谷個人の資質と自己責任の塊」と捉えて応援している。

ところがテレビでも新聞でも、日本では必ず地元岩手の人たちが喜び勇んで応援する姿を報道している。つまり日本では出身地との一体感が極めて大きいのだ。ここに日本とアメリカの違いがはっきりと表れている。

もともとアメリカが発祥のスポーツである野球に関してだけでも、捉え方に大きな隔たりがあり、この点を重視すれば、日本には日本のやり方があるのだ、日本の独自性(国柄)ここにあり、という感慨にとらわれる。(※ただ同じスポーツでもプロテニス・プロゴルフなど個人スポーツは著しく違う。こちらはただ金目当てのゲームにしか見えない。感動もドラマも湧き上がることはない。)

ところで、今日の一面にデカデカと大谷選手の英姿が載ったわけだが、約一ヶ月前の7月9日の朝刊の一面をさらに大きく飾ったのが、安倍元首相の暗殺事件である。

私はその日の新聞を丸ごと保存していたので、比べてみると、やはり安倍さんの一件の報道の方が写真も記事の量も2倍も多かった。

安倍さんが二発目の銃弾を受け、ワイシャツに血をにじませて横たわり、選挙関係者が覗き込み「大丈夫ですか」と呼びかけている写真自体は今朝の大谷選手の半身写真ほどではないが、他に安倍さんが撃たれる前にマイクを握って演説している直前の姿も掲載されている。

記事を詳細に読み直すと、山上容疑者が取り調べに対して「安倍元首相がある宗教団体とつながっていることが許せなくて犯行に及んだ」とあり、まだ7月9日付の紙面では旧統一教会の名は書かれていない。山上容疑者が旧統一教会の名を挙げないはずはなく、書いていないということが取り調べた警察の配慮なのか、それとも記事を書いた報道側の忖度なのか、今となっては隠す必要は全くなかったと言わざるを得ない。

あれから約1ヶ月、連日のように旧統一協会(現・世界平和統一家庭連合)と政治の癒着が取り沙汰されない日はないではないか。

長崎平和祈念式典2022

2022-08-09 21:08:54 | 日本の時事風景
77年前の8月9日午前11時2分、アメリカの爆撃機B29一機が、本来なら北九州小倉の工業地帯に落とすはずだったプルニウム型の原子爆弾「ファットマン」を、長崎上空で落とし、炸裂させた。小倉地方の天候が良くなかったからという。

不運な長崎では市の中心部の上空550メートルで炸裂した原子爆弾により、市の中心部から3キロ圏内の木造の建物をほぼすべて破壊し、焼失させた。

瞬時に約7万人もの一般市民が死亡し、助かった者も深く痛手を負い、救助に入った長崎近郊の人たちとともに原爆症による免疫不全や白血病で帰らぬ人となった。このような人たちは年末までに7万を数え、その年の内に合計で14万の犠牲者が数えられている。

長崎の場合、クリスチャンの多い土地柄で、原爆投下のその時刻に浦上天主堂ではミサが行われていたとかで、数百人の信者が巻き添えとなっている。さすがのアメリカもこれには驚愕し、広島にはよく足を運ぶアメリカ人も、大使級の要人たちも、長崎は行きにくい被爆地であった。

長崎のこの残虐の前に、アメリカがいくら「原爆を落としたのは、戦争終結を早め、米国軍人数十万の被害を軽減するためだった」と後付けの言い訳をしても、その「人道への罪」はアメリカ人自身でさえ拭い去ることはできないだろう。

午前11時2分の一分間の黙とうの後、被爆者が求めてさ迷い歩いた水が捧げられたあと、平和像の前に設えられた舞台に上がったのは、「ひまわり合唱団」という被爆者が中心となって生まれた合唱団だった。


団員の高齢化にコロナ禍が追い打ちをかけたとかで、今年限りで合唱団は解散するという。
「被爆者の声が聞こえますか。耳を傾けて下さい」という内容の唄である。後継者が現れないものだろうか。

