『アロウズ・オブ・タイム』 グレッグ・イーガン (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)
〈直交〉三部作の完結篇。
いやー、長かった。わからないところは飛ばして読むのがイーガンの作法なのだけれど、飛ばし過ぎてわけがわからなくなって戻ったり、酔っぱらって読んだら次の朝まったく覚えてなくて戻ったりと、散々なことになった。悪い意味でイーガンに慣れ過ぎちゃったのかもしれない。
第2部での予告通り、第3部は露骨な感じにエンターテイメント寄りなストーリー展開が意識されているようで、いきなりの危機脱出サスペンス。このくだりは不要なような気もしたが、社会情勢の紹介という位置付けなのかも。なにしろ、第2部から何世代も過ぎているわけだからね。第2部で萌芽が見えた現象がとっくに常識となっていて、それがラミロの思想にも関連付いているのだ。このあたりは読み終わってから気が付いた。
そして、今回の主題である“時間の矢”。これに関しては思考実験としては面白いけれども、どうにも納得がいかない。解説の例にある砕けたコップの逆回しも、小説内に出てきたまとわりつく砂粒も、ありえない話に思える。確かに、運動方程式は時間に対して対称的なのだが、砕けたコップの破片が動き続けないのも、蹴散らした砂粒が等速運動を続けないのも、摩擦や何かでエネルギーを失っているからだろう。ならば、逆向きに破片や砂粒が動き始めるためのエネルギーはどこから来たのか。まさしく、マジックだよ。
そもそも、光速が不変の定数であることを前提にしたアインシュタイン方程式やシュレーディンガー方程式が、光速が可変で、それによって時間が方向性を持つような世界でも成り立つとした仮定が矛盾しているのかもしれない。E=mc2なんて、cが可変ならばエネルギー保存則も成り立たないわけで、常識が通用しないのも当たり前だ。そこは真空が持つエネルギーで補完されるとしても、フィクション上ですら信じることができなかった。
もう、この時点になると、そうなっているからそうなのだと、思考実験をすっ飛ばして“信じる”しかなくなってくる。
そういう難しい超物理学を読み飛ばすと、やっぱり一番のミステリであり、今回の主題は、誰が石碑を刻んだのか(もしくは刻むのか)という問題。
イーガンの主張は、タイムパラドックス的には決定論の一種と言えるかもしれない。シュレーディンガーの猫的に、観測された時点で過去(でなはなく因果)が収束するというのは興味深いし、理解できる。しかし、タルクイニアが岩を刻もうとしてもできなった件はどう解釈すべきなのか。もしかしたら、人力じゃなくって、もう一度爆弾を爆発させたら違う結果になったのか。この辺りは、物理法則以上の何かを想定せずにはいられなくて、イーガンでさえ宗教的な軛に囚われている気がするんだよね。いや、もしかして、これもわざとなのか?
そんなこんなでクライマックスを迎えるわけだが、ここで残りはわずか数ページ。あれ、そもそも彼らは母星を救えるのか、第4部へ続くのか……と焦っていたら、最終章の数ページで感動的なラストが待っていた。いや、もう、すべてをすっ飛ばして、この章だけあれば良かったのかもしれない。
思えば、6+6の12世代(だよね)、人間に換算すると300-400年。母星を救うために、自分たちの子孫を含め、大きな賭けに出たものだよな。世代宇宙船と言えば、SFでは大抵、当初の目的を忘れて退行してしまうものだ。ほら、頭が二つのエイリアンになったり、世界の目的地を忘れてしまったりさ。しかし、ヤルダの子孫たちは、度重なる危機を乗り越えて、当初の目的を越えて、遥かな旅路をやり切ったのだ。母星のことを忘れず、自らの生命を賭けて
その世代を超えて受け継がれた意思の強さは素晴らしい。なにより、そこに感動した。