日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

美人

2008年03月11日 | Weblog
姿かたちよく見目麗しいのは、女性だけとは限らない。
男性でも、男ぶりがよくて、同性でもほれぼれ見とれるれるほどの人が居るものだ。
そんな人を見ていると、この人はきっと、善良で立派な人なんだと、ひとりで決めて、中身も確かめずに、独断と偏見に満ちた評価を下す。
ましてや、背広をきちっと着こなし、気の利いた装身具、たとえばシックな時計、のりの利いたワイシャツやちらっと見える上品なカウスボタン。それに顔に似合う眼鏡などを身に付けて、外見もパリっと整えているときは、中身はどうあれ、外見にすべてその人の人格が現れているようで、中身と外見が一致しているような錯覚をする。そして、その錯覚に基づいて評価をするのだが、評価自体が当てならないのに、それに信頼を寄せて先入観を作ってしまう。

それでも、人間の直感というやつは恐ろしいもので、すべてを見抜いて正鵠を得ている場合もなきにしもあらずだが、私はこのような評価がその人の一瞬のスナップとしてはズバリあたっていることを認めはしても、一つの体に神と悪魔の両極端を併せ持っている人間の、個性なり、資質なりの時系列化されたトレンドを示しているとは思わない。

なぜならば、人は意識的努力によって、自分の綺麗な部分(たとえそれが体の部分であっても、心の部分であっても)を出そうと努力するものであるから。
そして私は人の心の奥底に住む、神と悪魔のお互いを差引しても、なお神性が残る人こそ、美人だと思う。
しかも、こういう種類の美人は年とともに、ますます磨きがかかってその美しさは光彩を放つ。
こんな簡単な美人の見分け方ができるようになるまでに、50年の歳月を要した。
















信じる信じない。

2008年03月11日 | Weblog
人は、一生涯に何回か思わず、神様仏様!!!”(助けて)、と叫ぶ時がある。命が生死の瀬戸際まで追い詰められたときは、もう無条件である。

普段何事もないときは、神仏など信じない。と公言していても、いざというときには、こういうパターンをとるのが人の常である。だから信じる(神の存在を)のであるが、通常は、信じるという意識は無意識の世界に埋没して、表面上は信じていないという意識で、生活している。

でも、実は、心の底では信じるものを思っているのである。よほどの自信過剰家か完全なる無智者のどちらかでない限り、本人の意識とは逆に信仰心は、普通の人にはあると見るのが正解じゃなかろうか。

人生プール

2008年03月11日 | Weblog
この世に生まれてきた。今から死ぬまで、人生を生きるということは、たとえれば、この世に出た瞬間から、、泳ぎ方を教わることなく、いきなりプールに放り込まれて、向こう岸まで泳いで渡れと言われているようなものだ。

そして、これは宿命で、どんなことがあっても避けることができない。何が何でも自己責任においてプールの向こう岸までたどり着かなければならないという絶対的な命令である。

泳ぎ方をおそわってから、プールに飛び込んだわけではないので、途中で溺れる者が出たり、まっすぐ進めばいいところを、ジグザクに進んで、自らを消耗したり、折角いい線まで泳いでいるのに、後ろに向かって泳ぎだしたり、全力を出してあまりにも急ぎすぎたために、途中で元気が続かなくなって、極端に、ペース悪くなるものが出たり、そうかと思うと要領よく泳ぎ方を覚えて、なんなく向こう岸わたっていく人もある。

 この人生プールを泳いで渡っていく中で、途中から気がついたことであるが、泳ぎ方の要領を誰かから教えてもらえると、ずいぶん楽になるように思えた。
つまり、人生行路を泳ぎ渡ることを教えてくれる人に出会えたら、きっと独力で、苦労して泳ぎ渡るよりは、要領よく渡れるのではないかと考えた。

いろいろな壁にぶつかって苦労はしたが、人生をうまくおよぎ渡るハウツーものに出会うことができた。それは何かというと僕にとってはお経である。
人生の最高の生き方や、人生そのものを教えてくれるのは大聖人の教えだろう。僕にとって、それは釈迦の教えである。いわゆるお経の中にこそ、最高の人生を送るためのノウハウがギッシリと詰め込まれているのではないだろうか。

