>東洋経済オンライン >「トランプ再び」を機にアメリカ信仰からの脱却を「グローバル化の終わり」の先にある2つの方向 >広井良典の意見・ >14時間・
>トランプ氏が再びアメリカ合衆国大統領に就任した。
>この意味とは何か。
>日本がとるべき対応、そして今後の世界のありようはどうなるのか。
>『科学と資本主義の未来──〈せめぎ合いの時代〉を超えて』著者の広井良典氏が読み解く。
(略)
>グローバル化の「先」にある2つの道
>最後に、「グローバリゼーション」というテーマとの関連について述べておこう。
>ここで私が指摘したいのは、「グローバル化の終わりの始まり」という視点だ。
>冒頭にもふれたように、トランプ政権は各国に対する関税引き上げや移民規制の強化を掲げ進めつつある。
>この背後にあるのはもちろん(白人中心の)「アメリカ・ファースト」の理念であり、それ自体は“反グローリズム”的な考えに基づくものと言える。
>こうした展開を私たちは大きな文脈においてどのように理解すればよいのか。
>ここで手がかりになるのは、数年前に実施に移されたいわゆる「ブレグジット(Brexit)」、すなわちイギリスのEU離脱をめぐる動きである。
>そしてここで浮かび上がるのが先ほど指摘した「グローバル化の終わりの始まり」という視点なのだ。
>あらためて言うまでもなく、私たちが現在言うような意味での「グローバリゼーション」を最初に本格化させたのはイギリスである。
>つまり同国において16世紀頃から資本主義が勃興する中で、たとえば1600年創設の東インド会社――株式会社の起源ともされる――に象徴されるように、イギリスは国際貿易の拡大を牽引し、さらに産業革命が起こって以降の19世紀には、“世界の工場”と呼ばれた工業生産力とともに植民地支配に乗り出していった。
>その後の歴史的経緯の詳細は省くが、そうした「グローバリゼーションを始めた国」であるイギリスが、経済の不振や移民問題等の中で、グローバリゼーションに「NO」を発信するに至ったのが「ブレグジット」の基本的な側面と言えるのではないか。
そうですね。
>つまり逆説的にも、グローバリゼーションを最初に唱えた国が、その終わりをも最初に提起したのだ。
>アメリカのトランプ政権も似た面をもっている。
>20世紀はイギリスに代わってアメリカが世界の経済・政治の中心となり(パクス・アメリカーナ)、強大な軍事力とともに「世界市場」から大きな富を獲得してきた。
>しかし中国をはじめとする新興国が台頭し、国内経済にも多くの問題が生じ始める中、トランプは政権1期目にもTPP(環太平洋パートナーシップ協定)からの離脱を実行し、今回の関税引き上げや移民規制など、まさに「グローバリゼーション」に背を向ける政策を本格化させている。
>イギリスを含め、ある意味でこうした政策転換は“都合のよい”自国中心主義であり、グローバリゼーションで“得”をしている間は「自由貿易」を高らかにうたって他国にも求め、やがて他国の経済が発展して自らが“損”をするようになると保護主義的になるという、身勝手な行動という以外ない面をもっているだろう。
それは彼らが良く勉強をした結果でしょう。やってみなければ分からない事でもあったのだ。
>しかし一方、このテーマはもう少し複雑な別の論点を含んでいる。
>すなわち、以上とは別の意味で「グローバリゼーションの限界」や矛盾がさまざまに見え始めているのが現在の世界であり、今後はむしろ「ローカリゼーション」が重要となり、かつそれが進んでいく時代を迎えているのだ。
そうですね。
>つまり環境問題などへの関心が高まる中で、「地産地消」ということを含め、まずはローカルな地域の中で食糧やエネルギー(再生可能エネルギー)等をできるだけ自給し、かつヒト・モノ・金が地域内で循環するような経済をつくっていくことが、地球資源の有限性やエコロジー的な観点からも望ましいという考え方が広がり始めている。
そうですね。地産地消の考えが浸透していれば福島第一原発のような事故も避けられたでしょうね。
>私が見るところ、こうした方向がかなり浸透しているのはドイツや北欧などの国々であり、これらの地域では「グローバル経済からまず出発してナショナル、ローカルへと降りていく」という具合に考えるのではなく、むしろ「ローカルな地域経済から出発し、ナショナル、グローバルと積み上げていく」という社会の姿が志向され、実現されつつある。
>ナショナリズムとローカリゼーション
>したがってやや単純化して対比すると、「グローバル化の終わり」の先の姿には大きく異なる2つの道があるのだ。
>1つは“「強い拡大・成長」志向と一体となったナショナリズム”としてのそれであり、トランプ政権はまさにこれである。
誰であっても成功体験の支配から抜け出すのは難しいですね。
>もう一つはここで述べている「ローカリゼーション」であり、それは上述のように環境ないし持続可能性、コミュニティ、再分配等を重視しつつ、ローカルな経済循環から始めてナショナル、グローバルへと積み上げていくという姿である。
>こうした方向は、先述の「持続可能な福祉社会(sustainable welfare society)」という社会像とそのままつながるし、私自身はこれからの地球社会の持続可能性や人々の幸福(ウェルビーイング)のためにはこの方向以外ないと考えている。
そうですね。我々はつつましく暮らさなければならない。
>まとめよう。
>本稿ではトランプ政権の意味するものという議論から始め、アメリカ社会の特質と問題性、アメリカとロシアの対立の背景、「グローバル化の終わり」の先にある2つの方向といった話題にそくして私見を述べてきた。
>トランプ就任を機に私たちが考えていくべきは、「アメリカ信仰」からの脱却そしてここで論じてきたような、これからの地球時代における新たな社会像の構想なのである。
日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人]
高等教育機関において自己の個人的な見解を明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。
何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)