『S-Fマガジン2017年6月号』
アジア系SF作家特集。アジア系とは何ぞ、という感じではあるが、要は英米SF市場における“アジア系SF作家”の出版現状の紹介。もちろん、そういう意味で日本の作家もこの枠の中に入る。
ただ、オタクカルチャーの延長として紹介される日本SFに対し、テッド・チャンやケン・リュウなどのアジア系SF作家の作品や、彼らによって紹介される中華SFという違いは大きいかも。ネイティブな英語で書ける日系SF作家は出てこないものか。カズオ・イシグロにはこの方面は期待できそうにないしな。
一方で、中華SFが中国語からではなく、英語を挟んで訳されるというのも興味深い現象。そういえば、ロシア人作家もこのパターンが多いんだっけ。日本は日本だけで市場が作れてしまうのが、良くもあり、悪くもあり……といった感じ。どんな分野においても、ガラパゴス化しやすいのだよね。
そして、ここで紹介されている中華SFを読む限り、閉塞感と諦観が苦しいくらいに伝わってくる。世界を変えようとか、冒険に出かけようというイメージではなく、世界はこうなっているのだ、こうしかならないのだというイメージ。ありのままの世界を受け入れようというか……。これって、向こうの政治情勢を反映したりしてるんだよね、きっと。
2017年春アニメ特集がらみでは、今季見ているのは『正解するカド』ぐらい。しかし、あれも展開が遅くて退屈。もうひとつ、特集には出てこないけど『有頂天家族2』を連ドラ予約しているはずが、何度も録画ミスになっていて原因不明。まぁ、こっちは原作を読んでるからいいんだけど。
筒井康隆の「筒井康隆自作を語る」は割と貴重な連載になるかも。この人をはじめ、あの時代のSF作家は、あの時代だからこそSFを書き始めたんだなと思う。SFも才能ある若者が集う“新たな何か”であった時代があるのだ。今でいうとなんだろうな。ちょっと思いつかない。
○「折りたたみ北京」 カク 景芳/大谷真弓訳(カク=赤へんにおおざと)
固定された格差と、それを乗り越えることを子供に託す人々。折りたたまれる世界のイメージは強烈。しかしこれも、世界を変えようという話ではないのだよね。
○「母の記憶に」 ケン・リュウ/古沢嘉通訳
わずか数ページの短編ながら、今年一番泣ける小説。
○「麗江の魚」 スタンリー・チェン/中原尚哉訳
時間拡大と時間圧縮。生ける屍と、生産性向上のモルモット。この舞台を中国にしたことに特別の意味はあるか。
○「コンピューターお義母さん」澤村伊智
タイトルの出オチと見せかけて、二重にオチが待っていた。いやしかし、真相がわかってもウザイ。
○「スタウトのなかに落ちていく人間の血の爆弾」藤田祥平
タイトルは妙に気が惹かれるが、苦手なタイプの小説かも。
○「と、ある日のアルバイト」宮崎夏次系
なんか、そこで意地張って引っ張り続けるのもズレてる気がした。
連載はどれも、ほら2か月空いたら忘れてる、というのが事実。何とかならんのか、俺の記憶力は。