池田敏春監督が志摩の海に身を投げてちょうど1年になる。
遺体が発見されたのが12月26日午前9時40分頃。
24日頃に死亡したと推定されている。
死亡の一報を聞いたのは今年の1月25日、知人のプロデューサーが教えてくれた。
ショックだった。
亡くなった事、自殺だったこともショックだったが、
「池田さんなら自殺もあり得るよな」と思ってしまったこともまたショックだった。
「帰りなん、いざ。何ぞ帰らざる。 あ…伊勢志摩の夕日の中で死にたい。」
実はツィッターでその文面も読んでいた。
でも、まさかと思った。
知らせを聞いて、何も手につかなくなった。
映画の仕事を始めるきっかけとなった人だし、4本(「魔性の香り」「さそり」「ちぎれた愛の殺人」「マトリの女」)の作品についているし、せめて追悼文でも書いた方がいいと思ったが、書けなかった。
頭のなかがぐちゃぐちゃだった。
助監督を始めた頃のことや、池田さんとの仕事が頭の中に渦巻いた。
最初についた作品「魔性の香り」での俺の最初の重要な任務は、主演の天地真理さんが芝浦の橋から飛び降りる許可を得るというものだった。
橋の上、引き込み線、飛び降りた川、全て管轄が違い、各々の許可を得る必要があった。
池田さんが志摩の海に飛び降りたことと、最初の仕事が交錯した。
俺が映画界入りした直接のきっかけは池田監督だ。
吉祥寺の映画館(上映されていたのは、ズラウスキーの「私生活のない女」)で見かけた池田監督に思いきって声をかけ、「何でもやります」と言って、連絡先を無理矢理渡した。
池田監督の作品である「「天使のはらわた 赤い陰画」と「人魚伝説」の2作品が大好きで、監督のファンだったからだ。
その当時俺はまだ学生で、シナリオの学校に通いピンク映画の助監督経験を多少積んだというような存在だった。ちなみに大学の専攻は歴史(東洋史・朝鮮近代史)で映画とは直接の関係性はない。
その後、おそらく2ヵ月後くらいだったと思う。
本当に電話がかかってきた。監督からではなく、チーフ助監督の人からだった。志望する演出部ではなく制作部の人手が足りないとのことだった。喜んで日活撮影所へ向かった。
そう、「魔性の香り」は、日活ロマンポルノの正月作品だった。
その後、現場から中退届けを大学に郵送し、映画の世界に入って行くことになった。
はっきり言って、池田監督を嫌っているスタッフは多い。だが主演女優は池田監督を信頼していた。
俳優の好き放題な意見に左右されて、スタッフへの言動に一貫性がない監督も少なくないが、
池田監督はまったく違う。
一貫性はあったが、スタッフのミスに対しては容赦なかった。狙ったカットが何らかのトラブルで撮れなかったときには、身の毛のよだつような言葉でスタッフを罵倒した。
例えば、巨大な夕日をバックにオイルライターでタバコに火をつける、カメラは望遠でそれを狙うというカットの撮影があったが、本番でたまたま火がつかず、太陽が思ったより落ちてしまったことがあった。監督はトランシーバーで助監督を罵倒した。
プロデューサーだろうとなんだろうと関係なかった。
強きにへつらい、弱きをくじくといったことはなかった。
池田監督のいうことは、ある意味常に正論だった。
ただ、正論を言うことが状況にまったくそぐわないことも現実には多い。
そういった状況で正論を言うことが正しいのか?
