日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

 色紙0

2014年05月13日 | Weblog
       
       色紙 


打ち勝つことは、真の融和することだ。

 私の作業場には一枚の色紙の入った額がかっている。
もう、かれこれ40年以上も昔のことで、色も少しくすんで、真っ白だった色紙が灰色がかってきている。
この額こそが私が、家宝としているものである。いや、家宝というよりも、私の創作活動に大きな力を与える源となっているものである。

昭和は38年11月3日。文化の日に、私は音楽の師匠、山田耕作先生のお宅へうかがっていた。
当時、先生は原宿の駅前にあるマンションの7階に住んでおられた。

 ひとしきり、人生談議に花が咲いた後で、私はこういった。
「先生。ここまで生きてくるのに、とにかくいろいろありました。今までの私は困難が生じると、それに向かって、やあやあ声をあげながら、刀を振り回していたのですが、今ここに至って、くるものは何でも来い。全部、自分の胸の内に取り込んで、消化してやるぞ、という心境です」といった。
そしたら、先生はにっこりされて「色紙」とおっしゃった。
鳥の子紙に包まれた真っ白な色紙で、四周金縁の縁取りがしてある。
奥さんが持ってこられた色紙に先生は体の不自由をおして
「打ち勝つことは真の融和することだ。耕筰」と先生らしい字で書かれ、中央に先生ご自身の似顔絵をすらすらと描かれた。
頭のほうはつるつるテンだが、鼻の下のちょび髭はちゃんと描かれている。
それは、山田先生一流のユーモアで、ほほえましい限りである。
さらにローマ字でがkocsakuとお書きになって、たぶんサインするときに使われるのだろうと思われた竹製の花押を押して、
「0000君 卒業を祝して」と書き加えてくださった。

 作曲家として私は有名であろうが、無名であろうが、この一枚の色紙によってどれほど勇気づけられ、自信を持つことができたことか
このことを考える度に、この一枚の色紙がいつも私は子供にも、孫にも語り伝えたい、我が家の貴重な家宝であると思うのである。

別になんの意図もなく、私がふと、もらした心境を、先生は即座に受けとめられて、色紙の上に私のはなむけの言葉として贈ってくださったのだ。
大学を卒業するのは翌年の3月で、その前年のの11月3日・文化の日に、まさかはなむけの言葉をいただくとは、夢にも思わなかったが、今になってみると、本当にありがたい事である。卒業の半年も前に、卒業を祝してと書かれて、にっこり笑われた先生のユーモアが今でも思い出されて、私の心を和ませる。

 先生がなくなられてから、たった一度だけしか、お墓参りをしていないのが気にかかる。
そのうちに大阪から車を飛ばしてでも、墓参するつもりである。
 その時はもちろん、私の作品の中で、自信作を先生にお目にかけて、聴いて頂くつもりである。ピアノ伴奏で作ったソロ曲「延命十句観音経」 がいいか、それとも女声合唱曲「舎利礼文」がいいか。迷うところである。


























電車の中で

2014年05月12日 | Weblog
             電車の中で

まあ、なんて美しい人だろう。僕は彼女の横顔を盗み見しながら、そう心の中でつぶ
やいた。美しいといってもいろいろ種類がある
知性美あふれる美しさもあれば、妖艶な美しさもあるが、彼女の場合は、健康美あ
り、かわいくて、思わず抱きしめてチュがしたくなるほど愛くるしい。そんな美人で
ある。
胸のどきどきを隠すわけでもないが、その時僕はフオームのベンチに腰掛けてアイス
クリームをなめていた。
僕が アイスクリーム をなめたといったら、僕のことをよく知っている周りの人は笑
うだろう。というのはこういうたぐいの物はほとんど食べた経験がないし、いつもこ
の種の食べ物はノーサンキュで断っている。どういう訳か、こういう物と、乳製品は
体質的に受け付けないのだ。
だのに、今日は人目もはばからずに大人の僕が幼稚園児みたいにアイスクリームをな
めている 。人間の好みや行動は恒常的にどうのこうのいえる 物はなにもなくて、た
だ お天気みたいに、感情の赴くままに、日により、時間によって移り変わっている
のかもしれない。僕がアイスクリームをなめるなんて、子供の時以来で、おそらく何
十年ぶりの話である。

彼女は大きなサムソナイトを持っている。たぶん今から海外旅行に出かけるか、それ
とも帰国したかいずれかであるが、大阪方面の列車を待っていることから推察すれば
きっと今から出かけるようである。

海外旅行といえば、僕は今これが唯一の生き甲斐であり、唯一の道楽である。
関西空港を飛び立つときの、あの傾いた座席の感触がたまらないのだ。未知の世界に
むかって飛び立つあの不安と興奮の入り交じった気分がたまらないのだ。
他人の旅行に自分をだぶらせて、イメージしているわけではないが、とにかく、よ
く見かける海外旅行スタイル・サムソナイトを押して、というスタイルには吸い付け
られる。
 