式辞では被爆者代表の宮田隆さんという82歳の方の体験に基づく話が良かった。特に「核の傘」に関して、「日本政府がアメリカの核の傘に頼りながら、核廃絶を訴える」ことの矛盾を突き、核の傘からの離脱を求めてこそ日本が核廃絶へのハタラキ(橋渡し)ができると――声を大にしてスピーチしていたが、満腔の賛辞を贈りたい。

またウクライナへのロシアによる民間施設への爆撃の状況にも言及し、宮田さんが5歳の時に味わった原爆の悲惨と恐怖が思い起こされると言い、一刻も早い終結を願っていた。

甲子園の土

2022-08-08 20:30:10 | 日記
広島平和祈念式典と同じ6日に始まった甲子園の夏の高校野球。

今日で3日目になるが、天気は上々で、去年の順延に次ぐ順延だったのがウソのようだ。

3日目の今日、期待していた沖縄興南高校は最終の第4試合に登場したが、2回に大量5点を先制したあとは対戦相手の市立船橋のサウスポーの好投手に押さえられて追加点が挙げられず、逆にじわじわと反撃され、9回裏5ー5満塁から投手のデッドボールによってサヨナラ負けを喫してしまった。

この3日間、甲子園野球を見ていて何か物足りないと感じていたのだが、それは負けた方の高校球児が甲子園グラウンドの土を―たいていは「泣きながら」―袋に詰めて持ち帰る情景が無かったことだった。

去年から甲子園球場のグラウンドの土を持ち帰ることが禁じられていたのだ。

一昨年、甲子園高校野球が中止した時は、出場が決まりながら中止となって涙を吞んだ球児たちに、ペンダントに球場の土を入れたのを各出場校に送ったというが、それを潮にそもそも甲子園の土を持ち帰る習慣がストップされたのであった。

インターネットで調べると、最初に甲子園の土を持ち帰ったのは、あの野球の神様と言われた川上哲治選手だったという。彼が戦前、のまだ中学校(旧制)野球大会と言われた時代に熊本の中学代表として出場し、決勝で敗れた悔しさに甲子園の土を持ち帰り、母校のグラウンドに撒いたらしい。

また選手全員が甲子園の土を専用の(?)袋に入れだしたのは、1960年代だとされている。その頃から、負けたチームの選手たちが泣き顔を見せながら、せっせと袋に詰める光景がよくカメラに捉えられるようになった。

今日、沖縄興南高校がサヨナラ負けをしたあと、9回途中で交代し、不運にもデッドボールで押し出し追加点を与えてしまったピッチャーは大泣きをしていたが、そのほかの選手陣は坦々としているように見えた。しかし、もし甲子園の土を袋に詰めることが行われていたとしたら、どうだったろうか。おそらく選手の半分は土を詰めながらべそをかいていたに違いない。

戦後の沖縄は米国の施政権下にあり、終戦2年目の1946年から復活した甲子園高校(新制)野球大会には出られず、1958年(昭和33年)になってようやく出場が認められたそうだが、占領軍政府発行のパスポートの携帯が必要だった。

本土復帰後の沖縄高校野球では豊見城(とみしろ)高校の活躍が目立っていたと思う。

その後、沖縄尚学、興南、沖縄水産が出場常連校となり、特に興南は夏1回、春2回の優勝を誇っている。

沖縄出身のグループBEGINの曲

 ♬ 今日は那覇市のビアガーデンへ 野球応援甲子園 

   明日から準々決勝ど 夜から応援しておくさ

という「オジー自慢オリオンビール」の歌詞が作られたのも常連三校が準決勝や決勝に進んだその時代である。

ところで昨年から持ち帰り禁止になった甲子園の土は、毎年大規模に更新されるという。内野の部分(ダイアモンド)の「黒土」は実はブレンドされて作られる土で、黒い畑土は、何と、鹿児島県志布志市の土だという。これにどこかの砂を混ぜて作り上げるらしい。