難行苦行をくぐり抜けて人生の真理を発見したお釈迦さんの悟りこそが、ハウツーもののエッセンスではないのだろうか。すなわちお経こそ、人生行路を泳ぎ生きるための心構えや技術が、ぎっしり詰まっているものだということに気がついた。
お釈迦さんは自分が悟ったことを人々に教え歩いた。その教えが弟子たちによって、お経と言う形で現在まで残されている。
要するに、お釈迦さんの教えに帰依することが最高の生き方に触れることであり、教えてもらう、いや言葉を変えていうと、仏教に帰依し、その教えを出来る限り忠実に、守ることこそ、最高に幸せな人生を送ることにつながると私は解釈している。日々の務めを果たしながら、お経の精神をそのなかに生かしていくということは、幸せな人生を約束することになるだろう。と、考えたのだ。

人生の大半を過ごしてきて、もう間もなく、日が暮れるという年齢に達して初めて
こういう事が分ってきた。遅きに失する感があるが、それでも良い。今からスタートでも構わない。
 
 釈迦の解き明かした人生の真理の集大成がお経であることは、先ほども書いたが、これは異国語でかかれていて、その意味を解釈するのがとても難しい。ただでさえ難しい哲学を、外国語でかかれた内容を理解しようとするのは大変なことであるが、幸いなことに、仏の教えを専門的に勉強し、一般庶民に、説法という形で、教えてくれる。プロ集団がある。
専門家の教えに、耳を傾けると同時に、自らも、それを日々の生活の中で生かしていく。実践していく。ということが大切なことである。仏の教えは、説法を聞いて、それを実践する。実行する。つまり、行動することにある。


一方的にこの世というプールに放り込まれて、何が何でも向こう岸まで泳ぎ切らないという宿命をもっているのが人間だと観念して、お経をむさぼり読み、どんな些細なことも心して、真摯に受け止め、ひたすら釈迦の教えに忠実ならんと努力することが、波風の少ない穏やかで平穏な人生を約束するに違いないと信じて、生きてきた。

そうしてこういう意識を持ってからの自分の過去の生活を振り返ってみると確かに釈迦の教えの通りの結果が出ているから、お経は味読して理解して上手に人生を生きるハウツーものとして活用すれば心豊かな人生が約束される。


釈迦自らの言葉だとして、まとめられたお経が法句経である。釈迦はその中でいろいろ短い言葉で歌うようにして説法されたと伝えたれているものであるが、その中に、自灯明、法灯明というのがある。

わかりやすく解説すると、人は、まず己を頼りとして生きよ。その生き方は私が説いた教え、法にあると言うことである。つまり、人は自分をよりどころとして、法に沿って生きるならば、まっとうな人生が送れる。ということである。











輪廻転生

2008年03月11日 | Weblog
カルカッタ(・コルカタ)から列車に乗って、バラナシについたら、直ぐガンジス川の沐浴場に出向いた。
年間に百万単位の ヒンズー教徒が訪れるという聖地。これがバラナシである 。
一体ここではどんな儀式があるのか、するのか、興味津々である。

沐浴する人々の姿を見て、こんな汚いところに、こんなに大勢の人が 浸って衛生上の問題はないのだろうか。水は茶褐色に濁っているし、沐浴中の人々は、体を洗い、川の水を飲んでははき出すうがいをする。
それがまるでイモのこを洗うように大勢でやっているので、非衛生なことおびただしい。とても彼らに混じって、沐浴するという気にはなれなかった。またここには動物の死体、場合によっては人間の死体さえも浮かんでいることがあるという。

そこで僕はここで沐浴するのをあきらめて、人のいない上流で川につかった。
水は生暖かく、表面は穏やかな流れのようにみえるが、底のほうはかなり流れは速くて、足を取られそうになった。水中につかりはしたが、彼らのやるように、うがいをしたり、この汚水を聖水として持ち帰るなどと言うことは、どうしても出来なかった。ホテルに帰ってからは直ぐシャワーを浴びて体の隅々まで何回もシャワーで洗い流した。そうでもしなければあの汚い汚水が体にへばりついているのじゃないかという気がして気持ちが悪かった。少なくとも大勢のヒンズー教徒が沐浴して一向に平気な顔をするどころか、満足そうな表情さえ浮かべているさえ、浮かべているのとは全くかけ離れた、気分でいた。同じ事をしても、宗教が違えばこんなに違うものか。僕は体でこのことを体験した。