 見目麗しい女性に声をかけることは、かなり勇気のいることである。心の中に何の意識もない普通の娘に話しかけることはさほど抵抗を感じないが、彼女の存在を意識し始めると、もう足止めを食らったように、大きな抵抗感がでてくる。今回もそうだった。職業柄この年代の若者とは接触する機会は多く、なれているはずだが、女性を意識するともうだめだ。緊張するし、心が硬直する。ムカデが己の足を意識してあのように器用に歩けるだろうか、そんな感じである。しかし何が何であれ、僕は海外旅行の話しがしたくて、思わず声をかけてしまった。
「あのー、今からいかれるのですか。それとも、帰ってこられたのですか」。
僕は胸の騒ぎを押さえながら、口ごもるような口調で、突然彼女に尋ねた。。
「これから研修旅行があり、中国へ行くのです。」
「中国はどちらですか 」
「まず西安で降りて、乗り継いで、ウルムチやトルフアンの方にいきます。」
「ああ、僕もいきたい。西安へいくのはずっと前から計画しているが、まだいってな
いのです。あそこはお大師さんが勉強されたところで、当時の長安は世界一の大都会
だったでしょう。
貿易、商業、文化、芸術、宗教などすべてが集まって発展していた都市だから、遺物
や遺跡があると思うのです。それをみたいと思っていましてね。中国といえば昨年雲
南省の昆明や大里、麗江などへ行って来ました。マイルドな気候で過ごしやすかっ
た。北京の方は9月が最高で冬は寒いらしい。さらに奥に入るのですね。どこの会社
がそんなところに研修にでかけるのですか。」
「就職先は小さいのですが、旅行会社なんですよ。」
「おお、それはそれは。旅行会社ですか。よかったですね。趣味と実益がかねられる
じゃないですか」
「そうですね。企業となると果たして趣味を許してくれますかどうか。」
「うーん、そうだよね。それでも普通よりはチャンスが多いのと違いますか。」
旅の話から始まって話はあっちへ飛び、こっちへ飛びして、止まるところを知らな
かった。岡山から、途中姫路で乗り換えたが、3時間はゆうに乗っているのに退屈せ
ず、あっという間に大阪に着いた 。僕は心の中でこの列車か遅れてつく事を望ん
だ。大阪駅で乗り換えて彼女とは京橋で別れたが、後ろ髪を引かれる思いと言うより
は、一緒についていきたい気分だった。どうしょうもないもどかしさは、ずっと家ま
で続いた。
 僕はずっと彼女のことを思い続けた。それは楽しい楽しい夢だった。夢中になってい
たんだろう駅を一つ乗り越してしまった。

彼女がどうして美人なのか。僕の好みにぴったりだから。
何よりも感覚的に似たものを持っていてその部分が心で共鳴しあうのだろう。これは
人間の相性というやつで、これがないと美人であろうがなかろうが全くエトランゼに
なってしまう。つまりお互いに単なる通りすがりの人に成ってしまうのだ。そこには
ほのぼのとした感情の交流なんてものはみじんも感じられない。美由紀を知って、僕
は体の芯から暖まるような思いがした。これは一体なんなのだろう。これが愛という ものの実態なのだろうか。心の中がほのぼのと、ほんのりして、何か夢見るような気 分になって、体の芯が暖まる。もしこれが恋愛感情でないなら、僕は生まれてからこの方今まで持ち続けた恋愛感情というものが分からなくなる。
「ううーん。それが何であっても僕は自分の気持ちに忠実になって、彼女を愛すれば
いいのだ。自分がそう思うのだから、こればかりは留めようがない。ただ愛する人の 幸せの為に僕が何が出来るか、その点だけはしっかり考えて置こうと思った。

 何事もせっかちで、おっちょこちょいの性格は生まれながらのもので、今更どうなる物でもない。良し悪しは別にして、地でいくよりほかに方法がない。これは欠点も多いが、時には長所にもなる。早い話が、もし愛染祭りに対して慎重な態度をとっていたら、あの祭りのプロヂュサーをすることなんて及びもしなかったことだ。
一丁やったろうと張り切ったばかりに、1000人の大部隊を動かす事になったのだ。
宝恵籠に愛染娘を乗せて谷町筋を練り歩くなんて、またのまた夢だ。だけどおちょっこちょいが幸いして、此の祭りは全国に放映された。
 今回だってそうだった。見も知らない人に気安く声を掛けるなんて抵抗があって当たり前。だが声を掛けたお陰で、路傍の石になることは免れた。ひょっとしたらこれは僕の長所かも知れない。一人で悦に入る。この辺もおめでたい証拠である。
ところが急に行く手に暗雲が立ちこめてきた。僕が彼女に熱を上げるのはいい。だがもし彼女に熱烈な恋愛中の彼氏がいたらどうなるか、外から進入したおじゃまむし以外
の何物でもない。それこそ彼女は僕を言葉巧みにつまみ出すに違いない。やれやれいやなところに気が回ってしまった。彼と勝負する以前に彼女に捨てられるか。ああ、いやなことだ。なるほど。そんな可能性だって無いとは言えない。 そこで苦しいときの神頼みで神様にお出まし願う。
「神様、世の中とはこんなに厳しい物ですか。これは僕が心配性のせいでしょうか、教えてください。」
神様。「そんな事は直接彼女に聞け」。
「神様、なんとつれない事をおっしゃる。もし聞いて実は、、なんて話になると僕がひっくり返るじゃないですか。此の苦しい胸の内を察してください。神様だったら彼女の事はよくご存じでしょうに。何?人の心は神でも分からないと。それはないでしょう。それじゃ人間と同じじゃないですか。毎晩暑いさなか彼女も胸をはだけて寝ているでしょうが、そのはだけた胸に耳をあてて彼女の胸の内を探ることぐらいは朝飯前の筈です。こんな事僕がやったら痴漢として110番されるのは必定。そこは神様は姿形が見えないと言う特権があるじゃないですか。それをちょっとだけ利用すれば済む話じゃないですか。その代わり年末年始には欠かさずお参りいたします。なにとぞよろしくお願い申し上げます」
とうとう僕は彼女のことについて神様まで動員することになった。
さあこれから先此のラブ・ストーリーはどんな展開を見せるのだろうか


