日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

それにしても神様ちょっとこくじゃあないですか。

2008年03月16日 | Weblog
それにしても神様ちょっとこくじゃあないですか。
1やみくもにこの世に送り出しておき、生きることのルールも教えない。
2.目隠しされた状態に、泳ぎ方も知らされずに、プールに放り込まれ勝手に泳げ、勝手に生きろ。
それじゃ間違いをする人がいくらでもでてきますぜ。
水を恐れながら、手足をばたつかせ向こう岸までたどり着ける人もいれば、途中でおぼれる人もいる。
人生とは結局、神の命ずる修行なんですかね。
それにしても殺生や

夜行寝台バス

2008年03月16日 | Weblog
日本を出るときから、夜行寝台バスが走っているのを知っていた。生まれてこのかた、乗ったことがない。僕は旅の目的の1つはこれに乗ることにした。子供じみた目標である。
 
 麗江から大理までは200キロ、朝9時にのって3時頃に大理についた。大理から昆明までは330キロ、こちらに来るときは大型観光バスで約10時間かかったから、夜行バスもそのくらい掛かるだろうと推測した。
 大理からバスは4台出た。どれも満員である。僕は一番後ろのバスにした。

 定員は33人。料金は一人分50元だと言う。寝台の広さは幅が50センチ、長さが180センチくらいで、1マスは二人用である。つまり1マスは100センチ掛ける180センチである。
 バスくらいは贅沢しなくちゃと思い、僕は1マスつまり二人分を一人で買い切り、ゆったりと寝ることにした。乗客は皆カップル、しかも皆若い。シングルは僕だけだった。
 交代要員の一人用ベットを除けば、皆二人用、真ん中を通路にして、両脇に上下4列に並んでいる。片側に8ベットだから16人、両側で32人。
 
 ところが僕の真後ろの二人組があられもない姿で抱き合い、絡みあっているのが目についた。
ええっ?バスの中で。公衆の面前で。おいおい、それはないよ。恥ずかしいとは思わないのか。他人事だけれども頭に血が上った。のぞき見したい気もあったら恥ずかしいという気が先にったった。僕は息を凝らしながら彼らのあえぎ声に全神経を集中した。中国語だから意味はわから無かったが、こればかりは世界共通で中身はわかる。僕は一生懸命に気をそらした。

 そういえば、中国のトイレには驚いた。日本のように一人一人が他から遮断されたブースにはなっていないのだ。囲いも仕切もなくすけすけだから、お隣さんの顔を見ながら用を足すことになる。それだけではない。ブースがないから、勿論前には扉もない。混み合うと、こちらがしゃがんでいる最中にも、前に人が立って待っているわけだ。これじゃ出るものも出ない。トイレを使う度に、こんな思いをした。
 旅行期間中ついぞ、僕はトイレになじめなかった。恐らく日本人は、こんなトイレにはなれていないから、恥ずかしいという思いが先立つだろう。
 しかし中国方式が悪いわけではない。思いが違うだけである。つまり習慣、大きくいえば、トイレ文化が違うだけのことである。

 後ろさんはますます激しく、大胆に愛し合っている。これはいかん。
 僕はズボンのポケットから睡眠薬を出して飲んだ。時計を見たら11時である。それ以後はなにも知らない。
 目が醒めたら昆明に着いていた。朝8時である。寝台夜行バスの旅はこうして終わった。
みなさん。お疲れさま。


大理レポ

2008年03月16日 | Weblog
大理は昆明から約400キロほど西にある。大型観光バスで約12時間掛かった。途中で昼飯、トイレ休憩が30分ほどあって、それ以外は走りづめ。礎雄迄60キロは高速道路、それから先は地道、舗装があったりなかったり、腸捻転をおこしかねない悪路を走る。道は山越えで上ったかおもへば下る。野を越え山越えてひたすら走る。10時間も乗ったら大概嫌になる。大理についたのは日もとっぷり暮れた9時近くだった。街の南の端にシェグアン(下関)があるが、ここはにぎやかであった。近代的なビルが立ち並び通過したどの街よりも立派だった。

大理は宋時代には大理王国として栄えた。今の雲南省(ほぼ日本ぐらいの広さ)は大理国のなかに含まれる。古い街だけに四方に城門があり特に南の城門から北の城門へは歩いて20分も掛からないで通り抜けられる。
その通りが一番にぎやかで、人通りの多い復興路である。
 街の北のはずれに三塔がある。一番高い塔は70メーターの高さがある)が、これが作られたのは今から約1000年ほど前らしい。
 ご苦労さん。千年間お前たちのお陰でどれほど多くの人間がが慰められてきたか。僕は三塔にお礼をいった。大理の観光シンボルとして、これからますます輝きをまして名物になるだろう。

