(略)
>要するに、決断したのか、しないのか曖昧なままにしておいて、結論を先送りにする。
日本人には、意思がない。優柔不断・意志薄弱な人達には、結論の ‘積み残し’ と ‘先送り’ が多くなりますね。
>それでおいて既成事実を積み上げていき、あたかも決断をしたかのよう錯覚をしているのである。
そうですね。既成事実の追認に毎日追われていますね。
>たが、振り返ってみると何も決めていない。>少なくとも、自分の意志、意識の上では決断をしていない。
そうですね。している事は、事実・現実の確認だけですね。
日本人には、意思がない。意思 (will) は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものが無いので、日本語の脳裏には未来時制が無い。だから、日本人には意思がない。
>だらから、責任もない。>責任がないというより、責任をとれない。
そうですね。意思は未来時制の文章内容ですから、意思がなければ、その文章内容も存在しない。だから、その内容を明らかにすることもできない。それで、責任を取ることができない。
>自分に責任がないと思うから、人の性にする。>人の性にするから反省もしない。>これは、何も学んでいないのと同じである。>決断できない者は、何も学べないのである。
そうですね。意思のない人には、責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも、彼らは殺人罪には問われない。彼らには、殺意というものがないからである。
意思のない人には、加害者意識 (罪の意識) が存在しない。深刻な反省に至らない。だから、経験から何も学んでいない。あるのは、被害者意識ばかりである。実に恨めしい世の中である。
>優柔不断で、煮え切らない者は、何も学べない。学ぶためには、決断力を養わなければならないのである。この様な決断力は、教科書からは学べないのである。
そうですね。優柔不断・意志薄弱だから、判断が難しくなります。
英米人であれば、論理的な価値判断を行う言語を使っているので、英語自体が価値判断を行わせてくれることになります。
>しかも、学ぶためには、追いつめられてする決断ではなく、前向きな決断が重要なのである。
そうですね。意思があれば強制にはならず、常に前向きの判断ができますね。
>決断しなければならない環境や状況だから決断するといった受け身の決断では、主体的な意志の力が働かない。
そうですね。自由意思がなければ、常に受け身の判断になりますね。
>それは、決断するのではなく、決断させられたのである。>主体的な意志の力が働かない限り、責任感もわかない。
そうですね。責任感は無い。意思のない人には、責任がない。ちょうど、死刑執行人のような心地ですね。
>それでは何も学べないのである。>決めてから考える。
日本人は、論理的な価値判断ができないから決められない。そこで、無鉄砲に決める。
>考えたら決められない。
そうですね。日本語は、論理的・法的なしい哲学的判断を敬遠しますからね。
>学校では、よく考えてから決めなさいという。
それは英語を使って考える場合のことでしょうね。
>単刀直入に決めて、行動に移すとわざわざ、やっていることを中断して再考させることまでする。
この場合、中断・再考は、リーズナブル (理性がある・理由になる・適当である) な判断ですね。無鉄砲な決断では、危険ですからね。
>これでは、決断力が鈍る。>先ず決断をする。>決断をした上で考える。
それでは、意思の決断 (意思決定) ではなくて、恣意の決断 (出鱈目の決断) ですね。決断をしたら、決行するのでしょう。失敗したら、後の祭りですね。意思がないから、責任感もない。事後の学習もない。
>そうすれば、修正も変更も訂正もできる。>辞めることだって、やり直すこともできる。
‘覆水盆に返らず’ と言うこともあるでしょう。無鉄砲は良くないですね。
>決断をしなければ、修正も変更も訂正もできない。>何も決めていないのだから、辞めることも、やり直すこともできない。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
矛盾を含んでいない文章は、全て正しい考えを示している。だから、正解は一つではない。考えは、人それぞれである。そして、正解は多数ある。意思があれば、その内容は自由である。