421号室0

2014年05月11日 | Weblog
421号室
     
話はバンコクの中央駅の西の、ごみごみした所にあるkホテルの421号室のことである。ここのホテルで殺人事件があったらしいという噂が流れたことがある。
 なんでも金を持ち逃げした犯人が見つかって、ここにつれてこられて、リンチを受け死亡したという話で、それから3ヶ月ほど、此の部屋は開かずの部屋だったとか。

 彼はソウルから乗り込んできて、飛行機の中では、僕のひとつ前の席に座った。
日本人のよしみで、気安く、お互いに話を交わしたが、彼はドンムアン空港に着くなり、そのまま夜行列車に乗って、ノンカイ迄行くそうである。ノンカイからは川を渡ってラオスに入る。その列車が8時にバンコク空港駅・ドンムアン、出発するのだという。わずか30分ほどしか時間がないのだけれど、トライしてみると張り切っている。
飛行機は7時40分に空港に着いた。大急ぎで、彼と僕は入管のところまで走った。手続きを待っている間に彼は次のような話をした。

 「最近kホテルに泊まったが、噂によると、このホテルで殺人事件があったらしい。なんでも、金を持ち逃げした奴が捕まって、このホテルに連れてこられ、421号室でリンチを受け、殺害されたらしい。
そうとは知らずに彼は、その部屋に泊まった。別段異常も何も感じなかったけれども、あとでそのうわさを聞いて、ぞっとした。
 やはり、値段が安いだけのホテルを探すのは問題がある。小さくとも信頼がおける、なじみの安宿をバンコク市内で探して、決める必要がある。」
と言うような意味のことを彼はいった。これには僕も同感だった。いくらバックパッカーだといっても、何が何でも、安ければいいというものではない。表ざたになって事件になるよりは、闇に葬り去られることの方が多いのかもしれない。
 
つまり、そのような、無法で危険な部分も影として、この大都会は、その中に内蔵しているのである。めったに表面上に浮かんでこない事件なのかもしれないが、ひとり旅の僕は気を付けなくてはと心を引き締めた。しかし具体的にはなんの手だてもなかった。

実はその噂のホテルには、僕は何も知らずに、泊まったことがあった。何か異様な感じがして、目が覚めた。部屋は明かりを消しているので真っ暗だが、見れば廊下の蛍光灯の光が真っ暗な部屋に漏れてくるのであるが、ドアの隙間から漏れてくる明かりが波を打つと言うのか揺れているのである。

以前僕は窓もない囚人部屋のような、ゲストハウスに泊まったことがある。
 普通の所は200バーツほどしているのに、そこはたった70バーツだった。その日はあいにく、どのゲストハウスも満員で、仕方なく、泊まらざるを得なかったのだ。
 結論から先に言えば、そこはダニの巣のような所だった。あちこちかまれて、方々の体で逃げ出した経験がある。あれ以来僕は清潔第一にして宿を探している。例えば毎日必ず掃除はされていて、シーツは洗濯されたものかどうか、風通しはよく、ベッドのシーツは色柄模様や、色つきのものでなく、真っ白な病院のベッドのようなものかどうかなど、チエックポイントにしている。

ところがその部屋で、もしくはそのホテルで殺人事件や自殺があったかどうか、チエックを入れると言う事までは、今まで気が付かなかった。
ホテルで、人が死ぬということはたまにはあることだ。病気の場合もあるし、自殺することもある。
 日本ではよく、ラブホテルが殺人の現場になっている。痴情や物取りのあげくの犯罪である。

確かに、日本と違って警察制度が確立されていても、その機能が不備なために、人口1000万人のこの大都会の場末では、犯罪者が殺されたって
おかしいことではない。
3,
おかしいなとは思ったが、しばらく様子を見るために、体を横にしてその扉を見ると、光はそのままで動かなかった。やっぱり僕の寝ぼけか、勘違いだったのかと思って、寝ようとすると、廊下と扉のすき間から漏れてくる光が、また波を打つ。それはドアの向こう側て懐中電灯を揺しているみたいである。そこで僕はカバっと跳び起きて、急いでドアを開けて、廊下の方を見た。廊下には人は誰もいない。いつものように、天井には蛍光灯がついているだけで、その蛍光灯が、チラチラしているわけではない。蛍光灯は天井でじっといつものように、光を放っている。
外国に来ると、日本では見ないような夢を見ることがあるので、きっと、疲れているのだろうと思って、またベッドの上に寝た。
そして以前と同じように、すき間の光を眺めていると異常はなく、光はじっと漏れてくるだけである。先ほどのように、その漏れてくる光が波うついうことはない。きっと疲れていたのだろう、これは気のせいに違いない。僕はそう思って目をつぶらうとした。

