野村克也さんーその2

2020-02-12 16:18:27 | 日記

 今日の朝刊に野村克也さんの死去のニュースがトップで掲載されている。天使人語でも取り上げられている。人語の作者はよく記憶されているようで「壁ぐらいには使えるだろう」として南海ホークスの球団が採用したのが始まりだった。確か野村さんがこのことを述懐しておられたのを記憶している。壁とは投手の練習用のキャッチャーのことで正式なベンチ入りの選手ではないのであった。

 当時の南海ホークスの野球はテレビ中継がほとんどなくてというよりもパ・リーグがセ・リーグに比べて人気がなくて野球といえば王・長嶋のいる巨人といわれ巨人の試合はどこに行っても球場の席は大入り満員だったが、南海の地元あの狭いすり鉢状の大阪球場でさえガラガラ状態だった。セ・リーグの甲子園球場も同様で相手の対戦が巨人戦のみ球場が観客で埋まった。巨人は強い素晴らしい球団で球界の盟主として君臨していた。現在でもその名残かどうか選手人生の最期は巨人で終わりたいという選手も多いのではないだろうか。これから野球人生に進もうとする若者がいちばん憧れ希望する球団はやはり巨人であった。優秀な人材が巨人に集まり過ぎるということでこの弊害を改めようとしてドラフト制が採用され今では公平に各球団に行き渡るようになった。

 あのガラガラ観覧席での試合が多かった野村さんの選手時代、セ・リーグの巨人はどこに行っても大歓声のまさに野球選手の華である大入り満員の球場での試合ばかりで野村さんもきっとこのような試合で勝負したかったに違いない。それがあの「王・長嶋はひまわりで私は月見草」という言葉が生まれたのだと思う。名選手必ずしも名監督ならずといわれたが野村さんは名選手と名監督の両方の華を手にされた。指導者としての人気は王長嶋に勝るとも劣らずではなかったか。ただ惜しむらくは84歳というまだまだこれからという時に旅立ったのは残念のひと言と私は思う。