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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

永久革命論

2015-07-17 16:06:58 | 日記

日本人には意思がない。
意思は未来時制の文章内容で、日本語には時制がない。
だから、日本人には自律意思がない。
優柔不断・意志薄弱に見える。

意思があれば、加害者意識 (罪の意識) も湧いてくる。
意思がなければ、加害者意識は強くない。アニマルのようなものか。
だが、被害者意識だけはある。謝罪がなければ恨みを生ずる。これが、実に恨めしい。
罪の意識がなければ、謝罪もない。謝罪があれば、それは自虐となる。
恨みを避けるために我々は供養をする。

英語には時制がある。
時制のある文章内容は、非現実である。
だから、文章の内容も個人個人で違っている。個人主義を認めることになる。
主体的思考が可能になる。民主政治も衆愚政治に陥ることなく行われる可能性がでてくる。

意思の違いがなければ、個人の違いも認めがたい。
意思の内容を表明する個人もいなければ、それを個人に求める者もいない。
だから、集団の中に意思の存在を示す指導者が育たない。だが、序列制度の親分は育つ。
意思のない親分には責任がない。とかく、この世は無責任。

意思のある所に方法はある。(Where there's a will, there's a way).
意思のないところには方法がない。だから、親分は、無為無策でいる。
恣意 (私意・わがまま・身勝手) はあるのだが、恣意にはリーズン (理性・理由・適当) がない。だから、リーズナブルな説明責任を期待することはできない。
恣意により、自ら望むことなく危機に陥る民族である。

・> 「丸山は国家の方向が国民の自律意志に基づいて決定されるべきだという考えを持っていた。国民の判断と主体的思考を基礎に、時間がかかっても民主主義を実現させなければいけないということだ。これが丸山の『永久革命論』だ。彼は徹底的に合理主義的な知識を基盤とする近代主義者だ。彼の哲学には、他のアジアの国々の固有の民族主義を害する行為を日本がしてはいけないという内容もある。敗戦後の日本の混乱した状況で、彼の主張は当時の日本社会で大きな反響を起こした」


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恐ろしいこと

2015-07-17 00:26:59 | 日記
聖書は神の教え。論語は孔子の教え。新憲法はマッカーサの教え。それぞれ、キリスト教・儒教・九条教の原点となっている。いくら新憲法は自分たちの憲法であるとは言え、原典の内容を書き換えることは、無哲学・能天気の日本人にはできそうにない。与えられる事は喜ぶが、自ら生み出す力に欠けている。だから、文章の内容が現実に合わなくなれば、勝手な解釈をする。すると、違憲は合憲に見えてくる。ノーはイエスに見えてくる。
都合が良い。日本人のご都合主義が発揮される。言語・文章では、行動の歯止めがかからない。日本人が、かねてから恐れていたことが起こってしまった。勝手な解釈の暴走により、国はひっくり返る。日本人のお粗末である。これが習慣に成っていては、文章の意味を練る励みに意味はなくなる。我が国民の作文能力は低下する。民度の低さは、文章の意味を正しく読み取る力と、自分の考えを明確に表現する能力に欠けていることである。

カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の<”ジャパン・プロブレム”>の中で下記の段落のように述べています。

、、、、、日本の社会でいう “現実” (リアリティ) とは、客観的に観察した結果としての実際の事実というより、心情的なイメージに合わせて構築された、そうあるべき “リアリィティ” だからである。そしていうまでもなく、望ましいと想定されるイメージは、そのときその人の属するグループの利益と一致することが多い。 、、、、、
西洋では、現実はそうやすやすと管理されたり、意のままに作り変えられたり、相談で決められたりするものとは、考えられていない。つまり、こうあるべきだという任意の考えによって左右されるものとは考えられていない。事実、西洋の哲学または西洋の常識の基礎は、人間にはつきものの自己欺瞞をおさえるには、妄想や幻想を入り込ませないようつねづねよく注意することだと教えている。ギリシャ文明以来、西洋の知の発達の歴史を貫いてつねに強調されてきた戒めが一つあるとすれば、それは、「矛盾を育むなかれ」ということである。この戒めは、論理、数学、科学の根本法則である。(引用終り)

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