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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

夢 2/2  

2020-11-07 14:27:10 | 文化

 

> 夢の対象は自分のみであるかゆえに個人のモチベーション一つではたせなくなります。  

 

アメリカ人の夢は文章内容として全世界に知れ渡り、賛同者により大きな力を持つことになります。

日本人の夢は時制がないのでバラバラな単語 (片言・小言・独り言) のままであり、何が何だかわからず空理空論に終わります。  

 

>しかし、「志」は対象が自分以外にもいるためにあきらめられにくく、願いも果たされやすいとも言えます。> 特に「志」は想いが大きければ大きいほど時代を超え引き継がれていくまで昇華できます。

 

志は恣意ですから演説の内容にはなりませんね。   

 

> 事実、日本という国が 世界で一番長い歴史を持つ古い国家になったのも「志」を引き継いでつないでいったのではないかと考えられます。> 例えばビジネスでは、世界最古の企業トップ3すべて日本企業です。>さらに1000年続く企業が7社も あります。

 

日本人は序列人間です。序列の存在を知れば、一も二も無くその序列に価値の存在を認めます。  

日本語には階称 (言葉遣い) というものがあります。ですから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせません。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられます。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されています。

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいています。ですから、’序列なきところに礼儀なし’ です。

礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要があります。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて堅ぐるしい日常生活を送っています。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がありません。ですから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまといます。   

 

>これは、伝統を守りつつさらに時代の変化に対応でき、 柔軟に行動できないと難しいと判断できます。

>それは、単に伝統だけにとらわれては変化は難しいはずでそのビジネスに対して想いをもって行動しなければ長続きはできないでしょう。  

 

 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

 

> 戦後になり、 日本はアメリカのGHQの指導により戦前の教育を変えられてきました。>それは、再度、戦争を起こさないようにするためでしたが、その中には日本の誇るべき良い文化や伝統までも変更させられた事もあります。>そしてその中の一つとして「志」ではなく、「夢」を多用することになりました。>アメリカンドリームという「夢」が導入されアメリカの影響で「個人の夢」、「個人の自己実現」を目指すという考え方が主流となっていきました。 

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。時制を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観を持つことも出来、それを基準にして批判もできます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。できれば留学して英語で日常会話が話せるようにすることが国際人なる近道でしようね。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

>そして「志」という概念は弱くなり薄くなっていったと言えるのです。> 吉田松陰・坂本龍馬のような歴史的人物や現代では孫正義氏や多くの企業経営者が「志」の大切さを話しています。> 「志」を持つことが希薄になった今だからこそ「志」の重要性を今一度考えてみてはいかがでしょうか? 

 

わが国には何でもあるが、ただ夢と希望だけがない。   

 

> ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(略)

 

 

 

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夢 1/2  

2020-11-07 13:51:12 | 文化

 

>357322 持つ物は夢ではなく志である。 >社会に出る子供たち ( 12 類学舎生 )  20/06/01 PM01 【印刷用へ】 

>社会に出ている子供たちは、夢と言うより志に近い物を持っている。

>リンクだが学校などは「志」より「夢」とか「将来何になりたい」とかがとても重要視されている。>疑問が浮かぶ。> 「夢って何?」「志ってなに?」というもの。>夢とか志の違いに触れていこうと思う。

>  以下、夢と志の違いって何?リンクより転載

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> 戦前は「夢」と言う言葉は あまり使わなかったようです。

 

日本人の夢とアメリカ人の夢は違っているようですね。日本人の夢は ‘夢・現 (うつつ・現実) ・幻’ の中の三つの中の一つ、即ち ‘夢’ ですね。日本語の文法には時制というものがないので、未来と過去の内容は (非現実) 文章になりませんね。ただ現実のみが文章になります。文章にならないものには意味がないので、日本語の夢と幻の内容には辻褄が合いません。日本人は ‘夢・幻の人の世’ に住んでいます。

アメリカ人の夢は、過去・現在・未来の中の一つ、即ち未来の内容ですね。英文法には時制 (tense) というものがありますので、それぞれの時制はその非現実 (考え) の文章内容を表すことができます。未来の内容は文章になって夢の内容となることができます。  

彼らの夢は非現実の内容となって現実の中に確実に存在します。以下はその一部です。

 

I have a dream that one day this nation will rise up and live out the true meaning of its creed: We hold these truths to be self-evident that all men are created equal.   

私には夢があります。いつの日か、この国が立ち上がりその建国の信条の本当の意味 – つまり ‘我々は、全ての人間は平等なものとして創造されたということを自明の理として確認する’ - と共に存続するようになるという夢です。

I have a dream that one day on the red hills of Georgia the sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at the table of brotherhood.  

私には夢があります。いつの日か、ジョージアの赤茶けた丘の上で、昔は奴隷だった人々の子孫と、昔は奴隷の所有者だった人々の子孫が、同胞のテーブルに一緒に座ることができるようになるという夢です。(引用終り)   

 

アメリカ人の夢 (未来) は文章内容になるので意味・意義がある。価値判断の対象になります。そして、その発表者は不滅の人になります。

日本人の夢は恣意 (私意・我儘・身勝手) であるから辻褄の合った文章内容にならない。だから、夢・幻 (非現実) を語る者は相手にされません。

 

>しかしその代わりに使っていたのが「志」でした。 

 

志は恣意ですね。

自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。そして、恣意がある。恣意の自由は何処の国でも認められていない。 ‘自由のはき違え’ となるから、昔からの ‘不自由を常と思えば不足なし’ のままである。 

欧米人は哲学と意思により行動を説明する。日本人には、哲学と意思がないので、人の行為を ‘建前と本音’ を使って説明する。建前は (口実・言い訳・言い逃れ) である。本音は、(私意・我儘・身勝手) である。ですから、現実の中に行為がうずもれて低俗な感じは避けられない。相手の理解も得られない。意思は未来時制の文章内容になるので意味があるが、恣意はバラバラの単語 (片言・小言・独り言) のままで存在するので意味がない。考察の対象にはなりません。

 

> 志と夢の違いはいったい何でしょうか? 

 

非現実を内容を ‘文章化している’ (アメリカ人の夢) か ‘いないか’ (日本人の志) の違いでしょう。   

 

>そして、どうして「夢」を使うようになってきたのでしょうか? 

 

西洋人の夢は世界的に評価を受けるから生きています。そして、日本人の夢は評価の対象にならないから捨てておかれます。  

 

(略)

> 言い換えるなら、 夢とは、達成できたらいいな~という個人の目標や希望であり、あいまいな想いの可能性も高いです。 

 

アメリカ人の夢 (非現実) は未来時制の文章内容になるので自己の確信になります。

日本人の夢は文章内容にならないので曖昧な思いのままで存在します。  

 

> 一方、志は個人の願いだけでなくよりもっと公的で、周りの人を幸せにしたいという想いであり、そして、行動も伴っているもの。であるといえます。 

 

志’ は文章内容にならないので、’とらえどころのないもの’ になります。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」  

 

 

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