>そして、決断したら行動に移す。>はじめは、失敗をするかも知れない。>しかし、その失敗から多くのことを学ぶことが出きる。>そこから学んで、次に決断をする時に生かす。
その調子ですね。波乱万丈の人生ですね。
>決断し、実践して、反省をし、学んでまた、決断をする。>この繰り返しが学ぶことである。
それが学習過程ですね。
>決断をしなければ学ぶことはできない。
決断とは何ですか。実行することですか。理性判断 (rational judgment) は良いが、盲目の判断 (blind judgment) の実行は不適当ですね。
>失敗をしなければ、学ぶことはできない。>学習とは、決断にはじまる一連のプロセス、過程なのである。 >決断をすれば、自らの行動に責任を持たなければならない。
そうですね。実行して、失敗することですね。自業自得ですね。リーズン (理性・理由・適当) の獲得が必要ですね。機敏な動作だけを頼りに行動するのは、極めて危険です。
>失敗を沢山し、恥を一杯かくことになる。 >失敗を沢山し、恥を一杯かくから学べるのである。 >恥はかいて知るものである。>失敗をすることや恥をかくことを怖れていては、学ぶことはできない。
そうですね。恥から学ぶのですね。日本人は恥を知っても、罪を知るようにはなりませんからね。これは、問題です。
>決断力は、なるべく早い時期から訓練をする必要がある。 >小さい頃から、自分の事は、極力、自分で決めさせる。 >家族内の重大な問題や決定には、なるべく早い時期から相談をし、決定に加える。>そうやって家族の一員であることを自覚させ、責任感を養うのである。
自己の意思を明らかにする者は、当事者・関係者になる。意思を示さない者は、傍観者にとどまる。わが国は、世界の中にあって世界に属していない。
>また、学校も授業の内容やカリキュラムについて相談をし、一部を任せるようにすべきである。>社会では、祭りの準備や社会活動(ボランティア活動)を通じて社会の一員である事を自覚させるような仕組みを作ることである。
子どもの自治会・自治組織のようなものですね。昔は、親たちは参加しなかった。我々は、子どもたちだけでやっていた。
>喧嘩も、ある種の修練である。>特に、幼児期の喧嘩は、一種の修行だと思うべきである。>まだ、力が弱い幼児期にこそ、喧嘩をさせ。そこで人間関係の在り方、社会のルール、お互いに対する思いやり、痛み、悲しみ、友情を学ぶのである。
子どもが、すぐに自殺を思い付くようでは困りますからね。
>だから、かつて大人は、子供の喧嘩に寛容であった。>遠くで見守り、危ない事さえなければ、子供同士で解決させてきた。
そうですね。’子どもの喧嘩に親が出る’ というのは、大人の干渉に対する非難の言葉ですね。
>下手に介入したり、同情することで子供の自尊心を傷つけることを怖れてきた。
そうですね。子どもにも自尊心がありますからね。大人の干渉をできるだけ廃したいものですね。
>しかし、最近は、暴力反対のような大人の論理をもって子供を裁こうとする大人が増えてきた。 >それも、学校の先生や幼稚園の保育士に多く見られる。 >それが、学校教育の現状を端なくも現しているのである。
大人の干渉により、子供の自主性が妨げられますね。すぐに大人の顔色を窺うようになります。
>可愛い子には、旅をさせろ。 >それは、武者修行の旅である。 >遍歴の旅である。 >旅は、決断の集積である。
確かにそうですね。
>旅をしながら、多くの失敗を重ね。恥をかき。人は、成長していく。 >旅の恥は掻き捨てと言うが、旅の恥は、決して捨てることも、許される事でもない。 >ただ、旅の恥に寛容な社会こそが、人を育てられるのである。 >そして、そこで人間としての決断と身の処し方を学んだ者が次の時代を背負っていくのである。
旅の体験が処世術の獲得に役立っても哲学にならないところが、日本人の泣き所ですね。
>安心して子供達が武者修行の旅、遍歴の旅が出きる社会こそが最高の教育機関なのかも知れない。
Working Holiday (ワーキングホリデイ制度) のある社会のようなものかな。
> 以上
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