湖の西にある山脈をツアンシャン(蒼山)という。19の山々でなっており高いところでは4000メーターある。3000から4000メーターの山々の頂には雪が積もって白く輝いているが、街を行く人は半袖を着ている。僕はこの峰峰のうちで中和山と呼ばれる山の中腹までリフトで上った。
 そこから見る市街の景色は、山と湖と点在する村々と、ほぼ正方形に見える古城都市の家並みなどでのすばらしさは何と表現したら良いのか。古ぼけてはいるが美しい。
 これはこれは。僕は思わす歓声をあげた。勿論眼下に三塔が見える。心なしか傾いているようだが、これは建てられて相当の年月が経っている年代物だ。建造年月日は判らないが、南紹の末期つまり大理になる前らしい。それ以後何回か修理はされてはいる。
 蒼山、湖、三塔、城門のある街、それだけで絵になる。鉄道はまだ敷かれてないがいづれシャグアン迄は来るのだからこれからは観光化が始まり俗化が加速する。

雑念1

2008年03月16日 | Weblog
独身は気楽だと君はいうが、同時に寂しさもつきまとう。老人になって、ただでさえ寂しさが押し寄せてくる黄昏時に、君はなにを以て寂しさをいやすというのか。子供は必ずしも自分の近くにいるわけではないが、それでも心の中ではそれが大きな支えとなる。子供がいるといないとでは大違い。僕はそう思うから君の独身主義には懐疑的。まぁすきに生きるがいい。人生は全て自分しかわからないからね。



盲人だ象をさわって、象とはこんなものだと自分の実感をいう。そしてその人にとってはその判断は正しいが、全体像から見るとそれは一部を言い当てているだけで必ずしも正しいとはいえない。全体像を言い当てて、かつ、部分的に正確なときに正しい判断となる。

部分と全体、常に両方にわたってものを見る習慣をつけておかないと、真実を見失う。つまり正しい見方ができないのだ。哲学的なことを考える場合でも、常に現実論の立場に立つ、この二つの見方をして視点にすえることが肝要である。

神は人間の魂の中に命を吹き込む。神は命の命である。魂に生命力を吹き込むという考え方はおもしろい。自分の経験でいうと、神社参りの日には決まって命が盛り上がってくるのが実感できる。


思考がこのごろストップする。1.2.3...と考えてそこから先が門がしまったようになって進まない。
もう考える力がなくなったのか。左脳か右脳か知らないが考えるという機能を司る部分が停止したのであろうか。悲しいことであり、恐ろしいことである。



見えないから見えてきた。心を統一し全神経をを集中するとこういう現象が起こる。


努力をすれば可能性が生まれるだけで、即実現性があるということには成らない。実現性とは可能性に神仏の力が加わったときに初めて生まれるものである。


思いを届けることのできない自分に心底から自己嫌悪を感じた青春の苦い思い出。これは私だけじゃあるまい。皆そうなんだろう。


決して八方美人じゃない。人にはそれぞれの個性があるから自分の個性と合う部分においてのみつきあっている。そこで、会う部分が多いほど、本音で話し合う部分が多くなり心理的距離が近くなる。


百メーターの長さをどう評価するのか。

1.百万キロメートルの尺度を用いれば百メーターは無視できるほど小さい。つまり、限りなくゼロに近い

2.一mmを基準単位にして百メーターをはかれば無限大に近いほど大きなものになる。

3.ある一つのものをどういう単位ではかるかによって無限に変化する。
個人の判断もその人の使う物差しによってゼロ~無限大にまで広がるのは、人間がそれほど複雑にできているという証明に他ならない。


人はなにが面白くて生きているのだろうか。通勤電車の人たち。疲れた顔、押し黙った人々。元気がよく威勢よくはしゃいでいるのはガキばかり。
皆死んでいるのであろうか、、、、、。黙って目を閉じている。
目を開けた人はうつろな目で一点を見つめている。笑いもしない、泣きもしない。皆退屈しているんだよなぁ。
さあ何か面白いことを始めよう。胸のすくような、胸がワクワクするような何事か、何でもいい。始めよう、始めよう。座して死を待つ愚は後悔の種。
さあ何かを始めよう.