『道化師の蝶』 円城塔 (講談社)
読み直してからと思っていると、いつまでも感想が書けないのでとりあえず……。
言わずと知れた芥川賞受賞作。これでSFでも芥川賞が取れることが証明されたわけだが……はっきり言って、これに賞を与えるならば、『これはペンです』に受賞させるべきだった。そうすれば、田中慎弥に喰われて影が薄くなることもなかったのに(笑)
いや、そういうわけでもなく、面白さも小説としての完成度も『これはペンです』の方が上だと思うんですよ。『道化師の蝶』は、なんというか、小説としてトリッキーすぎる。
謎の覆面作家、トモユキ・トモユキと、彼を追う大富豪A・A・エイブラムズ。そして、エイブラムズのエージェントの一人である友幸友幸の翻訳者。
この小説では、章毎に複数のわたしが存在し、複数の現実が存在する。その一部は小説内小説であることが明示されているが、そうではない章について小説内現実であることは“保障されない”。はたしてこの小説内に現実は存在するのか。
読み方でキーワードになるのは“無活用ラテン語”。これは、時制や格変化がなく、主語、目的語がわからなくなるという混乱発生装置。もしかしたら性も不明確になる文があるかもしれない。ゆえに、“彼”が“子宮癌”で亡くなることも当然ありえる。誤訳として。
Ⅰ章はこの無活用ラテン語で書かれた文章を、Ⅱ章のわたしが不完全ながら翻訳したという設定である。つまり、Ⅱ章冒頭は早くも「信頼のおけない語り手」のカミングアウトなのだ。翻訳は正確ではない。この言葉が、カップリング(笑)の「松ノ枝の記」まで含めて重大な留意点になる。
つまりは、翻訳のズレの話。着想が蝶として頭から飛び出て、高速で移動する飛行機の中ではそのまま後方に置き去りにされてしまうというのが“道化師の蝶”。しかし、この蝶の話は主題ではなく、“翻訳のズレ”の話を書くにあたっての例に過ぎないのではないかという解釈も成り立つ。
「松ノ枝の記」では、翻訳のズレがさらに露骨に物語に絡んでくる。なにしろ、日本人作家(わたし)が米国人作家の小説を不完全に翻訳し(作中内の「松ノ枝の記」)、その翻訳版を米国人作家が歳翻訳して新作(「松ノ枝ノ枝の記」)として発表するくらいなのだ。つまり、翻訳という変換によって、物語がまったく違うものになってしまう。
そして、解釈の大きなカギとなるのがⅣ章とⅤ章。ここは米国人作家の屋敷の玄関ホールの記述なのだが、なんの説明もなく同じシーンがちょっとずつ違って繰り返される。素直に読むと、Ⅳ章が小説内小説としての「松ノ枝の記」の記述なのだろうが、それではⅤ章は小説内現実なのか?
そこで思い出さなければいけないのは「松ノ枝ノ枝の記」という存在。つまり、ここでもまた現実は保障されず、実はふたつとも小説内小説であるという可能性が提示されているのである。
どちらが創作内創作。どちらが翻訳。さて、現実はどこに?
「松ノ枝の記」と同じ構造を「道化師の蝶」が持っているとしたら。はたして友幸友幸が書いた章はどれか。
どうです、だんだん混乱してきたでしょ。本当に、読めば読むほど混乱する小説なのですよ、これ。しかもそれをかなり意図的にやっている。とっても意地悪でトリッキーな小説だ。こんなものに賞を与えてはいけない(笑)
本来、幻想は現実を侵食しない。そう読めるのは誰かが騙そうとしているから。という立場に立てば、この複数のわたしの意地悪さ加減に非常に腹が立つ。なにしろ、この小説に目的があるとすれば、それは読者を混乱させて面白がるということだけだからだ。
まぁ、普通に幻想小説だと思って読むのが正しいと思いますけどね。
あと、小ネタを取り上げるとすると、ナボコフと『ロリータ』の話は文学好きの人のためにとっておいて……。
「道化師の蝶」にでてくるわたし(どのわたし(笑)?)が取り組んでいるフェズ刺繍は、雪っぽいような、フラクタルのようなデザインをしている。そして、裏から見ても表から見ても同じデザインになるのだという。なるほど、ちょっと象徴的かもね。
そして、“松の枝”はフラクタル図形の見栄えとして時々耳にする喩え。“松の枝の枝”とかい言い出すと、さらにフラクタルっぽさが増す。このあたりもいろいろ象徴的。
あと、Google先生に聞いたところ、“Mr. Pinebranch”が登場する小説があるらしい。その名も、『The Adventures of Harry Marline』。日本語訳は出版されていないけようだれど、いずれ円城塔が翻訳するかもしれない(笑)