言い方の問題もあったかもしれない。
多くのスタッフが、心の中で「ぶち殺したろか」と何度も思ったことだろう。
俺も何度となく罵倒された。
だが現場以外ではこころ優しい一面もあった。
2度目の奥さんとのお宅や、離婚後の1人暮らしの部屋に泊まりに行ったこともあった。
映画の話もよくした。前田米造さんのカメラ、神代さんの脚本と演出などなど…。
日活のアクションを受け継いでいきたいと、言われたこともあった。不肖の弟子でもあった私はまったく受け継ぐことはできなかった。
主演女優に対しては、
大雨を降らせ、橋の上から本当に飛び込ませたり、
寒空の中、十字架に貼り付けにして、大雨を浴びせたり、
渋谷の街をひたすら走らせたり、
早朝の歌舞伎町で血まみれの下着姿で拳銃を持って歩かせたり、
大変なことは強いたが、演出する言葉自体は優しかった。
皆、最終的には納得し、満足していたように思う。
自分は関わっていないが、「人魚伝説」の殺戮シーンは強烈だった。
夫を殺された海女であるみぎわが、復讐のため殺戮を繰り返す。
通常の映画であれば、直接手を下した犯人、その黒幕まで殺せば復讐は終わりだ。
だが殺戮は果てなく続く。
その場に居合わせた人々、パーティコンパニオンであろうとなんだろうとお構いなしだった。
「長すぎるのではないか?少しカットした方良いのではと」いう意見もあったと聞くが、灰皿を投げつけ、「絶対に切らない」と言ったという話も聞いた。
でも決して長くないよ、池田さん。
後年、「いくらなんでも長過ぎたかな」と思ったという話も聞いたが、そんなことないよ。
復讐の相手は原発だったし。いや映画的にも長くはないと思うよ。
そんなこと言ってるから、俺も劇映画が撮れないのかな。
いろんなことを書こうと思っていたが、全くまとまらない。うまく書けない…。
池田さんが飛び込んだ海に行って手を合わせてきたことを書いて終わりにしたい。
何故、池田さんが身を投げたのかはわからない。
うつ病で尚且つ心臓に疾患があったからなのか、50代のうちに死にたかったのか、
考えても想像でしかない。
ただ、手を合わせに行こうと思った。
自分の中でも節目をつけたかった。
だが、なかなか実現できなかった。
たまたま大阪府の小学校から講演に呼ばれた際に、志摩へ寄って来ることにした。
その日のうちに志摩まで移動。ホテルに泊まり、翌朝レンタカーで大王崎の灯台へ向かった。11月14日だった
自殺した理由はともかく、何故身を投げたのがクリスマスイブだったのか?
運転しながら気になってきた。
世間が浮かれている時だからこそ、背を向けたかったのだろうか?
灯台は入場料を支払い、上部まで行けるようになっている。
狭い階段を上りながら、「ちぎれた愛の殺人」で撮影した島根の灯台を思い出した。
「あの時もボロボロになったよな」
上部に上がり外に出ると、高所恐怖症の俺には足がすくむ高さ。
身を投げた場所はわからないが、発見した場所は見当がついたので、
その場所に向かい合掌。
当初は手を合わせたら、その場を立ち去り、帰りに伊勢神宮でも観光して早めに帰京するつもりだった。
しかし、池田さんのツィッターでのつぶやきを思い出した。
「帰りなん、いざ。何ぞ帰らざる。 あ…伊勢志摩の夕日の中で死にたい。」
池田さんが死ぬ前に見た夕日を見なくてはならないのではないか。
「お前、もう帰んのかよ!ちゃんとロケハンしろよな」
池田さんの声が聞こえてきたような気がした。
どうしようかと思ったが、このまま帰ったら後悔するような気がして、夕刻にまたくることにした。
灯台付近から見ると朝日は海から上ってくる。
志摩の海はどちらかというと東に向いていて朝日は昇るものの、夕日が海に沈むことはないと思っていた。
例えば日本海なら夕日は海に沈む。
ではこの場所で夕日が海に沈むことがあるのだろうか。
方角的には微妙だった。
近くの民宿の人に聞くと、海に沈むことはないという。
「なるほどな」と思いつつ、漁港につながる遊歩道を歩いた。
「あー」と思わず叫んでしまった。
池田さんは、太陽が海にもっとも近い地点に沈む日、即ち冬至の日の夕日を見て、その後に身を投げたのではないか。
灯台は4時には閉まってしまったので、その近くの見晴らしの良い場所から夕日を見つめ続けた。
完全に夕日が見えなくなるまで、見続けた。
さらに暗くなれば、灯台に灯がともる。
そこまでいようと思ったが、
池田さんが海の底から誘ってくるような気がして、逃げるようにその場を立ち去った。
後日、昨年の冬至の日付を調べた。
だが、21日だった。
もっと詳しく調べると、21日、22日は曇りで夕日が見えなかったようだ。
「池田監督、撮影現場でも妥協しなかったように、死ぬ前に見る夕日を待ち続けたんですか?」
23日は晴れていたようだ。
「23日の夕日を見て、何を思ったの?」
「やっぱり海には沈まなかったか…」と思ったの?
最後まで、ロケハンしてたの…?
(24日中にアップしようと思っていたのだが、間に合わなかった。また怒られるかな)
人魚伝説は、前売り券を手に映画館に行ったものの、早々に公開打ち切りとなっており呆然としたことをよく覚えています。
女優さんのエピソードは知りませんが、強烈なシーンではありました。
『死霊の罠』は助監督に誘ってもらいましたが、私自身がケガをしていたため断らざるをえませんでした。現場は大変だったと聞きました。