沐浴をすませたので、バラナシの名物?である火葬を見に行った
。火葬はこの川岸で、薪を井桁にくんで、その上に死体をのせて、燃やすのである。時間を計ったら、2時間くらいで、ほぼ骨灰になっていく。
 骨灰になると、すべてそれらは、ガンジス河の水中になげいれられる。在世した人間は、それで跡形もなく、完全に消滅して終わるのだが、ここから先についての信仰がある。
即ちヒンズー教徒が死ぬと、ここで火葬され、骨灰がガンジス河にながされることによって、魂は常住極楽に往生し、輪廻転生の輪から逃れて、極楽にいて、この世に生まれ変わることはないと信じられているのだ。つまり輪廻の輪から解脱するというのだ。だから死ぬことは悲しみには違いないが、ある一面では、輪廻の輪から逃れる、喜びであり、祝福される部分があるのだろう。

 そういえば先ほど、1団の葬列に出会ったが、バンド付だ。楽隊は
陽気な音楽を、ラッパや鉦、太鼓で奏でてる。葬式ににぎやかな音曲等ならして、不謹慎だとさえ思った。
こういう事の根底に流れる、哲学や儀式には、慣れ親しんでいないところから来る、違和感がある。
それはインズー教と仏教の哲学や儀式のあり方などの違いなのかもしれない。
 死んで生まれ変わるという話は、仏教にもあるし、キリスト教の中にも死んでのちに、パラダイスに行くと言う話もある。
 またチベットのラマ教では、前世の記憶がないと、リーダーには選ばれない、なれないという約束事があり、それについては、かなり詳しくチエックされて、パスした者のみが選ばれるらしい。
いずれも科学的には、証明されたことではないが、時間空間を超えて、共通した死生観があるのは、事実である。

さて輪廻転生ということについて、僕が理解していることを少し書いてみよう。
輪廻転生”とは、人間の本質は肉体の死を以て終了するのではなく、来世で異なった存在となって生まれかわるという思想で仏教やヒンズー教の中にある。またこれに類似する思想は、ヨーロッパなど世界中にある。

バラモン教では、人間には精神や肉体を超越する、その人間の原風景ともいうべき“我”が存在するとされ、それこそ輪廻転生する主体であり、そしてそれはバラモンの創造主梵天(ぼんてん)そのものなのである。

来世で何に生まれ変わるのかは、現世の行い“業”によって決定される。それが良い業であれば、身分の高い人間や神に生まれかわることができ、悪い業であれば、それこそ動物や虫といった卑しい存在に転生してしまうのだ。


輪廻転生とはバラモン教においても仏教においても、現世は非常に苦しいものであるとされる。その苦しみから抜け出すには輪廻の輪から抜け出す"解脱"を達成するしかない。と考える。

解脱の条件とはバラモン教では梵天一如の真理を悟ることで、仏教では無我の境地に達し仏陀となることである。これを"成仏"といい、これこそ仏教の最終目標である。

六道とは天上界・人間界・阿修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界という六つの世界で構成され、人問として存在している現世は人問界にあたる。

しかも仏教に馴染みの薄い先進各国にも輸廻転生思想は存在する。ある調査では英米ともに四人に一人が生まれ変わりを信じているという調査結果がある。  

現代の人々にある輸廻転生思想とは、バラモン教から発生し仏教が2500年問培ってきたそれを受け継いでいるものではなく、あくまで主旨の異なる独自のものであることがいえる。

「生まれ変われる」という抽象的な願望のみが強調されたものとなっているのだ。実際、人々が最近のそのような新興宗教や非科学的といえる輪廻転生思想に惹かれるのは、それを望んでいるからであって、そのこと自体がバラモンや仏教での教えに矛盾している。

元来、輪廻転生とは苦しみであったのだ。また、それを望むということは"生"への欲望であるともいえ、すべての欲望を断ち切り解脱するといった本来の輪廻転生の教えはすでにお座なりにされているといってよい。


物質飽和と情報氾濫が現代人に何らかの精神的「満ち足りなさ」を感じさせていることは事実である。人々にとって現代とは、欲しい物は(ある程度)手に入り、すべての物事について(ある程度)予備知識として知ってしまっている、意外性のない無感動な社会なのである。こういう状態を社会学では「オブ・コース・ステイトメントの世界」と言うらしいが


、このような何もかもが当たり前に存在する現実の世界より、科学的に、常識的にはとらわれない未知が存在する可能性を秘めた宗教や超常現象に人々の関心が集まるというのは、むしろ自然な…ことといえるのではないか。