ところがまた漏れてくる光が波打ち出した。気味わるかったが、
その光の揺れを、見ないようにして放っておいて、ぼくは眠ることに専念した。
 何のサインかは知らないが、その光が自分の体にまとわりつくとか、馬乗りになって息苦しくなるとか、そういうことは一切なかった。だが僕はこの経験もだれにも話さなかった。

ところがこの若者の話がきっかけになって、あの夜の不思議な体験を思い出した。
件の部屋が421号室だったかどうかは記憶にないが、いずれにせよ、殺人という犯罪が、その部屋で行われたという事は根も葉もない噂ではない、とぼくは思った。
それから、僕は、そのホテルには一切泊まらない事にした。
 僕の経験と、彼のうわさを付き合わせて考えるならば、どこかで符合しているように思えてならなかったのである。

 ここにもう一つの体験談がある。僕の体験と似たような体験をした人の話である。彼は香港ではかなり高級なホテルに泊まった時に体験したことらしいが、やはり、廊下の蛍光灯がドアのすき間から漏れて、波うったというのである。彼は、気持ち悪くなって、夜が明けると同時に、早速とそのホテルをチェックアウトした。後で聞いてみると太平洋戦争で、香港に進駐した日本軍が、スパイとおぼしき現地人を何百人か殺して埋めてたそうである。つまりそこは刑場であり、墓場だったのだ。その上にこのホテルが建ったということである。観光ブームによって、香港では土地がないために、古いものは全て壊して、そこに新しい、ホテルやビルを建てたらしい。

この話を聞いたときに、ひょっとしたら、僕の泊まったホテルも都市の膨張に従って、もとは墓場だったのかもしれない。あるいは単に彼が言ったように、ひとりの人間が殺害された、その現場だったのかもしれない。
いずれにせよ、旅で疲れた神経を休めるためのホテルが、薄気味悪いようでは話にならない。

あれ以降、僕はできるだけ調べるようにして、安宿を決めることにしている。同じ宿に10回も泊まれば、こういう話しはどこかから聞こえてくるものである。幸いなことに、僕の定宿は今のところそう言う気配も噂もない。眠れないのは、僕が勝手に興奮して、神経を立てているせいだ。



チャオプラヤー

2014年05月10日 | Weblog
チャオプラヤー

バンコクには良く来る。
と言うよりここを起点として東南アジアを1人旅しているのである。熱帯だから熱いが、僕は寒いより暑い方がまだましである。旅をしてよその国に行き一番快適な気温などもとめる方が無理に決まっている。だから少々の暑さは我慢するようにしている。

ひょっとすると輪廻転生するずっと昔は熱帯に住んでいたんだろう。加えて大阪や東京の様に便利であるにも拘わらず物価が安い。ものにもよるが、主食のラーメンはまず十分の一である。60円か70円出せばタイラーメンは食える。マグロの刺身は東京からその日の内にここの持ってくるから高いのは当たり前だ。それでも日本風の食事は日本並だ。米だって日本から持ってくるので、タイ米のようにふっと匂う事はない。書物とかその手の物は日本より高いが、わざわざここまで来て、買わなくても日本で買えばいいことだ。

僕が1番気に入っているのは、エアーチケットが安いことである。日本から、インドへの直行便だったら安くても8,9万円はするが、バンコクでカルカッタ行きの航空券を買うと安さが身にしみる。

カルカッタたったら日本円に直して2万円も出せばおつりがくる。今まで、何回かインドに行ったがいつも6万円台である
カオサン通りで格安チケットを買うのは、間違いなくやすい。

バックパッカーを自認する僕はいかに安く、安全に旅をするかが、誇りである。
そのために神経を使うことはもちろんであるが、情報を集めにも真剣である。
こういう観点からも、カオサンは僕にとっては不可欠のところである。

ボートからは 西日の陰になって、ワットアルンは墨絵の影絵になっていった。
修復のために足場を組まれ、見ることも出ない時もあったが、今朝は優雅な姿を現していた。
特に涼しい風が吹く夕方は、船の1番後ろの甲板に立って、その優しい姿が見えなくなるまで見つめてた。

夕風 が頬を通り過ぎて行くと、ひとり旅の、えもいえぬセンチメンタルな気分が体全身を包み込む。それはノスタルジアてやり、寂しさであり、前進するための力でもある。

後ろに乗ったボートの車掌ともいうべき、青年は 太い綱を持って舟を固定し、乗客の、乗降を助ける。その見事な綱裁きが笛の合図によって船頭と気の合ったところを見せる。
出発、前進、左寄せ、右寄せ、後退など、およそ必要なことは、この笛ひとつで事足りる。笛を使うことによってまるで自分の手足の1部かのごとく上手に操る。

