先日の日曜日、久し振りに広島の平和公園へ行きました。「早苗」の吟行会へ宇部から4人で参加。いよいよ月刊俳誌「早苗」が今年の12月号を以て終刊となりますので、本当に最後の吟行会なんです。
本来なら1年交互に開催していた一泊鍛錬会や日帰り吟行会、それが新型コロナ禍のために計画だけで3年間中止となっていました。ご多分に漏れず我が結社もこのところの高齢化の波は防ぎようもなく、また新規加入者も望めない。そんな状況下現在の会員数では発行に関する諸費用が全く賄いきれず、何とか維持できた今までの基金もとうとう底をつく状態になり、この12月号が通刊900号になるということで、何度も話し合った上涙を飲んで終刊の決定をしました。
その状況説明と会員の承認を貰うための総会が主目的での吟行会でした。嘗ては50名を上回るような一泊鍛錬会や大型バスを貸切っての日帰り吟行会を実施して来ましたが、今回はそういう状況だというのに30人を切る有様で…時の流れにはやっぱり逆らえませんね。
私が「早苗」に入会したのが1987年、早35年余りが過ぎました。そもそも私の俳句人生の出発点は「早苗」。それなのにその最後を見届けなければならないというのは、今までひたすら成長を願って手助けしてきた者としては断腸の思いがあります。しかし、これも時代の成せるわざならば悔しいけど抗いようがありません。
さて、当日は新山口から新幹線で広島へ9時半過ぎに到着。平和公園周辺の自由吟行でしたので、早速原爆ドーム前まで路面電車で…これに乗るのも久し振りです。電停に着くと、嘗て広島市民球場だった跡地が今は「ひろしまゲートパーク」になっていましたので、先ずはそちらの方へ。
特に今日はフラワーフェスティバルが開催中でしたので、なんとも賑やか。私たちは余り時間がなかったので、その後原爆ドームから平和公園の中を散策です。
上の写真は、原爆投下の目印となった「相生橋」です。全国でも珍しいユニークなT字型で、現在、橋詰めには被爆の痕跡を残す親柱が保存されています。また、爆風のため変形した橋げたの一部は、広島平和記念資料館に展示されているとか。
大体が見たことのある風景で目新しいのはなかったし、12時半が投句締切りで、会場は鷹野橋の「ゆいぽーと」。そこまで行くのと昼食の時間を考えるとゆっくりとはできないので、句材としての「学徒動員碑」や「原爆の子」の像、「被爆梧桐」などを見て回りました。
「学徒動員碑」は、平和の女神像と8羽のハトを配した高さ12mの有田焼の陶板仕上げで、末広がりの5層の塔の中心柱に慰霊の灯明がついています。塔の左右にある4枚のレリーフは「食糧増産作業」「女子生徒の縫製作業」「工場内での鉄工作業」「広島の灯ろう流し」を表し、その裏に全国戦没学徒出身校351校の校名と動員学徒悼歌“ほのお果てては”が記されていました。
千羽鶴の「原爆の子」の像は、三脚のドーム型の台座の頂上には平和な未来への夢を託した金色の折り鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像が立ち、左右には明るい未来と希望を象徴した少年少女の像があります。碑文は「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」というのが記されています。
塔の内部には、子どもたちの気持ちに感動したノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹博士の筆による「千羽鶴」「地に空に平和」の文字が彫られた銅鐸を模した鐘、その下に金色の鶴がつるされ、風鈴式に音が出るようになっています。
広島平和公園のシンボル的な「慰霊碑」。世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を、平和都市として再建することを念願して設立されたものです。屋根の部分は、はにわの家型(犠牲者の霊を雨露から守りたいという気持ちからこの型にしたもの)碑文は「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と。(揮毫は雑賀(さいか)忠義(ただよし)氏)
拝礼をしていると、一緒に行ったSさんが〝これを揮毫したのは僕の大学時代の恩師なんだよ〟と聞き、ヘエッとビックリ!知りませんでした。
最後は「被爆梧桐」。これは爆心地から約1.3km離れた、中区東白島町の広島逓信局の庁舎(現在の日本郵政グループ広島ビル。以前の中国郵政局)の中庭に1933年(昭和8)4月に植えられた4本のアオギリ。それが爆心地方向にさえぎるものがなかったため、熱線と爆風をまともに受け、そのため枝葉はすべてなくなり、幹は爆心側の半分が焼けました。しかし、4本のうちの3本が残りました。
この枯れ木同然だったアオギリは、翌年の春になって芽吹き、被爆と敗戦の混乱の中で虚脱状態にあった人々に生きる勇気を与えたのです。それが中国郵政局の建替えに伴い、1973年(昭和48)5月、現在の場所へ移植され、原爆の被害を無言のうちに語り続けています。移植された3本のうち、1本は枯れてしまいましたが、その後、二世と確認できる苗木が発見され、現在は3本になっています。
以上、駆け足で平和公園を紹介しましたが、この日も梅雨の曇天の中、多数の外国からの訪問客や修学旅行生で賑わっていました。そんな喧噪の中を歩いていると、これはどこかがおかしいようなと、その情景の中に何となく違和感を感じたのは私だけだったのでしょうか。
では、また…でも、このブログのUpいつになることやら…ゴメンナサイ!
