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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

無責任 3/3

2020-04-21 08:36:58 | 社会

>サバルタンという言葉がある。 >「みずからを語ることのできない弱者」というような意味だ。 >サバルタンはもともとは社会の支配階級に服従する底辺層を指した。 >歴史は常に支配階級によって書かれ、社会に受け入れられていくのに対し、底辺層サバルタンの歴史はいつも断片的で挿話的なものにしかならず、つまりサバルタンはみずからの力でみずからの歴史を紡ぐことを許されていない。

声なき民になっているのですね。

>つまりサバルタンの歴史は、つねに自分たちを抑圧する支配階級によってのみ語られ、書かれてしまうという矛盾した構造をはらんでいる。

彼らは自主・独立の精神を持つことは不可能ですね。  

>サバルタンは西洋と東洋、宗主国と植民地といった対比で使われるが、日本の戦後メディアと弱者の関係はサバルタンの構図に類似している。 >メディアは弱者の側に立つと称して勝手に代弁し、加害者=悪を糾弾する。 >現実世界での金や地位、支配力などの物理的な強弱はともかくも、インターネットも含めたメディアの空間では、弱者こそが最も「力」が強い。 >なぜなら弱者を正面切って批判するのは難しく、非難を浴びやすいからだ。 

誰を非難するかの問題ですね。弱者の側に立てば自己の非難は免れる。

> 弱者を装うことによって、力を得ることができる。>これがマイノリティ憑依である。

弱者を現実的に利用する方法ですね。

>だから新聞やテレビは過去から現在にいたるまで、「市民目線で」「庶民の目から見れば」などの言い回しを好む。

彼らの自分の目線は何処にあるのでしょうかね。

>市民や庶民という「政治権力に抑圧される弱者」に装うことは、本来は権力のひとつであるマスメディアにとって、みずからが批判の刃にさらされる危険性を減らすことができ、実に便利な「戦術」だったということになる。

そうですね。権力者のマスメディアにとっては、市民様・庶民様ですね。

> 「弱者である」ということはメディアの空間では無敵だから、それに対して政府や企業の側、あるいは言論人などがそれに批判を加えても、まったく揺るがない。

そうですね。弱者は無敵ですね。だが、低俗ではありませんか。

>なぜなら「弱者を代弁している自分たちこそが正しく、それを批判する者はイコール弱者を批判する者であり、悪である」という認識を保ち続けることができるからだ。

弱者は便利なメディアの隠れ蓑になっているのですね。

>だから彼らは、外部から叩かれれば叩かれるほど「悪から叩かれる自分たちはやはり正しいのだ」と意思をより堅固にしていってしまう。>「私たち記者は正義。がんばる」という通信社記者のツイートが話題になったことがあったが、まさにこの心情である。

無哲学・能天気の身の上では、よって立つところはありませんからね。

> 加えてこのように悪を糾弾し続ける姿勢は、加速しやすい。 >悪がいなくなった後も、いつまでも悪を探してしまう。 

悪がいなくなったら商売ができなくなりますね。

>なぜなら「悪と対峙し、弱者を代弁する自分こそが善である」というマイノリティ憑依の構図は、「加害者対被害者」「悪対善」という単純な二項対立の中でしか存在し得ないからだ。 

勧善懲悪の再現ですね。まだ子供の時代ですね。早く ‘考える人’ になりましょう。
‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)

>つまり悪がいなくなったとたんにこの構図は崩れてしまい、批判側はマイノリティ憑依のポーズをとれなくなってしまう。

現実のマイノリティがメディアの善そのものなのですね。批判精神のない人間は、批判するのに苦労しているようですね。やはり、’あるべき姿’ の内容我必要ですね。

>それを防ぐために、批判側は無意識のうちに新たな悪を探し求めてしまう。

悪が無くなれば、飯の食いあげですからね。あくまでも処世術に徹していますね。



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無責任 2/3

2020-04-21 06:36:15 | 社会

>人々は、太平洋戦争が政治家や軍人の無知と無謀と野望のためだったと思うようになり、「戦争は軍が勝手に引き起こしたことだ」といった言論がまかり通っていく。 >自分たちの戦争への加担はそうして忘れ去られていった。

意思の無い人間は、そのように考えるでしょうね。淡白な人間ということでしょうかね。

>「私たちはだまされていた」「私たちはずっと戦争には反対だったのに、みんな軍が悪い」という思い込みだけが膨れ上がったのだ。 

自己の意思を表せば、当事者・関係者となる。表さなければ傍観者にとどまる。日本人には意志がない。だから、我々は禍の原因には関係がない。人々は、建前 (言い訳・口実) を述べるだけである。それ以外には出てこない。

> 敗戦翌年の春、映画監督の伊丹万作は「戦争責任者の問題」というコラムを雑誌「映画春秋」の創刊号に書いている。 >戦争翼賛の映画をつくっていた監督やプロデューサーを告発する風潮が映画業界でも高まり、同じ映画業界の人たちが急先鋒になっていたことに、伊丹は痛烈な批判を加えた。 > 「みんな、今度の戦争でだまされたと言ってる。 >みんなが口をそろえてる。 >でも私の知ってる限り、『おれがだました』って言ってる人はひとりもいないな」

