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誠実な伝達 

2020-11-04 17:44:25 | 文化

 

>361479 リモート社会では「より誠実なコミュニケーション」が求められる

>磯貝朋広 ( 48 技術者 )  20/11/03 PM06 【印刷用へ】 

>新型コロナウイルスを起点にリモートワークが急速に拡大していますが、リモートだからこそ「より誠実なコミュニケーション」が求められる時代になるのかもしれません。

 

いつの世にも ‘誠実さ’ は大切ですね。  

 

>リンクより転載します。

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>■「誠実な文化」が育むリモート講義の効果性と発展

> 支援が必要な方のためのウェブ上を基本とした「学びの場」を提供することが目的の「みんなの大学校」のカリキュラムがスタートして1か月。

 

新しい ‘学びの場’ ですね。  

 

>ウェブ型で講義を進めていくと、この講義スタイル、そして対話が新しい様式には、いくつかの気遣いが必要なのだと気づいてくる。> 特に要支援者の方々の集合型学習とのハイブリット型には講師及びファシリテーターの新たな「力」も求められる。 >それは「誠実さ」である。>ウェブ型の講義を成り立たせるのは、コミュニケーションにおける誠実な行為であり、その誠実な文化を育んでいるかが、日々社会に問われているのだ。

 

誠実な伝達は文化国家の指標になりますね。

 

>このリモートで「つながれる」社会の素養ともいうべき誠実の文化は、コミュニケーションの誠実なやりとりで構成されているのだが、最近目立つのが政治のコミュニケーションの誠実のなさ。 

 

そうですね。政治家のコミュニケーションには誠実さに欠けたものがありますね。   

 

>デジタル庁を設置し、リモートでの業務を拡大しようとする中にあって、より「誠実なコミュニケーション」が求められている自覚を持たなければリモートにおけるコミュニケーションの豊かな発展はないのだと思う。

 

そうですね。

 

(略)

>ここでの不誠実とは、相手が言いたいこと伝えたいことをくみ取らず、自分が発言しやすいものに置き換えるという、自分本位の考え方で当事者の思いから離れてしまうことである。>一方の誠実の例は、言葉を代弁することの効果ともなる。>当事者がなかなかまとまらずに発言していることを、的確にまとめ、発言に客観性と真実性が備わってくることで、発言者は安心と信頼を寄せることになる。

(略)

>そう考えると、ウェブ時代の誠実な文化をどのように発展させるかも重要な視点となる。>現在、政治周辺で語られている「理由を説明しない」「記者会見をしない」のは、そのような誠実の文化からすると、正反対の行動になってしまう。

 

そうですね。  

責任者は自己のリーズン (理性・理由・適当) は明らかにすべきですね。   

対話・議論は盛んにすべきですね。言論の自由ですね。     

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは考えではない。  

矛盾を含んでない文章は、全て正しい考えを表している。矛盾を含んでいる考えも、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。

矛盾を発見し取り除くためには議論・対話が有効である。だから、議論・対話を普及させよう。

考えの内容は、人によりまちまちである。だから、正解は一つではない。幾らでもあるから、人間は個性的になる。考えのない人達は没個性的である。だから、自己実現が難しい。

 

>すべては言葉から始まる。 >真実に誠実に説明すれば問題は案外と公の議論に委ねられ、社会の責任となってくる。 >公に言葉にしないことで、人は不信が芽生える。  

 

そうですね。 

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

>その不信はどんどんと成長し、関係の修復が難しくなってしまい修復不能な分断になってしまう。>だから、新しい政府は、政策の考え方や決定のプロセスをどんどんと発言して言葉にして社会で共有してほしい。 

 

ウェブが役立つ時代ですね。   

 

>言葉になれば賛成もあれば反対があるのは当然だ。>ここから市民の選択が始まるのが正常なコミュニケーション行為であり、リモート社会のコミュニケーションを安心させることにつながるのだと思う。  

 

そうですね。ご唱和のためのウェブ利用は危険ですね。     

 

>**************************************

>転載終了。

 

 

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本田真吾氏 2/2  

2020-11-04 10:48:00 | 文化

 

 

 

>それゆえ、西欧人にとって、自由・平等・権利などの近代観念は、架空の理想社会を実現するような位相にはなく、ただ、自分が他者を押しのけて有利に生きていくための方便(本音と建前の使い分け)であると潜在的には感じているのではないか?  

 

本音 (私意・我儘・身勝手) と建前 (言い訳・口実・言い逃れ) による説明は、彼らに通じませんね。彼らの結論は理屈で決まります。

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク) これは、日本人の場合です。     

 

>だから、貧困が消滅して私権圧力が衰弱しても、精神の統合方法は自我収束のままなのでそれほど活力衰弱はしなかったのではないか?  

 

彼らには哲学がありますからね。自己の ‘あるべき姿’ を考えることができます。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  このような考えは日本人にはない。    

 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン)  

 

>それに対して、日本人は、縄文からの本源性を残存したままであり、周りにいるのは仲間であるという、仲間に対する深い肯定感がある。  

 

そうですね。仲間に対する深い肯定感は、動物が群れをつくるときの性質と同じですね。それは非言語の世界ですね。彼らは言語を使わない。 

言語の世界においては、日本人は外国人から信頼されていませんね。 

私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官) 

変わり身の早さは日本人の得意芸ですからね。動物が獲物を捕らえるときの早業のようなものか。目先・手先の事柄に神経を集中させていますね。現実があって非現実 (考え) の無い人間の特徴ですね。  

 

>そこに、明治に輸入され盲目的に信奉され、学校教育により刷り込まれた近代観念は、まさに文字通り自由・平等・民主主義などの共同体的理想に潜在的に結びつきやすく、それを否定しきれず、幻想の観念に染脳され、思考停止してきた側面があるのではないか? 

