映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

ラブ・アクチュアリー 4Kデジタルリマスター(2024年)

2024-12-30 | 【ら】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv86946/


以下、公式HPからあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 クリスマスが近づく冬のロンドン。人々は幸せなクリスマスを迎えるために淡い期待を抱いている。

 秘書ナタリーに恋をした英国首相デビッド(ヒュー・グラント)、義理の息子サムとの関係に悩む父親ダニエル(リーアム・ニーソン)、新進画家のマークは親友と結婚したジュリエット(キーラ・ナイトレイ)に密かな恋心を抱き、傷心の作家ジェイミー(コリン・ファース)は言葉が通じないポルトガル人のメイドに惹かれていく。

 夫ハリー(アラン・リックマン)の浮気に気付きながらも何事もないかのように振る舞う妻カレン(エマ・トンプソン)、新曲のクリスマスソングに起死回生を賭ける元ロックスタービリー(ビル・ナイ)――。

 聖なる夜に起きる様々な人々の奇跡のような”愛”についての物語。

=====ここまで。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 クリスマス映画の代名詞にもなっている感のある本作ですが、公開は2004年と、思ったより最近ですね。私の中では、90年代の映画という印象でした。……いや、「フォー・ウェディング」とごっちゃになっているだけかも、、、。

 そんなわけで、ほとんど初見みたいなもんだったのですが、このほどリバイバル上映されたデジタルリマスター版を初めてスクリーンで見ました。


◆数で勝負の“坂系アイドル”的映画。

 本作はたくさん(wikiによれば9コor10コ)のエピソードが同時並行で描かれている。で、1コずつのエピをよく見ると、正直言って陳腐でダサいんだが、これを手際よく捌いているところが素晴らしい。というか、本作の見るべきところは、ほとんどこの1点に尽きる。

 人気俳優を贅沢に配し、クリスマスというこれ以上ないスパイスを舞台設定に加え、さらに小洒落た演出でもって見せることで、普通の素材でも、それっぽいお店でそれっぽく盛り付けられて出されると美味しく感じる料理と同じなんじゃないかね。

 見終わった後、とりあえずは楽しい気分になれるわけだから、それでこの映画の制作目的は達せられている。

 陳腐でダサいなんて!と本作をお好きな方に怒られそうだが、不倫・浮気、親友の恋人に片想い、友情から恋愛へ発展、一目惚れ、、、等々、どれも恋愛モノのとしては手垢の付いたネタばかりで、もう、海千山千の世代には通用しないんだな、これらは。

 中でもサイアクだったのは、キーラ演ずるジュリエットとマークのエピ。ジュリエットはマークの親友の新妻なんだが、実は、マークは親友の恋人ジュリエットをずっと想っていた、、、っての。いや、それだけならまだ良かったんだが、イヴの夜にマークは、(クサ過ぎる)愛の文句を書き連ねたフリップを何枚も用意してきて、玄関先でジュリエットにそれを見せて想いを打ち明けるという、小学生みたいなオチにKOされて30秒くらい気持ち悪くなりました。

 よくこんな恥ずかしいシーン考えたよなぁ、、、。前振りでシナリオを褒めたのにアレだけど、このシーンだけはどうにもこうにもいただけない。


◆本当にそこに愛はあるのか!?

 凡エピ乱立の中で、良かったエピは2つ。

 1つは、ビル・ナイ演ずる冴えないロック歌手が、ヘンな歌を歌ってそれがヒットしてしまい、長年ぶっ飛びキャラの彼を支えて来たマネージャーとの友情を確認し合うというもの。ビル・ナイのKYで人を喰った様なキャラが、役のビリー・マックというキャラに実に合っていた。あの下手くそな歌も面白かったし。

 もう1つは、ローラ・リニー演ずるサラと、サラがひそかに思いを寄せていたイケメン・カールとの恋物語。カールもサラのことを好きで、2人はようやく結ばれる!というときに、それをぶち壊す出来事が、、、。

 サラには精神疾患を持つ弟がいて、その弟から度々時間も場所もお構いなしに電話がかかって来るのだ。サラはどうしてもそれを無視できない。ベッドインして2度も邪魔されたら、そら、もうそんな気分じゃなくなるよね、お互いに。

 私は本作を見る前に、前回の記事に書いた「どうすればよかったか?」を見ていたので、余計にそう感じたのかも知れないが、サラには幸せになって欲しかった。あの時は雰囲気ぶち壊しでダメになっても、カールも本当にサラが好きなら、そんなサラと上手く付き合っていく方法を探って欲しかった。

 だから、あのままサラが弟とハグしてイヴを過ごしてハッピー♪みたいなエピの終い方にはガッカリだった。ああいう人こそ、弟の姉としてではなく、一人の女性としての幸せを提示する映画にして欲しいよね、“Love Actually”なんてタイトルつけてんだからサ。