かって、大阪伊丹空港でタイ航空機が機械の故障で、片足が出なくなりあわや、胴体着陸かと心配したことがあったが、まるで、飛行機は水面をすべるかのような見事な着陸を成し遂げた。もちろん事故はなかった。この時タイ人の器用さが大きく報道され、拍手喝采を受けた。ぼくはこのことを、思い出した 。
この、ボートの見事な操船ぶりを見ている、とタイ人の器用さを改めて思い知った

そんなに便利で涼しく、しかも料金ガ安いチャオプラヤーボート・サービス
を知るまでに、3、4年かかった。それまでカオサンに行くには、いつもタクシーを使っていた。

バンコクの道路は、ものすごい渋滞が起こる。眼と鼻のところであっても、この渋滞に巻き込まれれば、一体いつになったら目的地に着くかわからないし、お金がいくらかかるのか、それすらも定かでない。
何回かタクシーを利用して渋滞て、懲りたのでトクトクに変えてみた。これはタクシーよりはましだが、排気ガスをモロに受けて走るので、喉が痛くなる。通るで口をふさいだが、乗った翌日は黄色い、タンが出る 。明らかに、健康に、良くない。

しかしボート・サービスは、特別な場合を除いて排ガスの被害を受けることもなければ、大渋滞に、巻き込まれることもない。

ついでながらこの便利で、快適なボートサービスに、ただ乗りをしたという女の子が現れた。1泊、何万円、もするような、豪華なホテルに泊まりながら、これは1体どうしたことか。落差が大きすぎる。僕は、彼女が、どうしてただ乗りをしたのかということについて興味を持った
彼女が言うには最初から、ただ乗りをする予定ではなくて、どうすれば、よいのかわからなかったので、たまたまお金を払わなかったというだけのことである。そうだろうよ。

ぼくは金額やルール違反のことではなくて、今まで聞いたこともない、話だったから、興味を覚えた。
よくやってくれたな、というのが僕の率直な、感想である。不慣れとはいうものの、若いということもあり、また無鉄砲だということも言えるが、話題としては彼女はおもしろいは話題を、提供してくれたれた 。
訳もなく今日も僕はこのボートでカオサンに行く。

死刑自動化そんな軽い問題ではない。に反論

2014年05月09日 | Weblog
死刑自動化そんな軽い問題ではない。に反論

法律の定めがあるにもかかわらず、法務大臣の思想、信条によって死刑執行が左右されて、現在死刑確定犯の未執行者が100人にも及んでいる現状をどうするのかという問題提起である。

私の意見としては法の定めにのっとって、大臣は法にのっとって執行の手続きをするのが仕事であるである。自分の思想信条によって手続きを行わないのは、明らかに職務怠慢で、その結果生まれた。

100人を超える未執行者を放置していいのか

法律の執行が大臣の思想や信条によって妨げられている現状を打開するために、大臣の関与をさける方法として自動化も一つも方法ではあるまいかという問題提起である

そこに焦点を合わせることなく

自動化のやり方が非現実的であるとか、時代に逆行しているかの批判してみたところで、それはまったくピント外れの議論である。

論点の焦点がずれている。

改めて聞きたい。君は現在法律を改正しようということなのか。それとも法律違反の現状が良いとでも思っているのか。

こういう未執行の問題提起に対して、また別の解決方法があるとすれば、それは新しい提案として発表してもらいたい、。


聖徳太子賛歌

2014年05月08日 | Weblog
聖徳太子賛歌
 
 1934年、弘法大師の1100年祭には山田耕作、北原白秋先生がコンビを組んで、弘法大師讃歌を奉納された。五十年遅れて、1150年祭(1984年)には、私が同じく弘法大師讃歌を奉納させていただいた。また、1990年西大寺中興の祖、叡尊上人、興正菩薩の700年大遠忌には、讃歌-興正菩薩-を作り、本堂に合唱団をいれて、音楽法要をさせていただいた。
 そして、この度、聖徳太子1400年祭には、またまた聖徳太子讃歌を奉納させていただける幸運に恵まれた。そのどれを取っても私の生涯に記念すべきことには違いないが、とりわけ、この度の1400年祭は私にとっては意義深いものである。
 
 もしあのときに、聖徳太子が日本に仏教を招来され、定着させる努力を命がけでされなかったとしたら、今の日本はどうなっていただろうか。勿論、我が国の仏教文化や日常生活の隅ずみまで入り込んだ仏教思想は、現在のような形ではあり得ないだろうし、日本が世界に誇り得る精神文化は何も無かったのではあるまいか。そういう意味からも、聖徳太子のお陰で、今日の日本文化があると言っても、決して過言では無いだろう。
そしてこのことは、仏教を信仰するか、しないかという以前の問題である。
 
