ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

七重八重…のつづきでぇ~す

2017年04月21日 | 日記

昨日のつづきでぇ~す。

 

太田道灌がにわか雨に遭って、農家の娘から山吹の一枝を差し出された話…

その舞台となった場所として、豊島区神田川の面影橋の近くに石碑があるそうな。またその近くには「山吹の里」もあると。

ところで、太田道灌(出家する前は資長)は、扇谷上杉家の家宰・太田資清の子で、幼少時より神童と言われ、鎌倉五山や足利学校などで学問を修めているなど、その英才ぶりを発揮した逸話などが伝えられてをり、更に25歳という若さで江戸城を築き、百戦百勝の戦上手の武将であったという。

歌人としても当代屈指で、たくさんの和歌を詠み、『慕景集』という歌集も遺しています。

ではなぜそんな立派な人が、あの古歌を知らなかったのか…やっぱり不思議でしょう!

更に、もっと面白いことがあるのです。

あの農家の娘さん、彼女にはちゃんと「紅皿」という名前があるんですよ。そして、新宿区内にお墓も存在するんですって。更に、紅皿の略伝を記した「紅皿縁起」などという文書も現存しているらしい。もうびっくりでしょう!

みなさん知ってました? まあ、東京の方なら知っていらっしゃるのかも…

その縁起によると、京家(公家)に仕えていた武士(?)が細川と山名の合戦のみぎり、この辺り(豊島の郡高田村)に落ち延びて来て住んだが、その時、娘(10代?)を一人連れていたと。その娘が紅皿で、気立ても良く、殊に和歌を好んで造詣も深かったらしい。(やっぱり普通の農家の娘ではなかったネ!)

そして、この道灌との出逢いが縁で、城に招かれ道灌の歌の友として過ごしたそうです。

道灌が主君の暗殺により、55歳で非業の死を遂げた後は、尼となって大久保に庵を結び、死後その地に葬られ、墓が建てられているというのです。それらの写真もありましたが、ホントでしょうか??? 

もし私が東京在住ならば、すぐに確かめに行くでしょうが…なんせ、遠すぎますよね。どなたか興味が湧いた方、尋ねてみられませんか?

まあ、伝説とか逸話とかいうものは大体こんなもの…山口県にも小野小町の墓があったり…

それでも結構楽しませて貰いました。感謝です!

私も、このところ年一回は東京の新年句会に参加していますので、上京する度にどこかを吟行して帰るのですが、東京にはあまりにも史跡が多すぎて、いつも選ぶのに困ります。

ちなみに今年は世田谷のぼろ市と代官屋敷へ。あッ、あの名物の代官餅を食べ損ないました。

あまりにも人が多くて、2,3時間も並んで待つなんてとても、とても…。            

ところで、山吹の学名は「Kerria japonica」で、スコットランドの植物学者ウイリアム・カーが自分の名前から付けたそうですが、「ジャポニカ」とあるからには、(中国という説もあるので)原産地はやはり日本なのかも知れませんね。

先日の八重桜を思い出して、我が家の八重山吹も花びらを数えてみました。

もうビックリです!みなさん何枚だったと思いますか?なんと大小併せて108枚…スゴイですね。

コレで山吹の話はオシマイ!                                                  

コメント (2)
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