> 植草一秀の知られざる真実より引用します。 >リンク >////////////////////////////////// >(引用はじめ)
> 臨時国会も幕を閉じて2019年がまもなく終わる。> 不正が正されず、悪徳が栄えるこの国の闇は深い。
そうですね。闇は深いですね。我が国民には政治音痴が根付いていますね
(略)
> 日本の崩壊が進行している主因は安倍政治の暴走にある。
そうですね。安倍首相は日本の政治の責任者ですね。
> 三つの重大な要因がある。 > 第一は刑事司法が腐敗しきっていること、第二はマスメディアが腐敗しきっていること、そして第三は主権者である国民の対応がぬるいことだ。 > 第一と第二はあちら側、暴走する安倍政治の側の問題。
批判精神 (critical thinking) のない国民であっては、暴走する安倍政治は止められませんね。この道は、いつか来た道か。
> 野党が生ぬるい対応を示すのも、野党に対する監視の責任を負う主権者の側の問題であると言ってもよいだろう。
そうですね。主権者である人間が無哲学・能天気である限り、この問題の解決は無理でしょうね。主権在民ですからね。
>この現状を放置するなら、日本は世界で最悪の国家の一つに凋落することになる。
そうでしょうね。最悪の国家にならないために、日本には抜本的な改革が必要ですね。そのためには、現状が出現する機序を注意深く説明しなくてはならないでしょう。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
日本語には ‘あるべき姿’ (things as they should be) を示す構文がない。日本語は、’今・ここ’ の内容だけを示す言語だからである。それで、比較の議論は常に ‘今ある姿’ (things as they are) 対 ‘今ある姿’ になる。これでは、絶対基準がないので議論に決着がつかない。’それでどうした’ (So what?) の問いには答えが出せない。そこで、考えの浅はかさが知れてしまう。’今ある姿’ の内容は ‘現実’ であり、’あるべき姿’ の内容は、’非現実’ (考え) の内容である。’あるべき姿’ の内容を蓄えた個人がわが国に出現しなければ、哲学も存在しない。政治哲学は成り立たない。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 考えの内容は、人様々である。全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。矛盾を含まない文章は全て正しい考えを示している。だから正解は一つではない。幾らでもある。矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。そのためには、対話・議論が役に立つ。だから、わが国でも対話・議論を盛んにしよう。英米人は日本語を話していても、日本語特有の閉塞感にはとらわれない。彼らには、考えが色々あるからである。我々も彼らに倣って、色々な考えを発表しよう。
<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)
> (引用おわり) >//////////////////////////////////
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