日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

それが目的

2008年03月02日 | Weblog
私は、作曲するために、食事をするために、エッセイを書くために、この世に、生まれてきたのでない。人生を楽しむために、よりよく生きるために、生まれてきたのである。

出来る限り苦痛を少なくして、より多くの快楽。より多くの嬉しい事。楽しいこと。気分の良いこと。志の良いことなどを楽しむために生きているのだ。
よりよく生きること。与えられた命を楽しむこと。それが目的である。

それが、私がこの世に生まれ出たことの目標である。100年の命を持つ芸術作品を残すために、人生のあらゆる楽しみを犠牲にするなんて。まったくばかげていると思えてくる。

高千穂の夜神楽

2008年03月02日 | Weblog
高千穂の夜神楽は、前回素通りでしまったので、今回こそはと、高千穂神社で行われる夜神楽を見に行った。
夏休みで、観光客が多かったのだろう。場内は満員で、立ち見が出た。

神楽は33番まであり、そのうちの4番が観光客向けに、演じられたものだが、そのどれもが実に分かりやすくて面白かった。私の隣にいたアメリカ人も言葉が通じていなくても、神楽の演じる意味が分かったらしく,大声をあげて笑っていた。
面白いのはご神体の舞というものである。
男の神様と女の神様が酒作りしながら,浮気心をのぞかせて、それで家庭円満に収まっているのを、身振り手振り、おかしく踊って見せる。
これは神楽のイメージからは随分はずれて、パントマイムと言った方がふさわしいような気がした。

楽器は笛と太鼓、それに太鼓につるした鉦3種である。単調なメロディーで、この神楽ではリズムの緩急が、踊りの仕草と結びついて重要な意味を持つ。

心の荒廃がひどい現代の都会人には一服の清涼剤として、この神楽を見てもらい
元気になってほしいと思った。また夜神楽を見て、その新しさに驚いた。

神話時代すなわち古代とのイメージで、神楽もそうだろうと一人合点していたが勘が狂った。神楽はユーモラスであり、命の躍動があり、現代に通じる生活感があった。昭和の神楽歌など、自作を自認してはいだが、こちらの神楽の方が私のそれより、よほどナウイ。

私のは神聖さがあるといえばそれまでだが、まじめで堅い。音楽としては新しいのかもしれないが、中味はそれほどまで新しいとは思えなかった。
夜神楽は宮崎の高千穂にある。

夜神楽を見に行く途中で、舞台の年配の女性と知り合った。偶然だが、明日の朝、阿蘇山に上り、それから車で、山鹿の灯籠を見に行くという。私が神仏の歌を作っては奉納する話をしたことから、彼女達は、自身の信仰の話をしてくれた。親鸞の教えを信じて入るので、金粉は何回も経験したという。仏壇にまいっていると、金粉がふりそそぎ、経机の足の部分だけが、金粉のないまま足跡として残ったという。

彼女は学校やってもらえなかったことが未だに残念で、結婚するまでは恨んでいたという。今は離婚して、一人働きながら生活をして、今回久しぶりに車で、友人と二人の旅に出たという。阿蘇駅近くのレストランで、3人で、カレーライスを食べコーヒーを飲んでさようならをした。若い人が代金を払ってくれた。高千穂から、高森。高森から、阿蘇山頂まで、どうしていこうかと私は思案中だったから、この同行3人の旅は本当に楽しかった。

花の命は短くて

2008年03月02日 | Weblog
花の命は短くて苦しき事のみおおかりき」そうそう。これは林芙美子の言葉である。
白髪がはえる頃になって、人生を振り返ってみると、この短いつぶやきが、百言の重みを持って身にしみてくる。

考えて、考えて考えぬいた挙げ句、言葉に出たのではなくて、林女史の体にしみついた生活実感がふと口をついて出たのだろうが、人生の哲理を言い得て妙である。

思うに、これは厳然たる自然の法則である。動物も植物も1生涯のうちで花の咲くときは一瞬である。その花を咲かせるために全ては奉仕させられ、消費され、埋もれていく。

ましてや、人間は考えるという特性を持っている。それが、人生の多くの場面を輝かせる側面よりは、苦の場面をひきだたせる事の方が多分に多いと言うことを考えるから、毎日の生活を過ごす中で、生まれて来る不快な感情生活の実感が、人生の真の姿は苦の連続であるという哲理を思い知らせてくれる。