夏は黒土を多く、春は砂を多目に入れるという。夏の場合は基本的には日照りによる乾燥に負けない土を、春の場合は雨が多いためやや砂が多いそうだ。そうは言っても夏の場合は夕立的な土砂降りが突如発生したりするから、その際の水はけ対策もしなければならず、表土30センチ以下の部分は砂利だというから驚きだ。

最初に川上哲治氏が甲子園で惜敗した際に、甲子園の土を持って帰って母校の熊本工業のグラウンドに撒いたという行為は、どうも土を「産土(うぶすな)さん」として単なる物質とは見做さない日本人の心情につながっているようだ。

グラウンドが無ければ野球はできず、そのグラウンドに敷かれた土は、みんなで汗水垂らした絆を記憶しているから、選手たちにとっては神聖なものに違いない。

広島平和記念式典2022

2022-08-06 13:27:03 | 日本の時事風景
広島への原爆投下からまる77年、78回目の暑い夏がやって来た。


(NHKの生中継画面から)
8時に始まった中継で、実況のアナウンサーは「広島は午前8時現在晴れで27℃、湿度は82%」と言っていた。
おそらく最低気温は25℃を上回る熱帯夜だったのだろう。大型テントの中の外国人席に座る多くの参列者は気温もさることながら、湿度が高いのでしきりに団扇か扇を使っていた。

今年の話題は、何と言ってもご当地出身の岸田衆議院議員が総理大臣になり、初めての広島平和祈念式典に参列することになったことだろう。

それと国連の事務総長であるグテーレス氏が事務総長として初めて参列したことも意義深い。

グテーレス事務総長は、昨年開かれた核兵器禁止条約締結国会議の席上で、日本へのオブザーバー参加を期待していた人物である。

日本が世界で最初の被爆国であり、その悲惨な体験から広島市および長崎市は毎年核廃絶を訴えていることは十分に承知しているのだが、国としてはNPT(核不拡散条約)を通じてのみ「核兵器の無い世界」を訴え続ける立場に終始しているのを歯がゆい思いで見ていることだろう。

また核兵器禁止条約を主導してノーベル平和賞を受賞した「ICAN」(核兵器廃絶国際キャンペーン)からも、グテーレス事務総長と同様の疑問が投げかけられている。

日本が容認しているNPTとは現在の公認された5つの核大国だけが保有を許され、そのほかの国々は所有してはならないーーという条約で、その核保有国とは取りも直さず国連安全保障会議の五つの常任理事国(米英仏ロ中)である。

日本はその中のアメリカとは1960年以来、相互安全保障条約(1951年の旧安保に対して新安保)を結んでおり、したがってアメリカの核の傘のもとに安全を保障されているがゆえに、その核が無くなってしまっては元も子もないと考えているので、核兵器禁止には踏み切れないのだ。

昔よく「日本の常識は世界の非常識」と言われた。この格言(?)は「日本人は水と安全はタダだと思っているのだが、水はともかくとして、安全は相当な防衛への意志と防衛力を持たなければならないのに、アメリカと結んだ安保でアメリカが日本を守ってくれるから安心だ」という「平和ボケ」に対する箴言であった。

核兵器に関しても同様で、政府の「アメリカの核(の傘)によって日本は安全なのだから、核兵器禁止は考えられない。でも唯一の被爆国として、核保有国と核非保有国との間の橋渡しをして、核兵器のない世界に導く」という主張は、自民党とアメリカ国防省の一部でしか通用しない論理で、世界から見れば「何言ってんの?」だろう。

日本がアメリカの核の傘から抜け出し、フリーになった上で「核保有国と非保有国との橋渡しをする」と言わなければ、世界を納得させられないのだ。

つまり日米安全保障条約という国連憲章上疑義のある「二国間軍事条約」を廃棄した上で、「唯一の被爆被災国として、核兵器の保有そのものを廃絶するように訴える」と言うのなら筋が通るのだ。非保有国は拍手喝采し、核保有国も廃絶への道を探るようになるだろう。

そのような平和へのイニシアチブは日本に与えられた責務ではないだろうか。(※「世界平和統一家庭連合」などというまやかしの平和団体に鼻毛を抜かれている自民党こそが「平和ボケ」そのものだ。)