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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

江藤淳 3/3

2020-04-20 09:42:40 | 社会

>検閲の存在をあくまで秘匿し尽くすという黙契に関するかぎり、被検閲者たちはたちどころに検閲者との緊密な協力関係に組み入れられてしまうからである。 >(江藤淳『閉ざされた言語空間』文春文庫P221)  

これは日本人式の協力関係ですね。
カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上>  (The Enigma of Japanese Power) の <ジャパン・プロブレム> 中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。(p.59)
“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が”理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。”相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。
 ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)

>検閲者・米占領軍と被検閲者・日本のマスコミ関係者との共犯関係・・・。 

序列関係の確立していない間柄では、日本人の寝返りは珍しくないですからね。わが国の首相も米国のエイジェントとなっている。日本人は、何を考えているかわからない。これは、我が国民が無哲学・能天気である証拠なのであろう。  

> 今、「小沢一郎事件」と「小沢一郎暗黒裁判」という限界状況的現実を前にして、はじめて、我々は、江藤淳が『閉ざされた言語空間』で言っていたことが歴史的事実であり、思想的現実であることを理解できるようになったと言っていい。 

わが国の官僚の忖度が働いているのでしょうね。事大主義というのかな。

>新聞やテレビを中心とする現在の日本のマスコミは、朝日新聞も産経新聞も、「小沢問題」に直面して、何故、奇妙に「全員一致の言説」になってしまっているのか。 

日本人には、批判精神 (critical thinking) というものがない。だから、ただ一斉に事実の内容をそのまま垂れ流すしかない。どんぐりの背比べの状態になっていて、有力紙というものが存在しない。

>つまり朝日新聞も産経新聞も、「小沢事件」報道や「小沢一郎暗黒裁判」擁護論ということになると、不思議なことにまったく区別がつかなくなるのだ。>何故か。>それを探っていくと、江藤淳が『閉ざされた言語空間』で抉り出した米占領軍による発禁・検閲という問題、そして発禁・検閲という事実を隠したという問題にたどり着くだろう。 

彼らの情報収集活動は、日本人の理解を超えていますね。

>日本の新聞やテレビは、つまり日本のマスコミ全体が、左翼も右翼・保守派も、あたかも飼い慣らされた犬のように、「米国」というと、無意識のうちに、あるいは本能的に「従米路線」に変身するのである。

そうですね。‘朱に交われば赤くなる’ ということですね。

>それは、敗戦直後の米占領軍が日本のマスコミに対して行った発禁・検閲という問題を抜きには考えられない。 

日本人の硬直した頭では、リーズナブルな答えなどは出てこないでしょうね。

>ネットを中心とする新しい世論が、「小沢一郎暗黒裁判」批判を展開しつつあるのも、そこに原因がある。> 言うまでもなく、「ネット」や「ネット論壇」「ブログ論壇」には米占領軍による発禁・検閲のトラウマがないからである。

そうでしょうね。


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江藤淳 2/3

2020-04-20 08:58:35 | 社会

>しかし、米占領軍は、1945年9月27日付けの「新聞と言論の自由に関する新措置」(scapin-66)で、従来の日本の法「新聞紙法」などの言論の自由を制限してきた法律の即時停止を命じた。>同時に、この「新聞と言論の自由に関する新措置」(scapin-66)で、米占領軍は、連合国最高司令官の名のもとに、新しい「発禁・検閲」を開始を宣言したのである。

彼らは、時局に対処したのでしょうね。宣言の美辞麗句だけでは現実は動きませんからね。

> 以後、日本の新聞をはじめとするマスコミは、日本政府の管理下から米占領軍の管理下、つまり米占領軍の検閲を受けることになったのである。>しかし米占領軍による検閲の存在と現実は、一部のマスコミ関係者しか知りえないように秘匿された。 

そうですね。  

>日本の新聞、マスコミが決してその「米占領軍による検閲」には触れようともせず、一種のタブーとなったからである。 

まだ日本は、米占領軍の検閲が必要な状態にあったのですね。日本人の頭のスイッチはそれほど早くは切り替わらないでしょうからね。

> 戦前、戦中の「出版法」「新聞紙法」「言論集会結社等臨時取締法」などによる検閲は、いずれも法律によって明示されていた検閲であり、非検閲者も国民もともに検閲者が誰であるかをよく知っていた。>タブーに触れないことを意図していたのである。

わが国の民主主義の敵は、責任者として戦後も罰せられることはなかったですね。

>しかし、アメリカの検閲は、隠されて検閲が実施されているというタブーに、マスコミを共犯関係として誘い込むことで、アメリカの意思を広めることを意図していた。>(江藤淳『閉ざされた言語空間』文春文庫より)  >検閲者・米占領軍と被検閲者・日本のマスコミ関係者との共犯関係・・・。

日本人は御都合主義ですからね。無哲学・能天気ですから自分自身の ‘あるべき姿’ の内容を堅持していない ‘つかみどころのない人間たち’ ですね。だから、米占領軍と日本のマスコミは一致協力して民主主義の樹立に努力できたのですね。

>江藤淳は、検閲の史実を論証しただけではなく、さらに検閲者と被検閲者たちの心理構造、そして深層心理まで抉り出している。>ここで看過することができないのは、このように検閲の秘匿を強制され、納本の延期について釈明しているうちに、検閲者と被検閲者とのあいだにおのずから形成されるにいたったと思われる一種の共犯関係である。

日本人は、’なあなあ主義’ によるものでしょうね。検閲者の方から譲る条件は何もない。’なあなあ主義’ とはなれ合いで事をすませること。、

>/被検閲者である新聞・出版関係者にとっては、検閲官はCCDかCI&Eか、その正体もさだかではない闇のなかの存在にほかならない。>しかし、新聞の発行をつづけ、出版活動をつづけるというほかならぬそのことによって、被検閲者は好むと好まざるとにかかわらず必然的に検閲者に接触せざるを得ない。>そして、被検閲者は、検閲者に接触した瞬間に検閲の存在を秘匿する義務を課せられて、否応なく闇を成立させている価値観を共有させられてしまうのである。/

事の次第を語っていれば全てを説明できますね。発言には自己主張というものが見られませんね。

>これは、いうまでもなく、検閲者と被検閲者のあいだにあるタブーの共有である。>この両者の立場は、他のあらゆる点で対立している。

個々の対立関係を乗り越えて両者は協力関係に入ったのでしょう。

>戦勝国と敗戦国民、占領者と被占領者、米国人と日本人、検閲官とジャーナリストだが、それにもかかわらずこの表の世界の対立者は、影と闇の世界では一点で堅く手を握り合わせている。

‘力は正義’ ですね。Might is right. ‘寄らば大樹の陰’ ですね。 ‘長い物には巻かれろ’ か。処世術 (現実) 以外には何物もないですね。



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