読書の秋なので、珍しく外国の小説を読んでみた。(日本のもあんまり小説は読まない
のだけれど)海外物は翻訳に頼る事となり、翻訳された表現がなかなか咀嚼でき
ないというか、まあーピンとこないという方が正解だ。
なぜ「城」を読もうという気になったかというと、産経の書評にカフカの写真入りで
紹介されていたからだ。その写真はプラハのユダヤ人街に行った時に、あちら
こちらで飾られていた写真だ。今までカフカと言うと、「変身」しか読んだ事は無かった。
この「城」はカフカ作品で一番長編だそうだ。
カフカは準役人のような仕事をしながら小説を書いていたらしい。何部か長編はあるのだが
どれも未完だそうだ。この「城」も未完だったのだが、最近終わりの部分の原稿が見つかった
新聞で読んだ。しかしそれもカフカが本当に書いたものかは、断定できないらしい。
この「城」のあらすじは、Kという主人公がある地方の「城」から測量士として雇われ
その地で働く為に「城」迄赴くのだが、その「城」にどうしても辿り着けない。
雪の中、彷徨って夜遅くなり安宿やに宿泊し村の人々と出会う事になり、そこから
城に関しての情報を聞く。様々な人との出会いがあり、「城」に入るには手続きが
煩雑な事をしる。(この村には、どうでもよい手続きや約束事で溢れているのだ)
時だけ、過ぎるが、一向にKは「城」の正確な位置すら知ることもできない。
感想・・・読むのに本当に苦労した。遅々として物語が進展しないどころか、堂々巡り
なのだ。ハリーポッターなどもそうだったが、最初は飽きそうになっても俄然、興味ある
シーンへと展開するものなので、(歌舞伎なども長芝居は途中で必ず、寝るがあの
拍子木の音でびっくりして目覚めるのと同じ)この小説もそれを期待したが最後まで
何も起こらなかった。
が、つまらないのかと言われれば真逆で非常に興味ある作品ではある。
この作品には「実在」が感じられないのだ。胡蝶之夢のようだ。
第一、Kがこの村の宿屋または路上で出会った人々はKが声を発しなければ
実在の人間と認識できたのであろうか?言葉を交わしてさへ存在が希薄の
ように思われる。村の人々はまるで魂の無いロボットのようだ。だが「城」への
畏怖は異様に強い。が、誰も実際には城の事は知らないし、場所さえ知らないのでは
ないだろうか。村の高級宿屋に泊るという高級官僚や他の場所でも彼らを目にすると言うが
誰もそれが本当に彼らかの確信も無いというのだから。
Kが職の手続きをしようと思っても手続きの為の手続きがいる始末で、最終的に
城に出向かなくてはならないのだが、城に出向かわなくてはKの存在も証明されない
が、その城にはたどり着けないというなんという矛盾。
出会う人それぞれが、真っ当な理屈を言う。しかしどれもKの存在が無いかの様な
またはKのアイディンティティーを否定するかのような理屈ばかりだ。
それでもKは諦めず、前向きに方法を探そうとしている。
そこで私は思う。カフカと言う作家はユダヤ人だったのだなと。プラハでシナゴーグや
ユダヤ人墓地を見学しあの閉ざされた空間の中で、ユダヤ人以外からは同じ空間で
生活しているにも関わらず、その実在を証明する機会を与えられなかったのだろう。
また、証明される機会が訪れたとしても、何の為の手続きかもわからないような
国の機関や仕組みに阻まれ、結局は断念せねばならない事が多すぎたのだろう。
この作品の初めの部分にでてくる、この文が切なく心に響く。
「Kが今日中にも辿り着こうとおもっていたかなたの城が、すでに不思議に暗くなり
ふたたび遠ざかって行った。それでもしばしの別れの合図は送ってやるぞとでもいわん
ばかりに、城の方から喜ばしげな鐘の音がひびいてきた。すくなくとも一瞬のあいだ
その響きに胸がしめつけられる思いがしたーーーーーひたすら憧れながら
かなえられるかどうかおぼつかないものにおどかされているような気持だった。」
後記*カミュの「シーシュポスの神話」を読んで、この「城」の大変なヒントになったので
ここも併せてお読みください。