そうですね。日本人には意志がないのですから’だました’ と能動態 (active voice) で答える者はいませんね。’騙された’ と受動態 (passive voice) で答える者ばかりです。日本人には意志がないのだから、加害者がいなくて被害者ばかりが存在する。実に恨めしい社会です。
意思 (will) は未来時制の文章内容として表現ざれるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。 だから、日本人には意志がない。

> 一般国民は口をそろえて「軍と官僚にだまされた」と言い、軍と官僚は口をそろえて「上司にだまされた」と言う。 >その上司に聞くと、口をそろえて「もっと上の者にだまされた」と言う。 >そうやって突き詰めていくと、最後はひとりかふたりになってしまう。 >しかしそんなひとりやふたりの知恵で、一億人がだませるわけはないのではないか?

そうですね。被害者ばかりでは戦争はできませんね。兎角、この世は無責任です。

>そして伊丹はこう指摘する。 >戦争で誰が自分たちを苦しめたのかと思い出すときに、真っ先に記憶からよみがえってくるのは近所の商店主や町内会長や郊外のお百姓さんや、あるいは区役所や郵便局の役人たちではないだろうか。 >ありとあらゆる身近な人たちが、自分たちをいちばん苦しめていたではないか、と。 >つまりは悪人とは自分たち平凡な人々だったのだ。

そうですね。一国の政治は、その有権者の性格を良く表していますね。

>しかし伊丹のような声は戦後の空気の中で少数で、「われわれは被害者だった」「騙されていた」という大合唱に日本は呑み込まれた。

そうですね。わが国は、一億一心・ご唱和の国ですね。これは、戦前・戦後も変わらない。

>無謀な戦争に突入してしまったのはひとえに軍部という「加害者=悪」の責任であって、自分たちには責任がなかったのだという認識が世論として定着した。

そうですね。兎角、この世は無責任。日本人には罪がない。

>355863 戦後メディアの病② 弱者を装う  >根木貴大 ( 45 静岡 営業 )  20/04/19 PM10 【印刷用へ】  >リンク
>■市民や庶民という「政治権力に抑圧される弱者」に装うこと
>私 [佐々木俊尚氏] は2012年の著書『「当事者」の時代』(光文社新書)で、「マイノリティ憑依」という概念を提示した。 >「マイノリティ憑依」は、弱者に寄り添うといいながら、自分に都合の良い幻想の弱者像を勝手につくりあげ、その幻想の弱者に喋らせ、弱者を勝手に代弁することである。

代弁が好きなようですね。自己主張は不得意なのかな。
                                                                                                           
>メディアは自分の狙った物語を描こうとキャッチーな場面を撮影し、その物語に画面をはめ込もうとする。 >そこには第三者であるメディアの想像が繰り込まれてしまっている。 >このマイノリティ憑依については「佐々木が弱者を無視しろと言っている」「弱者への差別だ」と誤解して非難する人がときどき現れてくるが、そうではない。 >逆に弱者の本来の発言が無視されてしまい、彼らの存在そのものが他者に奪われてしまう問題をマイノリティ憑依は孕んでいるのだ。

そうですね。その可能性はありますね。



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無責任 1/3

2020-04-21 01:56:45 | 社会

(略)
>本稿では、加害者と被害者の関係という構図からこの問題について論考していきたいと思う。
>前半ではなぜ戦後メディアがこのような構図に陥っていったのかを歴史を振り返りながら概観し、後半ではこのような構図が社会にどのような影響を与えているのかを論考する。
>■自分たちには責任はなかった

とかくこの世は無責任ということですか。

>戦後マスメディアの問題の原点はどこにあるのだろうか。>出発点にまでさかのぼってみよう。 > 太平洋戦争が終わった1945年の暮れに『旋風二十年 解禁昭和裏面史』(森正蔵著、鱒書房)という本が出版された。 

ずいぶん早く出版されましたね。以前から用意されていたのでしょうね。

>上巻は最初の1週間に10万部を売り、下巻は翌春に出て70万部以上の大ベストセラーとなった。

暴露本はいつも人気がありますね。

>この本は張作霖爆殺事件から満州事変、2.26事件、日中戦争、開戦直前の日米交渉、真珠湾攻撃にいたる間に政府がどのようなプロセスで政策を決定していったのかを、毎日新聞の記者たちが「暴露」したものだ。 >序章にはこうある。 > 「このなかのあらゆる章には、これまでさまざまな制約のために公にされなかった史実が、多分に折り込まれている。>抑圧された言論、歪められた報道は、われ等が現にそのなかで生活して来たわずか二十年の歴史を、全く辻褄の合いかねるものとしている」

