聖徳太子賛歌
1934年、弘法大師の1100年祭には山田耕作、北原白秋先生がコンビを組んで、弘法大師讃歌を奉納された。五十年遅れて、1150年祭(1984年)には、私が同じく弘法大師讃歌を奉納させていただいた。また、1990年西大寺中興の祖、叡尊上人、興正菩薩の700年大遠忌には、讃歌-興正菩薩-を作り、本堂に合唱団をいれて、音楽法要をさせていただいた。
そして、この度、聖徳太子1400年祭には、またまた聖徳太子讃歌を奉納させていただける幸運に恵まれた。そのどれを取っても私の生涯に記念すべきことには違いないが、とりわけ、この度の1400年祭は私にとっては意義深いものである。
もしあのときに、聖徳太子が日本に仏教を招来され、定着させる努力を命がけでされなかったとしたら、今の日本はどうなっていただろうか。勿論、我が国の仏教文化や日常生活の隅ずみまで入り込んだ仏教思想は、現在のような形ではあり得ないだろうし、日本が世界に誇り得る精神文化は何も無かったのではあるまいか。そういう意味からも、聖徳太子のお陰で、今日の日本文化があると言っても、決して過言では無いだろう。
そしてこのことは、仏教を信仰するか、しないかという以前の問題である。
1400年あまりの昔、聖徳太子が祟仏、排仏の戦に勝利を治めて、仏教を受容され、自らも帰依するだけでなく、仏典を注釈されたり、仏教思想にもとずいて、政治を行はれたが、それは我が国や人々の将来の在り方を、明示されたものであると私は受け止めている。
あれ以来、聖徳太子の精神は日本国民の心の中に生きついているし、また文物は国宝という形で、今も残っているものが多い。振り返って見ると、聖徳太子はやはり偉大な教主である、と思うのは決して私一人ではない筈である。
世に千載一遇という言葉がある。私は齢50余にして、かの大聖人の1400年祭を迎える事ができた。この1400年祭が30年前に来ていたら、私は先述のような聖徳太子理解のうえにたって、作品を作る事はとてもできなかったろう。というのは若すぎて、現在のような理解ができていないだろうし、また、逆に30年後に迎えるとしたら、もうこの世にいるか、どうかも定かでないし、今ほどの気力があるかどうか、怪しいものである。
時は今である。私にとっては絶好のタイミングである。熟年にさしかかっている今こそ、人生の甘いも酸いも、広がりも奥行きも、分かりかけている今こそ、聖徳太子の偉業も恩徳もよく理解できるのである。それだけに作品への思い入れも、また格別のような気がする。
こんな時に1400年祭に巡り会えるという事は千載一遇のチャンスといはずして、何と言えばよいのであろうか。私はただひたすらに、讃仰や感謝の気持ちを精一杯作品のなかに込めさせていただくのみである。そしてこの作品は私の生涯で忘れる事のできないものであることは、言うまでもない。
過去の人類の歴史は、闘争の歴史でもある。少規模ではあるが、現在も延々と続く戦争が、どれほど人類を苦しめてきたことか。今こそ我々は和の精神に立ち返って、万民豊楽をこの地上に、実現しなければならない。いや、和の精神こそは人類だけにとどまらず、この地上に存在するあらゆるもの、あらゆる生命の平和共存を説いた崇高な哲学だと私は理解している。
諸々の事情の下で、今なお地球上の生命が脅かされているが、それは和の精神の欠如にほかならない。例えば地球環境汚染問題も、ボスニァの民族紛争も、カンボジァの権力闘争も、おおよそ、みな和の精神から掛け離れているところから生じる悲劇である。
思うに、もし聖徳太子の和の精神、即ち共生きの哲学を、人々みんなが理解して、一致協力して実践したならば、現代の悲劇は起こりえないのでは無かろうか。1400年前、既に日本にはこういう共生きの哲学を説いた人がいたということは、日本だけでは無く、まさしく世界人類の誇りでもあろう。
その偉大な教主・聖徳太子が摂政になられて、今年は1400年の記念すべき年である。幸運に巡り合わせて、図らずも、私は聖徳太子への熱い想いを、詩と曲に託すチャンスに恵まれた。それを皆様方と御一緒に、唱和させていただいきながら、共に喜び、天を仰ぎ地に伏して、聖徳太子の恩徳を讃え感謝申し上げるのが、私にとって1400年祭の意味である。
世界中のあらゆる人々の想いが、一つになって、聖徳太子讃仰の歌声となり世界中にこだましてほしい。
と同時に、人々の想いがあらゆる生命は同胞であり、兄弟であり、それはまた共生きである、という和の哲学に収斂して、この地球上のあらゆる生命の平和共存が実現することを願って止まない次第である。
1993年10月20日
