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大学偏差値  

2024-07-29 16:33:55 | 文化

>日刊スポーツ   >茂木健一郎氏「最低最悪。日本の恥」大学偏差値をネタにするユーチューバーを痛烈批判  >日刊スポーツ新聞社によるストーリー・   >5時間   

>脳科学者の茂木健一郎氏が29日までにX(旧ツイッター)を更新。   

>偏差値をネタにするユーチューバーを強く批判した。   

>龍谷大学の准教授・野呂靖氏が27日、自身のXに「先日、偏差値をネタにするユーチューバーがうちのキャンパスにきて学生いじって帰っていったらしい。   

10代のある時期の試験結果を後生大事に抱きしめながら歳をとっていく。   

>それはそれで人の勝手だけど、歳とって出身大学自慢する人には『いま何してるんですか』と聞いてみたい」と投稿した。   

 

日本人の序列信仰ですね。   

 

>茂木氏はXに、野呂氏のこのポストを引用し「最低最悪のユーチューバー。   

>知性のかけらもない。   

>日本の恥。   

>だから日本は没落する」と強い語調で苦言を呈した。   

 

そうですね。わが国は序列バカの国ですからね。  

 

>そして「龍谷大学の方々は、自分の大学に誇りを。   

>すべての学校が、自校にプライドを、そして他校にリスペクトを。   

>それが古来日本のこころじゃなかったかね。   

>偏差値うんぬん言う人はその瞬間愚鈍を告白している」と続けた。   

 

そうですね。日本人は総じて愚鈍ですね。没落途上国の国民に相応しい。      

 

>また、その後のポストでも「『偏差値』は、日本の教育観の劣悪さ、日本の遅れの象徴だと確信しています。   

>『偏差値』を商売のネタにしている大人たちは心底から反省して欲しい」などともつづった。   

 

魚心あれば水心ですから、反省は難しいですね。   

日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、(角界のように) 勝負の成績が用いられるが、近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから、わが国では難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。 序列順位の比較は没個性的でなくてはならない。だから、序列競争の励みは大切な個性の抹殺に手を貸しているのである。  

 

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら日本人は ‘序列なきところに礼儀なし’ になる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位の通用する所に限られている。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は家族制度・天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。   

 

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしていなくてはならない。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。国民は思考を停止しているからである。だから、日本人の尊敬と序列作法には浅薄さが付きまとう。   

 

政治には未来社会の先取りが必要である。しかし日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語には存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、会社では定刻通りに帰宅しないなど義理の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。議員は十把ひとからげの扱いになっている。義理が廃ればこの世は闇だ。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが叙勲の機会獲得は難しい。    

 

我が国には社会の木鐸 (ぼくたく世の人を教え導く人) が必要である。わが国のジャーナリストはその要請に応える必要がある。事実の山と木鐸の不在だけがあったのではわが国は立つ瀬なし。‘それがどうした’‘それでどうした’の問いに答えが出せない。我々には絶望の未来が待っている。今こそ我が国民の自覚すべき時である。      

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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