>現代ビジネス >「日本」は「一神教の国」でも「多神教の国」でもない…あまりに不思議な「その実態」 >松岡正剛の意見・ >12時間
>日本文化はハイコンテキストである。
>一見、わかりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂がある。
日本人は ‘つかみどころ’ がないですね。
>「わび・さび」「数寄」「まねび」……この国の〈深い魅力〉を解読する!
>*本記事は松岡正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)の内容を抜粋・再編集したものです。
>多神多仏の国
>日本は一神教の国でもなく多神教の国でもなく「多神多仏の国」です。
>神国でもなく、仏国土でもありません。
>そのように主張した人々はいましたが、その思いや狙いはべつとして、結果として多神多仏なのです。
>その「結果として」は、けっこう昔からのことでした。
>8世紀や9世紀に神宮寺ができて、神前読経が始まったころから(神の前で仏教の経典を読んでいたのです)、多神多仏なのです。
>八百万の神々がいるだけではなく、そこに仏教、道教、民間信仰のイコン(聖像)たちがまじりあってきた。
>石ころも鰯のアタマもまじってきた。
>そのせいか、「日本人の宗教観はよくわからない」「はっきりしない、どうもあいまいだ」とはよく言われてきたことでした。
>たしかに一人ひとりの宗教観はわかりにくいし、家の宗教(宗旨)もはっきりしない。
>神道なのか仏教なのかと聞いても「ま、両方ですかね」などという答えです。
日本の文化には形式 (現実) があって内容 (非現実) が無い。日本人は無哲学・能天気ですからね。
>しかし、こんなふうになっているから「多神多仏の国」だというのではありません。
>もとより多神多仏なのです。
>多くの日本人は結婚式では神主さんの前で三三九度の杯をかわし、葬式ではお坊さんを呼んでお経を誦んでもらって、仏式になります。
日本人は気分・雰囲気の良いものを選びますね。
>神棚と仏壇が両方ある家も少なくはない。
>また仏壇がなくとも、たいていの家にはお数珠は用意されている。
日本人の宗教には儀式があって教義がない。日本人は無哲学・能天気ですからね。
>年末年始になると、きっとあまり意識せずにそうしているのでしょうが、日本人は大胆な行動に出ます。
>クリスマスをやって商店街のジングルベルを何十回も浴び、年の瀬には煤払いをしてお節を用意し、門松を飾って、除夜の鐘を聞き、正月には初詣で神社やお寺に行くのです。
>その初詣の人口は平成年間平均で8000万人を超えています。
>統計データでは平成20年(2008)が9818万人の最高記録になっている。
>ちなみに平成20年の全国初詣トップテンは、(1)明治神宮(東京)、(2)成田山新勝寺(千葉)、(3)川崎大師平間寺(神奈川)、(4)伏見稲荷大社(京都)、(5)鶴岡八幡宮(神奈川)、(6)熱田神宮(愛知)、(7)住吉大社(大阪)、(8)浅草寺(東京)、(9)武蔵一宮氷川神社(埼玉)、(10)太宰府天満宮(福岡)、というふうになっています。
>けれども残念ながら、それらの神社仏閣の御祭神や本尊について言える人は少ないはずです。
日本人の宗教には儀式があって教義がない。日本人は無哲学・能天気ですからね。
>熱田神宮は? 氷川神社は? そういうことには無頓着なのです。
>信心深いのか、テキトーなのか、どうにも一貫していない。
>寛容? 信仰心がない?
>もうすこし話をつづけると、日本各地にはお地蔵さんがいて、観音巡礼の札所が津々浦々にあって、鎮守の森にはたいてい八幡さまが朱色の鳥居をかまえています。
>多くの日本人がそのいずれにもそれなりの敬意を払い、お賽銭も上げ、手も合わせます。
>けれども地蔵信仰のことも観音信仰のことも、八幡さまのこともあまり知ったことじゃない。
>地蔵は仏教的には地蔵菩薩で、観音さまは観音菩薩のことです。
>だからこれらはインド由来の菩薩信仰のヴァージョンなのですが、日本人は自分たちが菩薩信仰をしているなどという意識はもちません。
インド人にはインド哲学がある。日本人は無哲学である。
>八幡さまは必ず八幡神を祀っているのですが、それが鎌倉時代以降に奉られた武神であって、誉田別命すなわち応神天皇と同一視されてきたことなど、やっぱり知ったことじゃないのです。
>お稲荷さんや七福神をありがたがってもいる。
>けれどもその由来も気にしない。念のためいうと、お稲荷さんは稲荷神社のことですが、その御神体はウカノミタマ(宇迦之御魂神)と稲を担いだ神さま(稲荷神)とキツネが習合したものです。
>インド仏教の夜叉(やしゃ=ヤクシャ)に属する荼吉尼天(ダキニ天)との関係もわかっています。
印欧語族は印欧語の文法に従って考える。
彼等の文法には時制 (tense) というものがあって非現実 (考え) の内容を文章にすることができる。すると一人一人に世界観ができる。
>でもそのお稲荷さんは日本では商売繁盛にしっかりむすびついていて、会社の敷地に小さな稲荷社を置いているところもあるほどです。
>一方の七福神は「恵比寿・大黒天・福禄寿・毘沙門天・布袋・寿老人・弁財天」ですけれど、これらはインドの神や禅僧や日本の海神など、ごちゃまぜです。