 ま、所詮、そういう底の浅い映画なんだから、仕方ないんでしょうけど。


◆アラン・リックマンとか、、、

 底の浅い映画だけど、アメリカ映画のそれみたいに、下品で軽薄ではなく、そこはさすがイギリス映画、皮肉やユーモアも交えていたのは面白かった。特に、アメリカ大統領の描き方は、なかなかエッジが効いていた。ヒュー・グラントの容姿だから印象がソフトになっているだけで、実際の政治家がアレをやったら、高い確率で国際問題になるだろうね。ブレアに対する当てつけもあったのか、、、。

 あと、いろんなお部屋のインテリアがステキだった。特に、首相官邸内。ゴテゴテしていないのに、豪華で品があって知的。そら、首相官邸なんだから当たり前かも知らんが。

 そして、20年前の映画だけあって、皆さん、まだまだお若かった。

 アラン・リックマン、本作の続編が制作されたときには既に亡くなっていて、夫婦を演じたエマ・トンプソンはとても参加できる心境じゃないと辞退したとか。そのエマが脚本を手掛けた「いつか晴れた日に」でのアラン・リックマンがとても素敵だったのを思い出して、何だか哀しかった。声がステキだよなぁ、、、とか。また「いつか晴れた日に」を見てみようかな。

 

 

 

 

 

 

 


コリン演ずるジェイミーは、1年後には離婚していると思う。

 

 

 

 

★★ランキング参加中★★

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どうすればよかったか?(2024年)

2024-12-27 | 【と】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv87526/


以下、上記リンクからあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 面倒見がよく、絵がうまくて優秀、両親の影響から医師を志し、医学部に進学した8歳ちがいの姉(マーちゃん)が、1983年頃、事実とは思えないことを叫び出した。統合失調症が疑われたが、医師で研究者でもある父と母はそれを認めず、精神科の受診から姉を遠ざけた。

 その判断に疑問を感じた弟の藤野知明は、両親に説得を試みるも解決には至らず、わだかまりを抱えながら実家を離れた。映像制作を学んだ藤野は、姉が発症したと思われる日から18年後の2001年から、帰省する度に家族の姿を記録しはじめる。

 一家そろっての外出や食卓の風景にカメラを向けながら両親の話に耳を傾け、姉に声をかけつづけるが、状況はますます悪化。両親は玄関に鎖と南京錠をかけて姉を閉じ込めるようになり……。

=====ここまで。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 公開前からTwitterのTLに情報が流れて来たり、チラシを見たりして、気にはなっていたのだけれど、その内容から、見るのをためらっておりました。でも、ソフト化も配信も予定はないとの公式メッセージがTLに流れて来たのを見て、やはり見に行っておこう、、、と勇気を出して劇場まで足を運びました。

 見終わって、、、見て良かったと実感しました。が、是非ご覧ください!といろんな人に言うのも憚られる、というのが正直なところですね。今回の感想はかなり長くなります、、、悪しからず。


◆答え:「どうしようもなかった」

 本作のタイトル「どうすればよかったか?」への答えはシンプルで「早く医療機関に繋げるべきでした」である。

 ……そんなことは、監督の藤野氏は重々承知なのであって、むしろ、監督の本心としては「どうすれば親を動かすことが出来たのか?」ではないだろうか、、、と感じた。

 両親共に医師で研究者。実は、マーちゃんに最初に大きな症状が現れたとき(マーちゃん24歳、監督は高校生)に救急車で運ばれた病院があるのだが、監督はなぜかその病院に付き添えず(途中で帰宅させられた)、翌日、赴任先から父親が病院へ行き、マーちゃんを連れて帰宅した。父親は言ったそうだ。

 「マーちゃんには全く問題ない(と精神科医は言った)」

 監督は、自身が大学生の頃からマーちゃんが統合失調症であり、早く医療機関に診せるべきだと分かっていた。分かっていたからこそ、あの手この手で両親に働き掛け、自身でも専門家を探した。「お姉さんを診てみよう」と言ってくれる専門家も現れ、マーちゃんを診せる日時も決まった。けれど、約束の日時に現れたのは、マーちゃんではなく、母親だけだった。

 その時の母親の弁が、その後のマーちゃんの未来を暗示していた。

 「お父さんがその先生の書いた論文を読んで、あんな論文を書くような人は信用できないから、マーちゃんを診せるわけにはいかない」(文言は正確ではありません)

 その後も、弟である監督が足掻いて善後策を提示しても、両親が握り潰してしまうのだった。医者を始めとした第三者も、結局は「ご両親の了解がないと、、、」となり、監督は成す術無しなのである。両親は「(マーちゃんは)統合失調症ではない、勉強ばかりさせた両親に対し復讐するため、統合失調症のように振るまっているだけだ」と監督に説明していたという。