事実以外のものを述べるつもりもないようですね。

>このように、軍部や政府の秘められた内実を暴露した本という体裁だった。>しかしこの本には批判も少なくない。

そうでしょうね。それは、日本人全体に対する批判のようなものになるでしょうね。

>たとえば日本の戦後の混乱期を包括的に描き出した米政治学者ジョン・ダワーのピューリッツァー賞受賞作『敗北を抱きしめて』(岩波書店、2001年)は、『旋風二十年』についてこう書いている。 > 「それは、深い考察などに煩わされない、じつに屈託のないアプローチを取っていた。

そうですね。実況放送・現状報告の類の内容ですね。人間とって大切なものが抜け落ちていますね。

>日本の侵略行為の本質や、他民族の犠牲などを白日のもとにさらすことにも(南京大虐殺は触れられてもいない)、広く『戦争責任』の問題を探ることにも、とくに関心はなかった。

そうですね。日本人には、’あるべき姿’ がない。
 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン)

>既存の資料や、これまで発表されなかった個人的知識だけを主たる材料に、こういう即席の『暴露本』が書けるという事実からは、今自分たちが正義面で糾弾している戦争にメディアが加担していたことについて真剣な自己反省が生まれることはなかった」 

意思の無い人間には、加害者意識がない。だから、深刻な反省もない。肝心かなめのメディアが戦争に加担していたことが問題にならない。これがメディアの病です。

>メディアの自己反省などは皆無で、「軍部が悪かったから戦争になってしまった」と悪を糾弾しているだけの内容だった。 

ただ、’事の次第・成り行きだけを述べる内容になったのですね。私的見解を加えることなく、ただ淡々と事実を述べるところが恐ろしい。

>しかし実際には、日中戦争から太平洋戦争とつながる背景には、メディアの扇動や国民の高揚があったことはよく知られている。

メディアの扇動は、自身の金儲けにもなった。

>ところが『旋風二十年』がベストセラーになったことで、日本人の多くは自分たちの責任を忘れた。

意思の無い人間には責任がないからでしょう。これはちょうど死刑執行人の立場のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意というものがないからである。

>いや、無意識のうちに忘却したかったのかもしれない。

自分には意思がないから、その内容は全て他人任せである。皆がそうすることで、兎角この世は無責任となる。


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メディアの病

2020-04-21 01:03:57 | 社会

>355862 戦後メディアの病① 国民総無責任化  >根木貴大 ( 45 営業 )  20/04/19 PM10 【印刷用へ】  >リンク
>2011年の福島第一原発事故にまつわる新聞やテレビの報道は、日本の戦後メディアが内包していた問題をまざまざと浮かび上がらせたと言える。

そうですね。日本人には世界観 (world view) がない。世界観は非現実 (考え) の内容である。だから自己の世界観 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判する批判精神 (critical thinking) がない。ただ或るものは、 ‘弱い者いじめをしてはいけない’ という心情だけである。これは、伝統的な歌詠みの仕来りである。
現実の内容は、頭の外にある。それは、見ることができる。見ればわかる。Seeing is believing. だから、これは楽ちんである。考える必要がない。答えはただ一つである。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。その内容を知るには、その文章を文法に従って理解しなければならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、日本人は通常理解はしない。代わりに忖度 (推察) を当てている。
非現実の世界は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) に分かれて表現される。それぞれの世界は、人生の始まりにおいては白紙の状態にある。しかし、白紙の状態は誰しも気になる所でもある。そこで各人は、人生の経験を基にそれらの内容を埋めて行く。だから、大人は ‘考える人’ (the thinking man) になる。その三世界の内容は世界観と呼ばれている。その現在には ‘あるべき姿’ の内容がある。この内容を基準にとって現実の内容を批判したら、その人は批判精神 の持ち主になる。
英語には時制があり、英米人は世界観があるので批判精神がある。日本語の文法には時制がないので、日本人には世界観が無く批判精神を持たない。だから、英米人は現実対非現実の比較も可能であり、日本人は現実対現実のみの比較が可能である。

>風評被害を抑えるべき報道機関が逆に風評を煽ったケースは少なくなく、そうした報道はいまも続いている。

現実に関して実況放送・現状報告の内容ばかりを垂れ流すのでは、結論に達しませんね。’それが、どうした’ (So what?) の問いには答えが出せません。現状の ‘あるべき姿’ (非現実) をマスコミは批判精神として伝えるべきですね。

>これらの風評は福島の人たちへの差別を生じ、大いなる苦しみをもたらした。

我々日本人には、’あるべき姿’ の内容が必要ですね。だが、文法上の関係でそれは難しい。

>この問題はおそらく、広島・長崎における被爆者差別とならんで未来への長い期間にわたって禍根を残し、後世に研究される問題になっていくだろう。

そうですね。日本人は、放射能による被害と日本語文法の関係を後世に残しますね。

> 「弱者の味方」であったはずの新聞やテレビの記者たちが、なぜこのような差別を引き起こしてしまったのか。

現実の内容に関して騒いでも解決しませんね。非現実の内容に目的地を定める必要がありますね。


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