コサギとカワウのが盛んに餌捕り中、アオサギも奮闘していました。
何気なしにテレビのBS放送のチャンネルを操作していたら、タイ国プーケット島街歩きを放映されていた。総てを観たわけではないが、雑貨店の店頭で、生きたウナギと亀を売っていた。レポーターが違和感を覚えたのかその理由を売り子に聞いたら、その答えは功徳を積むために生き物を購入して河川等へ放流するとのことであった。タイは仏教国で、熱心な信者が多い国の一つである。幼いときからの風習は大人になっても継続するもので、生活の至る所に仏教が入り、生き方そのものを律しているようである。このような商売があることに対し、不思議な感覚を持った。
毎日、托鉢に訪れる坊さんへはハスの蕾と食料や線香を渡していた。喜捨だそうである。我が国にもそのような風習があったことを思い出す。虚無僧がそうで、今でも永平寺や延暦寺の僧が托鉢に歩いているようであるが、都会では殆ど見かけることはなくなった。
どのような宗教にしても、寺(教会)と民衆とが密接に関係し、生活の一部として繰り返されることをどのように考えるのか、「お陰様で」の言葉が示すように、生きていることへの感謝は文明が発達した現在でも忘れてしまうことは残念なことである。
長らく仏教に帰依することが続いているタイ国においては、ブミポン国王も仏教徒であり、国教となっている。一方、我が国は神仏混淆で国教がはっきりしない。天皇は神道であり、殆ど仏教の行事に顔を出さないが、宗教の自由が憲法で保障されているとはいえ、国民の象徴である天皇が神道だけに傾注するのはすっきりしない。ここで天皇批判を述べるつもりはないが、頭の隅にいつもある違和感を長年払拭できないで居る。
喜捨することの意味については、以前このブログで紹介したことがある。出張でエジプトへ派遣されていたときに、イスラム教の戒律の一つに喜捨(ザカート)があるという話である。
災害ボランティア、義援金の受付等、今回の広島の豪雨による土石流で被害を受けた方への支援が始まった。このことは日本人が持っている自然な感覚である。将に喜捨であろう。同情や哀れみを持つことへの抵抗は差別意識に繋がるとして、抵抗する人も多い。しかし、宗教観とは別に、知っていながら、見過ごすことで何もしないことよりは、何か行動を起こす方がましと考えるが如何であろうか。