『ラブリーボーン』 - goo 映画

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SFマガジンに“いささか残念な仕上がり”と書いてあった通りだ。SFファン、ファンタジーファンには見処が少ないかも。いや、それ以前に、14歳の少女だったことがないというのが、最大の敗因かも。
主人公スージーの視点にたって、死んだあとも自分の死を受け入れられず、家族を見守るというシチュエーションにバッチリはまったなら、思いっきり悲しい話らしい。
ところが、そこが問題なんだよな。どうしてもスージーの視点に立てない。だから、家族の現実パートを第三者的に見てしまった結果、スージーのパートと現実のパートが独立展開にしか感じられず、“家族を見守る”という意識がまったく無かった。
スージーが家族に気付かれないシーンはあっても、家族を見ているシーンというのが無い。あずまやの崩壊シーンも、現実世界の状況とリンクしているものの、スージーが現実で何が起こっているのかを見ているという描写がない。父親が犯人に気付くシーンにしても、スージーが教えているようにはどうしても見えないんですが。あれって予備知識無しでもそういうシーンだとわかるものなのですか?
それがゆえに、家族の再生も、スージーに無関係に時間が癒してくれたようにしか見えない。スージーが天国にいけなかった理由も、天国にいけるようになった理由も良くわからない。あのタイミング、犯人の証拠を見つけたことと、母親が帰ってきたことの重なった絶妙なタイミング。結局、どっちが重要だったのか曖昧なまま。わざとテーマをぼかすようにしているとしか考えられないんですが。
さらに、納得のいかないこといろいろ。
連続少年少女殺害事件を扱った小説といえば、オーソン・スコット・カードの『消えた少年たち』とか、ニール・ゲイマンの『アメリカン・ゴッズ』とかが思い浮かぶわけですが、そこで共通に扱われているのは、“わたしはここにいるよ。だから、早く見つけて”という想いなんだが、スージーはなんで自分の遺体を未発見のままにしたのか。すべて一緒でなければならないというわけではなく、どうしてそう思ったのかがわからない。
最後のシーン。レイがキスした相手は、中身はスージーでも、外見はルースだろ。レイとルースの関係はあの時どうなっていたんだろう。どうにもなっていなくて、あの家具を穴に捨てに来てただけならいいんだが、何がしかの関係を作ろうとしている途中だったら、その後のレイやルースの心境を考えると、かなり微妙じゃないかね。
あと、なんかいろいろ釈然としないことがあったような……。
二時間以上の長い映画ではあったけど、原作の要素を詰め込んだ上で、映画としてプラスを積み上げようとした結果、テーマもメッセージもわかりにくい映画になっちゃったんじゃないかなと思う。まぁ、『ミリオンダラー・ベイビー』だのなんだの、映画関係者に評価されて映画賞獲った作品をおもしろいと思ったことはないので、そんなもんか……。

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SFマガジンに“いささか残念な仕上がり”と書いてあった通りだ。SFファン、ファンタジーファンには見処が少ないかも。いや、それ以前に、14歳の少女だったことがないというのが、最大の敗因かも。
主人公スージーの視点にたって、死んだあとも自分の死を受け入れられず、家族を見守るというシチュエーションにバッチリはまったなら、思いっきり悲しい話らしい。
ところが、そこが問題なんだよな。どうしてもスージーの視点に立てない。だから、家族の現実パートを第三者的に見てしまった結果、スージーのパートと現実のパートが独立展開にしか感じられず、“家族を見守る”という意識がまったく無かった。
スージーが家族に気付かれないシーンはあっても、家族を見ているシーンというのが無い。あずまやの崩壊シーンも、現実世界の状況とリンクしているものの、スージーが現実で何が起こっているのかを見ているという描写がない。父親が犯人に気付くシーンにしても、スージーが教えているようにはどうしても見えないんですが。あれって予備知識無しでもそういうシーンだとわかるものなのですか?
それがゆえに、家族の再生も、スージーに無関係に時間が癒してくれたようにしか見えない。スージーが天国にいけなかった理由も、天国にいけるようになった理由も良くわからない。あのタイミング、犯人の証拠を見つけたことと、母親が帰ってきたことの重なった絶妙なタイミング。結局、どっちが重要だったのか曖昧なまま。わざとテーマをぼかすようにしているとしか考えられないんですが。
さらに、納得のいかないこといろいろ。
連続少年少女殺害事件を扱った小説といえば、オーソン・スコット・カードの『消えた少年たち』とか、ニール・ゲイマンの『アメリカン・ゴッズ』とかが思い浮かぶわけですが、そこで共通に扱われているのは、“わたしはここにいるよ。だから、早く見つけて”という想いなんだが、スージーはなんで自分の遺体を未発見のままにしたのか。すべて一緒でなければならないというわけではなく、どうしてそう思ったのかがわからない。
最後のシーン。レイがキスした相手は、中身はスージーでも、外見はルースだろ。レイとルースの関係はあの時どうなっていたんだろう。どうにもなっていなくて、あの家具を穴に捨てに来てただけならいいんだが、何がしかの関係を作ろうとしている途中だったら、その後のレイやルースの心境を考えると、かなり微妙じゃないかね。
あと、なんかいろいろ釈然としないことがあったような……。
二時間以上の長い映画ではあったけど、原作の要素を詰め込んだ上で、映画としてプラスを積み上げようとした結果、テーマもメッセージもわかりにくい映画になっちゃったんじゃないかなと思う。まぁ、『ミリオンダラー・ベイビー』だのなんだの、映画関係者に評価されて映画賞獲った作品をおもしろいと思ったことはないので、そんなもんか……。