コメントありがとうございます。
父の日のプレゼント…なんやかや言ってもやっぱりウレシイものでしょう。
だったら素直に悦びましょう。失礼!
ところで、終刊という言葉はやはり重たいですよね。
長く出版業界にいらっしゃったこちウワ男さまですもの、よくお分かりでしょう。
それも900号ということは、約75年なんですよ。先輩の方々のことを思うと…殆ど亡くなられていますが、残念がられることでしょう。
まあ、句会は存続しますから仲間がいなくなるということはないので、その点では淋しくはありませんが…。
労いのことばを有り難うございました。
やっぱり何をおいても病院へ行って診て貰うのが正解!
しかし、歯の脱臼とは…今まで聞いたことがありません。
肩とか足とかは…私は経験がないのですが、とても痛いとか。でも、脱したところが元に嵌まると嘘のように痛みが取れるとも聞いたことがあります。
mioさんの歯は元に戻って痛みが取れたの?それとも神経を取ったからなのかしら。
とにかく根治治療をして下さるでしょうから…でも、虫歯は?
広島の住民からすると今日の騒がれ方というか、何だか源がどこかに追いやられて…要するに観光地化してしまっているのがイヤですね。他の名所旧跡と同じレベルに扱われるのは…
俳句は…ブレバトで大いに愉しんで下さい。(^0^)それでいいですよ。
おでこのコブ大丈夫ですか?
休刊ならまだいいのですが、終刊なんですよ。
休刊なら誰かが復活させるという期待があるのですが、終刊は完全に終りで復活はないんです。
これは我が結社「早苗」だけではなく、今時の流れでしょうか。
紙文化が廃れていくというのは…
宇部市と広島とは隣の県ですから、新幹線で40分前後、家からだと1時間30分ぐらい掛かります。
まあ出掛ければ1日仕事になりますね。やっぱり俳句を詠むより歩き回るのが疲れます。歳ですね。
当時広島へ行くと、原爆資料館に必ず行きました。あの頃は、本当に「悲惨な状況」がひしひしと伝わる建物でしたが、次第に見世物的要素が増えて、何だか立派になり過ぎた感があります。
私は一番ショックだったのは、「焼けただれた制服」中学3年生男子の物だったのですが、どう見ても身長150cmなかったです。肩幅も35cmあるかないかで、当時の国民がどんなに過酷な立場にあったかと思うと、子供心に辛かったです。
俳句は、今テレビで結構盛んにやっているのに、廃刊になるのですか?夏井先生のように行かないんですかしら。
私も能無しでして、俳句はよう作りませんので、何とも言えないですけど。でも、あの番組は毎週家族で見ていて、あこはこうすべきやとか、流石なっちゃん!なんて声かけているのですよ(;^_^A
長年続けてきた、俳誌の休刊とは残念ですね。
やはり、時代の流れでしょうか・・・
最後の吟行なんですね。
ちわきさんの居住地と広島は近いのですか。
あまりに、有名な場所の吟行は難しそうです。
でも、みなさまベテランさんでしょうから
そんなことないかな。