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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

事実を捉える

2018-02-28 04:23:57 | 教育
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>「事実を捉える力」
>英語では、「information gathering」(情報収集)「fact finding」(事実発見)などと言われ、自己を肯定しながら生きていくのにとても重要なスキルとなります。>カナダではこの「事実を捉える力・スキル」が自然に身につく教育がされています。

事実をとらえることが勉強の第一歩ですね。

>暗記型の教育が主流な日本ですが、カナダでは「思考」しながら学んでいきます。

暗記には他人の作った種本が必要ですが、英作文をするためには現実直視が必要で、自分自身の思考が必要になりますね。

>自分たちの頭で「考える」ことがとても重要だと分かっているんです。

そうですね。同感です。’考える人’ になる事が重要ですね。

>中学校の英語で習いませんでしたか?>「5W1H」:When (いつ),Where (どこで),Who(だれが),What(何を),Why (なぜ),How(どのように)

はい、私も習いましたよ。

>家庭でも学校でも親や教師は常にこの「5W1H」を言葉にしながら子供達に質問します。>だから子供たちにも自然と思考力がつくんです。

そうですね。「5W1H」を考えないと、英作文が出来ませんからね。英作文に励めば、思考力がつきますね。

>この「5W1H」を使うと、とても事実を把握しやすくなります。

そうですね。現実直視をしなくてはなりませんね。

>「人にどう思われるか」をとても気にする日本人。

そうですね。空気が読めないと日本人から嫌われますからね。とても気になりますね。

>私もその一人だったのですが、ある日、知り合いとの関係の中でなんとなく「嫌われたかもしれない」と感じた私はひとりなやんでいました。

悩み多き人生ですね。

>その時の私とカナダ人夫との会話はこんな感じでした。

あなたは、異次元の考え方に遭遇したのですね。

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>私:あの人に嫌われてるかも。>夫:何か言われたの?(What did she say?)>私:ううん。なんとなく。>夫:じゃぁなんで嫌われてるって分かるの?(Then why do you know she doesn't like you?)>私:なんとなくだけど。>夫:じゃぁ仮に嫌われたとして何かが変わるの?(If she didn't like you, how would your life be different?)>私:・・・何も変わらないかな。
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>私は事実を見ようとせずにただ何となくもやもやとしながら悩んでいただけなんです。

そうですね。あなたは、忖度 (推察) に耽っていたのですね。忖度は、本人の勝手な解釈であって、相手には何の責任もありませんね。

>私には「本当に嫌われているか」など全く分からなかったのですが「なんとなく」という理由で勝手に悩んでいただけでした。

忖度は、’もやもや’ の源ですね。

>相手が私のことを嫌っているかどうか、確かめようも確かめる気もなかった私に残った事実は一つ、「その人に嫌われても人生変わらない。」という事実でした。

そうですね。日本語の場合は文章が不完全ですからね。わからないことが多いですね。相手を突き詰めることは、あまりしませんね。

>人から何か言われたことに過剰に反応してしまう人や、そんな時がある人も、その人の発言は本当なのか?何を根拠としての事実なのか?よく考えると、大した根拠などない、事実がどうかも分からない場合がよくあります。

そうですね。日本人には過剰反応に悩む人も多いでしょうね。カナダ人の方は、忖度に耽ることが無いのでしょうね。

>(中略)

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>日本人の、言外のコミュニケーション能力は活かしつつ、事実(論理整合した仮説を含む)を追求することでより深い共認充足を得られる、そんな方向に向かいたい!

‘全ての内容は文章の中に表れている’ とするのが英米人の方針ですから、’言外’ は忖度に起因するものということになりますね。言外の内容は勝手な解釈で、’くよくよ’ の基になります。他人には関係のない内容なので、議論の対象にはなりませんね。個人的な感情的な日本人ということになりますね。

>先が見えない課題の中にいると感じるとき、まず現在の事実を把握するところから始めてみましょう!

そうですね。同感です。性 (gender)・数 (number) ・格 (case) などを考えて英作文をするときには、現実直視が必要になります。ですから、作文すること自体が自分自身の考えを引き出してくれます。
日本語の場合には、バラバラな単語 (小言・片言・独り言) を並べることが多く、文章になりません。文章にならないものは、意味もなければ矛盾も指摘できません。それで、議論にはなりません。歌詠みの様にものになります。意味にならないものを基にして現実直視の必要ない忖度 (推察) を活用させようと努力して ‘くよくよ’ しています。気分・雰囲気に酔うことも多々あることでしょう。所詮、不完全な文章に頼る日本人は自己の忖度に翻弄されて、’ひ弱な花’ に止まるのでしょうね。われわれも英米人の考え方を学びましょう。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」



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