 1400年あまりの昔、聖徳太子が祟仏、排仏の戦に勝利を治めて、仏教を受容され、自らも帰依するだけでなく、仏典を注釈されたり、仏教思想にもとずいて、政治を行はれたが、それは我が国や人々の将来の在り方を、明示されたものであると私は受け止めている。
 あれ以来、聖徳太子の精神は日本国民の心の中に生きついているし、また文物は国宝という形で、今も残っているものが多い。振り返って見ると、聖徳太子はやはり偉大な教主である、と思うのは決して私一人ではない筈である。
 世に千載一遇という言葉がある。私は齢50余にして、かの大聖人の1400年祭を迎える事ができた。この1400年祭が30年前に来ていたら、私は先述のような聖徳太子理解のうえにたって、作品を作る事はとてもできなかったろう。というのは若すぎて、現在のような理解ができていないだろうし、また、逆に30年後に迎えるとしたら、もうこの世にいるか、どうかも定かでないし、今ほどの気力があるかどうか、怪しいものである。
 
 時は今である。私にとっては絶好のタイミングである。熟年にさしかかっている今こそ、人生の甘いも酸いも、広がりも奥行きも、分かりかけている今こそ、聖徳太子の偉業も恩徳もよく理解できるのである。それだけに作品への思い入れも、また格別のような気がする。
 こんな時に1400年祭に巡り会えるという事は千載一遇のチャンスといはずして、何と言えばよいのであろうか。私はただひたすらに、讃仰や感謝の気持ちを精一杯作品のなかに込めさせていただくのみである。そしてこの作品は私の生涯で忘れる事のできないものであることは、言うまでもない。
過去の人類の歴史は、闘争の歴史でもある。少規模ではあるが、現在も延々と続く戦争が、どれほど人類を苦しめてきたことか。今こそ我々は和の精神に立ち返って、万民豊楽をこの地上に、実現しなければならない。いや、和の精神こそは人類だけにとどまらず、この地上に存在するあらゆるもの、あらゆる生命の平和共存を説いた崇高な哲学だと私は理解している。
 諸々の事情の下で、今なお地球上の生命が脅かされているが、それは和の精神の欠如にほかならない。例えば地球環境汚染問題も、ボスニァの民族紛争も、カンボジァの権力闘争も、おおよそ、みな和の精神から掛け離れているところから生じる悲劇である。
 
 思うに、もし聖徳太子の和の精神、即ち共生きの哲学を、人々みんなが理解して、一致協力して実践したならば、現代の悲劇は起こりえないのでは無かろうか。1400年前、既に日本にはこういう共生きの哲学を説いた人がいたということは、日本だけでは無く、まさしく世界人類の誇りでもあろう。
 
 その偉大な教主・聖徳太子が摂政になられて、今年は1400年の記念すべき年である。幸運に巡り合わせて、図らずも、私は聖徳太子への熱い想いを、詩と曲に託すチャンスに恵まれた。それを皆様方と御一緒に、唱和させていただいきながら、共に喜び、天を仰ぎ地に伏して、聖徳太子の恩徳を讃え感謝申し上げるのが、私にとって1400年祭の意味である。
世界中のあらゆる人々の想いが、一つになって、聖徳太子讃仰の歌声となり世界中にこだましてほしい。
 と同時に、人々の想いがあらゆる生命は同胞であり、兄弟であり、それはまた共生きである、という和の哲学に収斂して、この地球上のあらゆる生命の平和共存が実現することを願って止まない次第である。
                  1993年10月20日                  







本当のこと

2014年05月07日 | Weblog
本当のこと

政治家に、巷の倫理や道徳を求めるのは、八百屋で魚を求めようとするようなものだ。と現職の法務大臣が言うのを聞いて、なるほど。うまいことをいったものだと感心した。

もう少しかみ砕いてわかりやすく言えば、要するに政治家とは胡散臭いことをする輩からだから、後ろでは、汚れたカネをめぐって取り引きを、日常茶飯事的に行うもので、そのことは大多数の国会議員の実体だから、別に、田中角栄容疑者一人を悪者にまつり上げて騒ぎ立てる事はない。
第一まだ一審であり、有罪が確定したわけではない。三審制の日本では、上級審で、どんな逆転劇が、起こるかも分からないから。

そして国民も国民ではないか。決して政治家のモラルだけがとわれているのではない。政治家を通してのたかりの構造において、庶民も、がっちり結びついているではないか。それならば、いったい誰が、田中容疑者のみを悪玉に仕立て上げる権利があるのか、彼が言いたい事はまぁ、こういうことだろう。

 しかるに日本は法治国家である。たとえどのような理屈をつけようもと司法の判断と、裁きには従う必要がある。その法の裁きの万人の長たる法務大臣が、我々が抱いているイメージとはかけ離れた政治家の実態を経験上から語ったのである。
 そして一審で有罪判決を受けた刑事被告人を暗にかばうような発言をした。当然のことながらはこの発言に、同調しない連中はこぞって抗議姿勢をむき出しにした。
つらつら考えるに、おおよそ、人間とは、スケールの違いがあるものの、だいたいこんなものであろうという。現実的理解を持って眺めると、きれいだとは思わないが、何かわかったような気がする。しかし法意識を頭の上にしっかりすえて、この問題を考えてみると、やはり法務大臣の立場にある人の発言としてはふさわしくない。ある程度そうであろうと推定できるから実態としては、納得できても、むきだしにされると、抵抗感があるから、人間とは不思議な動物だ。
何事にも例外はある。政治家、の中にも、慣れ染まった人がいないかというとそうでもない。清廉潔白で、天下国家の繁栄を心から願い万民の幸福に少なからず、貢献しておられる人種が、数こそ少ないがおられるはず。これら少数の清廉な人種がこんどの問題をどう眺めているのだろうか。



