昨日山吹の写真を撮っていて、ふと思いました。
七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき
『後拾遺和歌集』に収められている兼明親王(かねあきらしんのう)の歌です。この歌にちなむ太田道灌(どうかん)の伝説は有名ですので、ご存じとは思いますが、念のため書いておきますね。
太田道灌がまだ若かりし頃、鷹狩りに出掛けてにわか雨に遭遇し、ある一軒の農家で雨具の蓑(みの)を借りようとすると、そこの娘が盆の上に山吹の一枝を乗せて差し出したという話。
その場では意味が分らず、道灌は怒って帰り、後で家臣に、山吹の古歌の「実の一つだになきぞ」になぞらえて、「お貸しする蓑一つないのが悲しいことです」と、伝えたかったのだと聞かされ、道灌は大いに恥じて、その後一生懸命学んで当代一の歌人になったとの伝えです。(『常山紀談』)
私はこの話、昔から知っていましたが、今思えばおかしな話ですよね。
そんな立派な武将が家臣さえ知ってる古歌を知らず、さらに一介の農家の娘は知っていたと言うこと…
また、貴人には直接の手渡しや受け答えをしないというような礼儀作法も身につけていたとは…いくら考えても不思議です。もしかしたらこの娘、どこかの落人のお姫様だったりして…
それよりも私が気になったのは、その頃から八重の山吹があったのかしらということでした。
歳時記を見ると、普通の一重の山吹は日本各地の山地に生えているが、八重は園芸品種との説明があったからです。「エエッ!太田道灌の時代から園芸品種があったの?」と。
ちなみに太田道灌は室町時代後期の武将で、後に江戸城を築城した有名な人。
ところが、あったのですよ。それもずうーと昔の『万葉集』の時代から…。
山吹の歌は『万葉集』に十数首あり、その中には有名な高市皇子(たけちのみこ)が十市皇女(とおちのひめみこ)の死を悼んで詠んだ挽歌(巻2・158)もあります。
山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく
これは恐らく一重の山吹でしょう。ところが、次の歌もあったのです。巻10・1860の、作者未詳の歌です。
花咲きて実はならねども長き日に思ほゆるかも山吹の花
ここでは確かに「実はならねども」とありますから、これは間違いなく八重ですよね。
調べてみると、八重以外にも、斑入り山吹、黄すじ山吹、菊咲き山吹、白花山吹など、いろいろあるようです。モチロン園芸店などではもっと変わった品種もあるようですが…
ところで、「白花山吹」は、山吹の突然変異種で、白とは言っても、少しクリーム色がかっているとか、花弁は5枚。(まだ見たことない)
昨日載せた「白山吹」は違う品種なので花びらが4枚、秋にはぬばたまのような真っ黒い実が着きます。
面白いことに、江戸時代の富山藩主前田利保が著した『棣裳図説』には、山吹の品種十種が彩色付きで図説されているとか。(「棣裳」(ていとう)とは、山吹の漢名。)機会があれば是非見てみたいものです。
このように何の気なしに見ているものでも、みな奥が深いですね。
まだまだ知らないことばかりです。もっともっと勉強しなくちゃ…ね。
ついでに、いろいろ調べていましたら、とても面白いことが分りましたよ。
あながち私の推測は間違っていなかったらしい(?)…ということを次に書きましょう。お楽しみに!