読み直してからと思っていると、いつまでも感想が書けないのでとりあえず……。
言わずと知れた芥川賞受賞作。これでSFでも芥川賞が取れることが証明されたわけだが……はっきり言って、これに賞を与えるならば、『これはペンです』に受賞させるべきだった。そうすれば、田中慎弥に喰われて影が薄くなることもなかったのに(笑)
いや、そういうわけでもなく、面白さも小説としての完成度も『これはペンです』の方が上だと思うんですよ。『道化師の蝶』は、なんというか、小説としてトリッキーすぎる。
謎の覆面作家、トモユキ・トモユキと、彼を追う大富豪A・A・エイブラムズ。そして、エイブラムズのエージェントの一人である友幸友幸の翻訳者。
この小説では、章毎に複数のわたしが存在し、複数の現実が存在する。その一部は小説内小説であることが明示されているが、そうではない章について小説内現実であることは“保障されない”。はたしてこの小説内に現実は存在するのか。
読み方でキーワードになるのは“無活用ラテン語”。これは、時制や格変化がなく、主語、目的語がわからなくなるという混乱発生装置。もしかしたら性も不明確になる文があるかもしれない。ゆえに、“彼”が“子宮癌”で亡くなることも当然ありえる。誤訳として。
Ⅰ章はこの無活用ラテン語で書かれた文章を、Ⅱ章のわたしが不完全ながら翻訳したという設定である。つまり、Ⅱ章冒頭は早くも「信頼のおけない語り手」のカミングアウトなのだ。翻訳は正確ではない。この言葉が、カップリング(笑)の「松ノ枝の記」まで含めて重大な留意点になる。
つまりは、翻訳のズレの話。着想が蝶として頭から飛び出て、高速で移動する飛行機の中ではそのまま後方に置き去りにされてしまうというのが“道化師の蝶”。しかし、この蝶の話は主題ではなく、“翻訳のズレ”の話を書くにあたっての例に過ぎないのではないかという解釈も成り立つ。
「松ノ枝の記」では、翻訳のズレがさらに露骨に物語に絡んでくる。なにしろ、日本人作家(わたし)が米国人作家の小説を不完全に翻訳し(作中内の「松ノ枝の記」)、その翻訳版を米国人作家が歳翻訳して新作(「松ノ枝ノ枝の記」)として発表するくらいなのだ。つまり、翻訳という変換によって、物語がまったく違うものになってしまう。
そして、解釈の大きなカギとなるのがⅣ章とⅤ章。ここは米国人作家の屋敷の玄関ホールの記述なのだが、なんの説明もなく同じシーンがちょっとずつ違って繰り返される。素直に読むと、Ⅳ章が小説内小説としての「松ノ枝の記」の記述なのだろうが、それではⅤ章は小説内現実なのか?
そこで思い出さなければいけないのは「松ノ枝ノ枝の記」という存在。つまり、ここでもまた現実は保障されず、実はふたつとも小説内小説であるという可能性が提示されているのである。
どちらが創作内創作。どちらが翻訳。さて、現実はどこに?
「松ノ枝の記」と同じ構造を「道化師の蝶」が持っているとしたら。はたして友幸友幸が書いた章はどれか。
どうです、だんだん混乱してきたでしょ。本当に、読めば読むほど混乱する小説なのですよ、これ。しかもそれをかなり意図的にやっている。とっても意地悪でトリッキーな小説だ。こんなものに賞を与えてはいけない(笑)
本来、幻想は現実を侵食しない。そう読めるのは誰かが騙そうとしているから。という立場に立てば、この複数のわたしの意地悪さ加減に非常に腹が立つ。なにしろ、この小説に目的があるとすれば、それは読者を混乱させて面白がるということだけだからだ。
まぁ、普通に幻想小説だと思って読むのが正しいと思いますけどね。
あと、小ネタを取り上げるとすると、ナボコフと『ロリータ』の話は文学好きの人のためにとっておいて……。
「道化師の蝶」にでてくるわたし(どのわたし(笑)?)が取り組んでいるフェズ刺繍は、雪っぽいような、フラクタルのようなデザインをしている。そして、裏から見ても表から見ても同じデザインになるのだという。なるほど、ちょっと象徴的かもね。
そして、“松の枝”はフラクタル図形の見栄えとして時々耳にする喩え。“松の枝の枝”とかい言い出すと、さらにフラクタルっぽさが増す。このあたりもいろいろ象徴的。
あと、Google先生に聞いたところ、“Mr. Pinebranch”が登場する小説があるらしい。その名も、『The Adventures of Harry Marline』。日本語訳は出版されていないけようだれど、いずれ円城塔が翻訳するかもしれない(笑)