1934年、弘法大師の1100年祭には山田耕作、北原白秋先生がコンビを組んで、弘法大師讃歌を奉納された。五十年遅れて、1150年祭(1984年)には、私が同じく弘法大師讃歌を奉納させていただいた。また、1990年西大寺中興の祖、叡尊上人、興正菩薩の700年大遠忌には、讃歌-興正菩薩-を作り、本堂に合唱団をいれて、音楽法要をさせていただいた。
そして、この度、聖徳太子1400年祭には、またまた聖徳太子讃歌を奉納させていただける幸運に恵まれた。そのどれを取っても私の生涯に記念すべきことには違いないが、とりわけ、この度の1400年祭は私にとっては意義深いものである。
もしあのときに、聖徳太子が日本に仏教を招来され、定着させる努力を命がけでされなかったとしたら、今の日本はどうなっていただろうか。勿論、我が国の仏教文化や日常生活の隅ずみまで入り込んだ仏教思想は、現在のような形ではあり得ないだろうし、日本が世界に誇り得る精神文化は何も無かったのではあるまいか。そういう意味からも、聖徳太子のお陰で、今日の日本文化があると言っても、決して過言では無いだろう。
そしてこのことは、仏教を信仰するか、しないかという以前の問題である。
1400年あまりの昔、聖徳太子が祟仏、排仏の戦に勝利を治めて、仏教を受容され、自らも帰依するだけでなく、仏典を注釈されたり、仏教思想にもとずいて、政治を行はれたが、それは我が国や人々の将来の在り方を、明示されたものであると私は受け止めている。
あれ以来、聖徳太子の精神は日本国民の心の中に生きついているし、また文物は国宝という形で、今も残っているものが多い。振り返って見ると、聖徳太子はやはり偉大な教主である、と思うのは決して私一人ではない筈である。
世に千載一遇という言葉がある。私は齢50余にして、かの大聖人の1400年祭を迎える事ができた。この1400年祭が30年前に来ていたら、私は先述のような聖徳太子理解のうえにたって、作品を作る事はとてもできなかったろう。というのは若すぎて、現在のような理解ができていないだろうし、また、逆に30年後に迎えるとしたら、もうこの世にいるか、どうかも定かでないし、今ほどの気力があるかどうか、怪しいものである。
時は今である。私にとっては絶好のタイミングである。熟年にさしかかっている今こそ、人生の甘いも酸いも、広がりも奥行きも、分かりかけている今こそ、聖徳太子の偉業も恩徳もよく理解できるのである。それだけに作品への思い入れも、また格別のような気がする。
こんな時に1400年祭に巡り会えるという事は千載一遇のチャンスといはずして、何と言えばよいのであろうか。私はただひたすらに、讃仰や感謝の気持ちを精一杯作品のなかに込めさせていただくのみである。そしてこの作品は私の生涯で忘れる事のできないものであることは、言うまでもない。
過去の人類の歴史は、闘争の歴史でもある。少規模ではあるが、現在も延々と続く戦争が、どれほど人類を苦しめてきたことか。今こそ我々は和の精神に立ち返って、万民豊楽をこの地上に、実現しなければならない。いや、和の精神こそは人類だけにとどまらず、この地上に存在するあらゆるもの、あらゆる生命の平和共存を説いた崇高な哲学だと私は理解している。
諸々の事情の下で、今なお地球上の生命が脅かされているが、それは和の精神の欠如にほかならない。例えば地球環境汚染問題も、ボスニァの民族紛争も、カンボジァの権力闘争も、おおよそ、みな和の精神から掛け離れているところから生じる悲劇である。
思うに、もし聖徳太子の和の精神、即ち共生きの哲学を、人々みんなが理解して、一致協力して実践したならば、現代の悲劇は起こりえないのでは無かろうか。1400年前、既に日本にはこういう共生きの哲学を説いた人がいたということは、日本だけでは無く、まさしく世界人類の誇りでもあろう。
その偉大な教主・聖徳太子が摂政になられて、今年は1400年の記念すべき年である。幸運に巡り合わせて、図らずも、私は聖徳太子への熱い想いを、詩と曲に託すチャンスに恵まれた。それを皆様方と御一緒に、唱和させていただいきながら、共に喜び、天を仰ぎ地に伏して、聖徳太子の恩徳を讃え感謝申し上げるのが、私にとって1400年祭の意味である。
世界中のあらゆる人々の想いが、一つになって、聖徳太子讃仰の歌声となり世界中にこだましてほしい。
と同時に、人々の想いがあらゆる生命は同胞であり、兄弟であり、それはまた共生きである、という和の哲学に収斂して、この地球上のあらゆる生命の平和共存が実現することを願って止まない次第である。
1993年10月20日