無論、輪廻転生もそのひとつということになる。古代、「貧しさ」が産んだ輸廻転生が現代では「虚しさ」から興っているといえるだろう。いつの時代においても人問とは現世に満足することができないものである。


古代において輪廻転生思想とは、現世での生活を「苦」とし、死をその苦しみの中のひとつの通 過点として受けとっていた。

、現代人にとっての輪廻転生思想とは、精神的「満ち足りなさ」の反映である。文明の発展によって物欲と知識欲を飽和させられ、現実の世界に新鮮さを感じ得なくなった人々は科学にはとら、われない意外性を求めるようになるのだ。


 しかし、その意外性を求める心理のみでは現代人に宿る輪廻転生思想を説明できるだろうか


無我や六道輸廻といった本来の教義を無視し、自分たちに都合のよい解釈をしている現代人の輪廻観は「死にたくない→生きたい」という人間として、当然にして最も基本的な原理からきているように思う。

科学的に解明され自らも十分に認識している肉体の死は避けることはできないにせよ、それ以外の何らかの形で「自分」を残し、存在自体の死から逃れようとする心理ともいえる。

科学的常識として自らの肉体的・精神的消滅を十分に認識しつつも、心のどこかに白らの永劫性を信じておきたいという心理があり、それが現代人を輪廻転生に惹きつけるのではないだろうか。


ロシアの思想家N・フヨードロスは「死者を蘇生させることこそ、人類最後の目標」という言葉を遺しているが、ようするに人間は永遠に生きたい、などと無体なことを考えてしまう生物なのだ。

そのために輸廻転生思想とは、現代においてはその非科学的思想を以て科学的に実証されている「死」を、認識することから逃れるために機能し、古代においては「死」を不可避のものとして受け入れるための役割を果 たしていたのだ。

輪廻転生とはどの時代にあっても、誰にとっても結局「よりよく生きたい」という人間が普遍的にもつ願望が生み出すもの、ということである







本当のこと

2008年03月11日 | Weblog
政治家に、巷の倫理や道徳を求めるのは、八百屋で魚を求めようとするようなものだ。と現職の法務大臣が言うのを聞いて、なるほど。うまいことをいったものだと感心した。

もう少しかみ砕いてわかりやすく言えば、要するに政治家とは胡散臭いことをする輩からだから、後ろでは、汚れたカネをめぐって取り引きを、日常茶飯事的に行うもので、そのことは大多数の国会議員の実体だから、別に、田中角栄容疑者一人を悪者にまつり上げて騒ぎ立てる事はない。

第一まだ一審であり、有罪が確定したわけではない。三審制の日本では、上級審で、どんな逆転劇が、起こるかも分からないから。

そして国民も国民ではないか。決して政治家のモラルだけがとわれているのではない。政治家を通してのたかりの構造において、庶民も、がっちり結びついているではないか。それならば、いったい誰が、田中容疑者のみを悪玉に仕立て上げる権利があるのか、彼が言いたい事はまぁ、こういうことだろう。

 しかるに日本は法治国家である。たとえどのような理屈をつけようとも、司法の判断と、裁きには従う必要がある。その法の裁きの万人の長たる法務大臣が、我々が抱いているイメージとはかけ離れた政治家の実態を経験上から語ったのである。
 
そして一審で有罪判決を受けた刑事被告人を暗にかばうような発言をした。当然のことながらはこの発言に、同調しない連中はこぞって抗議姿勢をむき出しにした。

つらつら考えるに、おおよそ、人間とは、スケールの違いがあるものの、だいたいこんなものであろうという。現実的理解を持って眺めると、きれいだとは思わないが、何かわかったような気がする。

しかし法意識を頭の上にしっかりすえて、この問題を考えてみると、やはり法務大臣の立場にある人の発言としてはふさわしくない。ある程度そうであろうと推定できるから実態としては、納得できても、むきだしにされると、抵抗感があるから、人間とは不思議な動物だ。

何事にも例外はある。政治家、の中にも、慣れ染まった人がいないかというとそうでもない。清廉潔白で、天下国家の繁栄を心から願い万民の幸福に少なからず、貢献しておられる人種が、数こそ少ないがおられるはず。これら少数の清廉な人種がこんどの問題をどう眺めているのだろうか。