>恵比寿は日本古来の漁業の神、大黒天はヒンドゥー教のシヴァ神の異名、福禄寿は道教の神さま、毘沙門天は仏教の四天王の一人……。
>それでも多くの日本人は、この七福神がたのしそうに宝船に乗ると、これをおもしろがり、町の七福神めぐりもする。
>おそらく中国の福神思想が長崎あたりに流れてきて、近世に七福神化したのだろうと思います。
そうでしょうね。日本人は無哲学・能天気ですからね。
>これらはまさに多神多仏の現象です。
>ではいったい、なぜこんなふうになったのか。
>何かがもともとでたらめだったのか、あるいは寛容なのか。
>実は無宗教なのか、信仰心がないのか。
>それとも日本人は宗教に関して考えることが苦手なのか。
日本人には世界観が無いから宗教に魂の救済を求める必要もないですね。
>日本の信仰はシンクレティズム [syncretism: (哲学・宗教上の)混合主義]
>歴史をふりかえれば、日本人が無宗教であったとか、信仰心がなかったとはとうてい言えません。
>聖徳太子の「唯仏是真」宣言や東大寺の大仏開眼このかた、日本人は仏教や仏像を愛し、読経に親しみ、その一方で伊勢や出雲や各地の鎮守の八幡さんをはじめとする神祇神道にも親しみ、さらには数々の民間信仰にも関心を寄せてきたのです。
>つまりもともと神仏習合的だったのです。
>中世には熊野信仰が流行しました。
>近世には富士信仰が流行しました。
>こういったことはずうっと続いているのです。
それは世界中で広く見られる自然崇拝でしょうね。
>だから日本人が無宗教だとか無信仰だとかとは、とうてい言えません。
>それなのにあいまいで、自分自身の宗教性は語らない。
日本人には世界観がない。だから、’あるべき姿’ の内容が無い。
>信仰力を大事なものと見ない傾向がある。
>どうしてなのでしょうか。
>阿満利麿は話題になった『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)という本のなかで、日本人は「創唱宗教」にもとづく信仰には全般的に無関心なのであって、それをもって必ずしも信仰心がないとは言えないだろうと書きました。
>創唱宗教というのは教祖・教義・教団がはっきりしている宗教のことです。
>そういう創唱宗教を各自がもっているわけではないが、みんながそれぞれ勝手な信仰心をそれなりに発揮してきたというのです。
>つまり日本人は宗教を拒否しているわけでも、否定しているわけでもなく、そのつど「信仰の向き」を選択しているのではないかというのです。
>欧米の宗教学者たちは、こうした日本人の信仰は「シンクレティズム」(混淆的信仰観)だと言います。
日本人は猿真似ですからね。その内容は想定外になっている。
>まあ、当たらずとも遠からずです。
>ただし、日本のシンクレティズムは宗教だけにはかぎりません。
>いろいろな場面で混淆的です。
>リミックスが得意なのです。
>このことはまた話します。
>ともかくも、たしかに親鸞や座禅や初詣が好きなのは、その依ってきたる浄土真宗の教義や禅の清規や初詣をした神社の御祭神のせいではなくて、おそらくはたんに「ありがたい気分」がするだけからかもしれません。
日本人は気分・雰囲気・感情を大切にしますからね。
>その一方で、たくさんの人々が伝統宗教や八十八ヵ所巡りや新宗教にかかわって、今日も仏前にロウソクを灯し、神棚の水をとりかえているのも事実なのです。
>というようなことで、私たち日本人にとって神道と仏教は実はわかるようでいて、なかなかわからないものの代表のようです。
>それでも、日本の神と仏はずうっと習合しようとしつづけた、と言うべきです。
>神と仏を分離しようとしたのは、明治政府が神仏分離令を発布して行われた廃仏毀釈のときだけです。
>この痛手はのちに影響をのこしたものの、大きくは今日にいたるまであいかわらず神仏習合が主流になってきたのです。
>*
印欧語の文法には時制 (tense) というものがある。
未来時制を使って意思 (will) の内容を表現できる。
自己の意思を実行すると加害者意識を体験することになる。高じて罪 (sin) の意識となる。
彼等には世界観 (world view) がある。 過去・現在・未来 (前世・現世・来世) の独立した三世界が念頭ある。罪の意識を持った者には未来・来世の到来が恐ろしい。
だから彼らには救済のための宗教が必要である。哲学 (インド哲学・スコラ哲学) がそれに応える。地獄に落ちなければ、それは天国・極楽に行けることになる。
‘あいつ [J. ロバート オッペンハイマー] の手が血塗られているだって? 冗談じゃない。あいつには私の手についている血の半分もついていないさ。泣き言を言うなんて、けしからん。’ (ハリー・トルーマン大統領)
彼等の発言には自省の念が滲み出ている。
日本語の文法には時制というものが無い。だから、日本人には意思が無い。被害者意識はあっても加害者意識がない。これはアニマルも同じである。
我が国には犠牲者と被害者だけがいて加害者のいない国である。これではどうしようもない。意思のあるところに方法がある。Where there’s a will, there’s a way.
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英文法にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。