黒田勘兵衛 メモ

2014年05月06日 | Weblog
黒田勘兵衛 メモ

四国攻め 北条攻め 恩賞なし 氏政説得秀吉と和睦 北条から恩賞
 北条から国宝の刀もらう

秀吉の猜疑心 恩賞なし

余生
1、二度と主君に仕えぬ

2、息子長政領地の中に小さな家 妻一人側室おかず 福岡市中央区に墓 石垣跡 五輪塔

3、59歳死

4、偉大なるオンリーワン
「人にこびず富貴のぞまず 自分らしい生き方 表舞台に出ない」 5、「おもいおく 言の葉なくて ついにいく 道はまよわじ なるに任せて」

6、秀吉に天下を取らせた男

7、評価
 信長 おそるべし
 秀吉 はかりごと凡人のおよぶところにあらづ
 家康  今の世に古の道をゆくは勘兵衛ただ一人
 からおそれられた 手放しでほめる

8、、意表をつく 大胆高松城 水攻め 官兵衛の策
毛利に捕らえられ1年幽閉   信長が 裏切り者官兵衛生 の息子を殺せ 秀吉かくまう

秀吉 次の天下人は 前田 徳川にあらず 黒田である

若山牧水0

2014年05月05日 | Weblog
若山牧水

若山牧水の生家

今日初めて若山牧水の成果を訪ねた。宮崎県東郷町坪谷が彼の生まれたところで、生家はそのまま保存されている。
生家の隣は牧水記念館になっている。二階建てで二階にはインクの跡もくっきりと生々しい直筆の原稿や、当時の雑誌などが陳列されている。有名な作品も無名な作品もある。こんこんと湧いてくる歌心を抱えながら彼はこの山河で歌心を育む。

尾鈴

日向の山で尾鈴はつとに有名である。個性的というよりは優しい感じがするが、山は西を最高峰として東に向かってなだらかな稜線をなしている。その尾鈴の北側のふもとに若山牧水の生家がある。

抒情性

あたかも尾鈴山の持つ優しさを、地でいくかのごとく、若山牧水は抒情あふれる作品をたくさん残して43歳で世を去った。
旅好きという性質だったのか、それとも人生は旅という哲学に殉ずるため、はたまた旅は彼の仕事場だったのか、
方々を巡りながら自然な人情にから沸き起こる感興を得たという形をとって、その中に閉じ込めるのを唯一の生き甲斐として生涯を送ったのか。

彼の生家の前を流れる坪谷川のせせらぎは年がら年中変わることのない清流の美しさを奏で続けたことだろう。そしてそのせせらぎは今もなお私に語りかける。

幾山河越えさり行かば 寂しさの はてなむ国ぞ 今日も旅ゆく

旅は独りがいい。酒の上のことに限らず、なにかにつけて独りがいい。深い山などにさしかかったときの案内人すらいらないとう気持ちで私は孤独の旅を好む。

つくづく寂しく、苦しく、厭わしく思うときがある。何の因果でこんなところまでてくてく出かけてきたのだろう、と我ながら恨めしく思わるるときがある
私の最も旅を思う時期はモミジがそろそろ散り出すころである。
枯野の中を行ながら遠く望む高嶺の雪、これも拝みたい気持ちである。

わらじを履きマントを被った彼の旅姿の等身大の写真が記念館に、パネルで飾られている。一方彼が旅したところが日本地図のみならず朝鮮半島にも足跡を残している。それを見ると日本列島は表も裏も、全国津々浦々を巡り歩き、言葉の不便もあったように朝鮮にも足を延ばしている。
車や飛行機のない時代、わらじがけの足を頼りに強烈な意志と旅への憧れがないと、これほど壮大な旅はできるものではない。
雨の日も一の日も晴れた日も、体調の良い時も悪いときも、自分が晴ればれとしたときも、沈んだときも、孤独と酒を友として、黙々と旅をして、黙々と作品づくりに励んだ彼の姿が目に浮かぶ。
旅がいいというのは一般論で、生涯歩き続けるというのは並大抵のことではない。強烈な意思と個性の持ち主だったことがうかがえる

人生は旅
人生はよく旅にたとえられる。もし時の流れを、足の歩みと考えるならば、確かに野を越え、山を越え谷をわたり、辺りをきょろきょろ見まわしながら歩く旅に似て、ときの流れとともに移り変わる我が心を眺めれば人生は時を歩む旅人に相違ない。

古人や先人、西行も芭蕉もよく歩いては自然な人情との出会いによって触発された心境を歌に詠み込んだ。人生を心ゆくまで味わったといったほうがよい。自然は彼らによって飲み込まれ、ときが経つにつれて発酵し作品となって結実し、それがいまなお幾百年の時を経て
人の口に膾炙されて、人の心に潤いをもたらしている。







