日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

おーい.雲のやつ

2008年03月07日 | Weblog
おーい雲のやつ

おーい雲のやつ.


そこの真っ白な大きいやつ.


今、俺はなー、阿蘇山の草千里で、大の字で寝転がっているんだよ。

お前 、東へ行くんだろう。

堺の上を通るとき、女房に言ってくれ、

浮気はしとらんから 安心せー。とな。

あっ。そうだ。子どもに土産に、ペンダントを買ったとな。

チー子は、まだ1歳だから、わかるように伝えてくれよ。

おーい。 雲のやつ。雷にうたれんように気をつけいけよ。

おーい、雲のやつ。そこの大きいやつ。 頼んだらぞー。

科学の限界

2008年03月07日 | Weblog
今から、1500年さかのぼると、聖徳太子の時代になる。科学は、その時代にもすでにあった。ただ現代のそれと比べると、あまりにも貧相で、科学と呼べるものではなかったかもしれないが、考え方の一つの方法論として存在した。

今から1000年の昔、藤原氏は、栄華を極めた。しかし、その時代にはテレビはなかった。もちろん、冷蔵庫も、電気掃除機も、クーラーも、なかった。
科学の、これらの文明の力はまだ未発達であった。だから当時の人々は、このような文明の利器の存在を知らない。当時の人々にとっては、これらのものは「なかった」のである。

ごく最近になって、これらの文明の明かりが、一般庶民をも照らすようになった。だから、そういう事実に裏づけられて、現代は、科学万能の趣がある。

科学がこの調子で進むと、今から300年、のちには、どのようなものが、この世に出現するか、想像さえつかない。それはあたかも過去の時代の人々が、平成時代の人々の生活を想像することができなかったようなものだ。科学はその積み重ねによって時間の経過とともに、ますますの大きな成果を出すことだろう。

だがしかし、科学で解明されたのは、宇宙全体の法則のごく一部でしかないと思われる。ということは未解明の部分がまだまだ多く残されているということである。科学(人間の頭脳)は未解明の宇宙の法則を説き明かそうと、どこまでも追い求めることだろう。

悠久の時間の流れのなかで、科学はその時代時代の限界性を持っている。つまり、われわれが来ている21世紀初頭には科学はそれなりの限界性を持っている。

もし、科学が宇宙のすべての法則を説き明かしたときには、科学は神になる。
はたしてそんな時代が来るのであろうか。

科学の追い求めるものは無限大で、どこまでいっても、結局は神にはなれないように、私には思えるのだが。つまり、科学には、その時代その時代の限界があるということだ。

ちょっとこれどうです?

2008年03月07日 | Weblog


人間は肉体と精神、心、魂と言ってもいい、から成り立っている。人は死んだときにその肉体は土に帰り、さらに元素に還元される。

それに比べて魂は輪廻転生を繰り返しながら、真実の言葉たとえばお経や陀羅尼
に触れると、仏の世界で修行することになる
。ここでさらにお経や祝詞に触れると、魂はさらに磨かれて神域へ近づく。
魂の内の極わずかの磨きぬかれた魂は善神となって存在する。
つまり、われわれの究極の落ち着き先は善神になることである。