 

日本語では非現実の内容は文章にならない。だから、近代観念の真似をして非現実の内容を文章化しようとすれば、それは空想・妄想の類になる。お陰様でわが国は、アニメ・マンガの大国になりました。だが、考え (哲学) による学問の大国にはならなかった。だから、わが国の大学も為体 (ていたらく) である。わが国の入試地獄も学問の発展にはつながらない。      

 

>それゆえ、貧困が消滅して私権圧力が衰弱し本源可能性が開けても、幻想も思考停止も解けず、活力衰弱していったのではないか?    

 

そうですね。日本人の励みは、序列社会の中の滅私奉公の励みにより成り立っていました。序列観念が衰えると、日本人の励みも衰えます。それは、義理 (序列関係から生じる義務) を果たす機会が失われるからです。勤勉な日本人は、外国人の社会 (非序列社会) においては ‘活力衰弱の人’ になっています。だから、義理が廃ればこの世は闇になるのであります。     

 見ることのできる内容は ‘本当’ の事である。見ることのできない内容は ‘嘘’ である。誰しも ‘嘘つき’ にはなりたくない。だから、自分の非現実は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。幻想は、現実の言葉を用いて非現実の内容を語ろうとする無謀な試みといえるでしょうね。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に力を合わせることも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

 

 

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本田真吾氏 1/2

2020-11-04 10:17:38 | 文化

 

>360750 日本人と西欧人の活力構造の違い

>本田真吾 HP ( 壮年 建築家 )  20/10/05 PM11 【印刷用へ】 

>私権圧力の衰弱により、日本人の活力は世界最低まで下がった。

 

私権圧力の衰弱以外にも活力低下の原因あるでしょうね。  

 

>他方、私権圧力が衰弱しても西洋人の活力は日本人ほど低下していない。 >なぜか? 

 

彼らには哲学 (考え) があるからでしょう。自己の持つ ’来るべき世界’ の内容が低下を防いでいるからでしょう。  

 日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。 (ウスビ・サコ)  

 

>もともと略奪闘争から共同体を破壊されて、周り間みんな敵という意識から自我収束した西欧人。>これでは、共認機能で仲間を捉えることができないため集団(や社会)はできない。

 

共認機能は ‘なあなあ主義’ でしょうね。なれ合いですね。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。非言語の世界ですね。   

 

>そこで、登場したのが、契約という観念機能に頼って関係を形成する契約社会である。

 

わが国のような‘高文脈文化’ の特徴の一つは ‘双方の合意に基づいた契約でも状況によって柔軟に変更される’ ことである。

欧米のような ‘低文脈文化’ の特徴の一つは ‘双方の合意に基づいた契約の変更は容易ではない’ ことである。     

 

>これにより、自分第一・利益第一になった者たちを統合することが出来るようになった。

 

お互いにそういうことになるでしょうね。  

 

>それくらい契約は、彼らには重要な観念であり、これなしに彼らの社会やその中の個人の意識を捉えることはできない。 

 

個人の意識を捉えることは難しいですからね。   

 

>その後、契約観念は宗教(一神教のキリスト教等)にも適用される。>そこでは、自我収束した、ばらばらの対立する個人が、それぞれ天の神と契約することで、神を介して関係を形成することで、疑似仲間集団や社会ができるという構造である。>だから、中世の貧困の時代のバラバラになった被支配者の大衆は、キリスト教に心底帰依することが可能になり、その結果、武力支配を補完する教団という社会統合機構が出来上がった。> 近代に入り、神は死に、神の位置に個人が鎮座する。 

 

個人本位になったのですね。  

 

>その核になったのが自由・平等・民主主義・権利などの近代観念であり、その前提に契約という観念がある。>現に、彼らにとっては宗教も結婚も就職もビジネスも契約という観念のもとで成立している。  

 

そうですね。  

 

>しかし、日本人からすると、近代観念は、直感的に怪しいとか、みんながそんなことを主張したらこれら観念は成立しないとかの矛盾を感じることが多い。  

 

日本人は、気分・雰囲気を頼りにした捉え方をしていますからね。約束事はあまり得意ではないですね。約束は信頼されていませんね。       

 

>また、信心や結婚や就職を契約という観念で捉えているわけではない。  

 

日本人は、無哲学・能天気ですからね。考え (哲学) というものがありません。日本人の宗教も形式 (儀式) があって、教義 (説教) がない。だから、日本人は形式を疎かにすることはできませんね。それをすれば、全ては無に帰する。礼儀の正しさは、日本人の必要条件ですね。    

 

>そうすると、西欧人が、そんな近代思想や契約という観念を矛盾なく主張できるのは、その主語が『自分(個人)』であり、自分の自由や平等や権利であると考えたほうが整合する。

 

個人の自主・独立を主張することですね。’個人の’ は特に ‘自分の’ ではないでしょうね。’自分も’ でしょうね。   

 

>つまり、自我収束から自我・私権の塊になった西欧人にとって、周りはみんな敵という深い意識の中で、自分を守っていくためにこれほど都合の良い観念はない。 

 

そうですね。

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。マスコミも現実の内容をただ垂れ流す。だから、どんぐりの背比べで個性がない。個人主義が理解できない。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、相手からも信頼されない。協力者が得られない。社会に貢献する度合いが限られる。    

 

 

 

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