登山

2014年05月04日 | Weblog
登山

最近は女性の登山者も増えて山ガールという言葉さえ使われるようになった。山登りはたったの1回もしたことがないので、その醍醐味はわからず、端から見ていて、あんなしんどい思いをして山に登って何の喜びがあるのだろうと訝る。 

しかし登山の魅力に取り付かれた人には、命をかけてもと言う位、根性の座った人もいるらしい。好きなことに自分の命をかける。それはいいことだ。そんな状態になっている時が人生1番幸せな時だ。
生と死がたとえ紙一重というところにあっても、それはそれでいいのじゃないかな。
僕は登山には興味がないので命の危険を犯してまでやろうたは想わない。
値打ちがあるのかどうか、と山登りを検討する気もない。

浮き世と桜6-38

2014年05月02日 | Weblog

浮き世と桜


桜の花は白ではない、ピンクでもない、淡泊なピンク色に、かすかに紅の混ざった白い花である
日本人が最も愛でる花に桜がある。冬から春へ気節の変わり目であり、新年度の始まり、若人が期待に胸をふくらまして人生の新しい旅立ちをする季節の花でもある。

今年は急に暖かくなった。3月だというのに、関東でも5月上旬の 陽気らしい。
ここ一週間は関西も同じで桜の花は温かさに合わせているかのように急に開花しだした。
観光客つまりは花をあてこんでいた花見ツアー客は予定通り行うと花は散ってしまっているというので、旅行会社はあわてて日を早めているとテレビは報じた。
 通例桜前線は南から始まって北上し、東北、北海道で終わるのが通例だが、今年は少なくとも関東以西は同じような暖かい気候が続いたから、関西関東の地域差はなく、いっぺんに咲いた。これではきっと関東人は面くらったことだろう。
今年の桜は予定よりも一週間も早く咲いた。そして花見客が面食らった。早咲きに加えて春1番の嵐が吹いたからだ。満開の桜に向かって‐台風なみの強風が吹いた。関東地方では28メーターも吹いたくらしい。関西でも20メーターをこした。

日本人は国民性として淡泊なものが好きで、濃いものよりは薄いものに好感を寄せる。またこの花の散り方、パットさいてパット散る、往生際の良さは、潔い良いものの代表格であるが、その往生際の良さに日本人は共感する。昔からはかなく散る桜を日本人はこよなく愛した。それは歴史的な事情として、武士道の精神に沿うと言う事情もあるのだろう。

散ればこそいとど桜はめでたけれ
うきよになにかひさしかるべし      伊勢物語

ひっさかたの光のどけけきはるのひに
しづこころ無く花のちるらむ       百人一首
古くから詠まれたた歌によると、桜の花ははかないものである。そのうちにと思っていると夜の嵐が来て朝にはきれいに散ってしまうから。というのがある。この歌は人生すべてに通じるものがある。
ものには皆タイミングというものがあって、これを外すと結果はよくない。できることは何でも早く済ましておかないと何が起こるか知れたものじゃないのが人生である。
今は何事にも限らずその場その場で次のことなどを考えず、飲めよ、謡えよ
一寸先は闇として、その日その日をおもしろおかしく暮らすのが浮き世である。(浮き世物語)
というのは享楽が全面に出て抵抗感がないわけではないが、人生の一面をついている。
こういう現世享楽的な考え方も、桜花の散りようをを人生になぞらえるならば一つの賢い生き方かも知れない。



















母恋慕情

2014年05月01日 | Weblog

母恋慕情

10日ほど前に、孫が生まれた。今我が家で24時間勤務をして赤子の世話をしている。それを見るにつけ、子供にとって母は不可欠の存在だと思った。
両親が子供にとって不可欠であることには変わりがないが、とりわけ母親というものは何があっても子供のそばにいてほしいもんである。中には鬼のような母親も新聞で見かけたりはするが、それは例外中の例外であって母親の子供に対する思い、と子供の母親に対する思いは人間の思いの中では強烈なものである。
秋も深まった、高野山でこの記念碑の文章に目をやったとき立ち止まって、しばらく動けなかった。
幸いなことに、母は僕が五七歳になるまでこの世にいてくれた。

子を持つ親になり、孫を持つ年頃になってつらつら振りかえるに、子供を育てる母の苦労がいたいほど分かる。その苦労は何時の時代でも、親から子へ,子から孫へとうけ継がれていくもだと文字で書けばこうなるが、長い時間,子供の成育についてかかわりを持つ母親の苦労が如何なる者か、実感できた。自分の子育てにかかわってその大変さが身にしみてわかった。

そのように大切な母を幼いじぶんに無くして、母を恋い慕いながら大人に成った人の母への思い、母なるものへの慕情は如何ばかりであろうか。幼いときには母のいない事実は子供の心に大きな傷を残す。与えられることの無い母の愛。それだけに募る母への慕情、母への思慕の情。再びこの世に帰らない旅に出た母、そして別れたきり再び戻ってこなかった母。