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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

山本一太氏  

2025-02-09 18:24:26 | 文化

>朝日新聞   >群馬知事「一太さん」と呼んで県庁内、役職名でなく「さん」付けを   >朝日新聞社によるストーリー・   >6時間   

> 群馬県の山本一太知事は6日の定例会見で、県庁内を「フラットな組織にする」一環だとして、知事以下、部長や課長といった役職名ではなく、「さん」づけで呼ぶ運用を始めると発表した。   

 

そうですね。日本人の社会は序列社会ですからね。改革運動ですね。      

 

>ただ、山本知事自身は「『一太さん』と呼んで」と話しており、ファーストネームを推奨するという。   

> 県によると、24日の政策会議でDXや行革についての成果や課題が話題になった。   

>山本知事は「組織の風通しをよくするには、形から入るのが大事」として、上司や部下は関係なく、呼称については「さん」を使うように周知していくという。   

>強制するものではなく、あくまでも要請という。   

 

「さん」を趣味の問題とするのですかね。   

 

> 山本知事は「呼びかけ方で心の壁が取り払われる。   

>県庁全体で『さん』づけで呼ぶ文化にしたい」と意識改革に期待をよせる。   

>一方、自身がファーストネームにこだわる理由については「『山本さん』では、よそよそしい」と説明した。   

 

気分・雰囲気・感情の問題ですかね。それは歌詠みの世界ですね。   

 

> 栃木県では20234月から「さん」呼びを推奨している。   

3カ月の試行期間で評判がよく、実施したという。   

>担当課は「TPOにあわせていて、いまでは『さん付け』をつかう人が多い。  

>ただ、名前が出てこない場合は役職名が便利なようです」としている。   

>(高木智子)   

 

日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答えを出せる人が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。自己の見解を示せば学位 (博士号など) が得られる。自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走し続けて、いつまでたっても何処にも到達しない。だから、若者にも夢と希望が無い。

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)     

 

日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。 順位の比較は没個性的でなくてはならない。だから、序列競争の励みは個性の育成にはならない。     

 

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。ため口を禁じられているので、相手と対等な立場でものをいう事ができない。人間が真に平等であるという実感を体験したことがない。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。   

 

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬と序列作法には浅薄さが付きまとう。   

 

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、定刻通りに帰宅しないなど義理の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが叙勲の獲得は難しい。    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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