 身内に何か深刻な問題が起きた場合、大抵「なぜこんなことに?」「どうしてそうなった?」と理由を探すものだ。根底にあるのは「ウチの子に限って、、、」だろうが、探したところで理由の正解には永遠に辿り着かないし、問題の解決の助けにもならない、、、にもかかわらず、「なぜ?」「どうして?」が堂々巡りになる。

 マーちゃんの両親も、統合失調症という病名を受け入れられない半面、自分たちの育て方に何らかの理由があるのではないかと感じていたのだろう。自身のプライドが高い分だけ、自責の念(というか挫折感といおうか、、、)も強かったはず。だから、マーちゃんが自分たちに「復讐」しているなどという言葉が出てくるのだ。

 「どうすれば親を動かすことが出来たのか?」という問いに対する答えは、「両親の自責の念を少しでも軽くすること」だったのではないか、、、という気がする。マーちゃんを医療に繋げるためには、まずは両親をカウンセリングなどに繋げた方が良かったのかも知れない。

 ……が。その一方で、私はそれがさらに高いハードルであることも分かる。

 レベチの話なので、引き合いに出すのは気が引けるが、私が20代で拒食症になったときに、精神科医に「お母さんと一緒に来てもらった方が良い」と言われたことがあり、それを母親に伝えたら、全身全霊で拒絶された。表情から仕草から動きから、とにかく全身で「止めてよ!冗談じゃない!!巻き込まんといて!!!イヤやわそんなん!!!!何でアタシがそんなん行かんならんの!!!!!」と金切り声を上げて拒絶の強い意思を表した、、、。

 母親の口癖は「家の中のことを絶対に外で喋るな」だった。とにかく、家族に起きたあらゆることを家の中に閉じ込めておく主義の人だった。

 幸い、私は自力で何とか拒食症を脱したが、プライドの高い親は自身の弱みを外に向かってさらけ出すことが、死ぬより怖ろしいのだと思う。カウンセリングや精神科に罹るなど、自身の人生に対する敗北を認めることであり、落伍者の烙印を押されることであり、自分を全否定することだったのではないか。少なくとも私の母親はそうだった。

 だからこそ、マーちゃんの両親も自責の念(挫折感)は強烈だったはずだが、それに向き合おうとしなかった。仮に、監督が両親をカウンセリングに繋げようとしても、上手く行かなかったに違いない。奇跡的にカウンセリングに行ったとして、「親のせいではない」などとカウンセラーに言われようものなら、100%逆切れして終わりだろう。

 なので「どうすれば親を動かすことが出来たのか?」の問いには、「何をしてもダメだったと思う」という絶望的な答え一択のように思う。あの両親の下に生まれたことが、マーちゃんの運命だったのだ。

 どうにもならないことが、人生には、世の中には、ある、、、残念ながら。


◆親は“絶対的権力者”あるいは“独裁者”。

 本作内では描かれていなかったが、マーちゃん自身も、自分が統合失調症であることを認めていなかったとパンフに書かれていた。20代で発症し、国家試験を受けることなく医者になれなかったマーちゃんを、両親は、自宅での研究に参加させ、論文の翻訳をさせていたという。その頃の写真もパンフにはあるが、なぜか(家の中なのに)白衣のようなものを着ており、どこか怯えた様子に見える。

 医学部に入るのに4回挑戦しているというから、3浪したのだろう。それだけでも聞いていてシンドイが、もっと幼い頃から、単身赴任している父親に勉強の経過を報告したり、成績を報告したりさせられていたというエピソードをパンフで読み、いたたまれなくなった。両親の研究に参加させられていたのも、父親の意向が強く働いていたらしい。

 中盤で、監督が母親とだけ話しているシーンがある。監督がマーちゃんを医療に繋げるべきだと言うのに対し、母親は「パパに死ねっちゅうようなもんだよ」と繰り返し言っていた。私には、父親のせいにしているだけにしか聞こえなかった。

 その前後で、自宅玄関ドアの内側ノブにチェーンをグルグル巻きにして南京錠が取り付けられている画が出て来る。マーちゃんが勝手にアメリカまで行ってしまい、NYで保護されるという事件があったからとのこと。(余談だが、その時点で症状はかなり進んでいたはずだが、自宅から空港まで行って飛行機に乗って、、、ということは出来るのか、、、と驚いた。)

 南京錠のついたドアを見て「ああ、家から出さないためなんだな」と感じたが、それは、当然マーちゃんもそう感じたわけで、監督はあるインタビューで「あの南京錠を付けてから、姉はより自閉的になっていった」「病院に行かなかったということと、あの南京錠をかけたというのは同じくらい大事なこと」と語っている。それに続いて、こうも語っている。

 「(姉の)部屋に鍵をかけていたらこれは本当の監禁ですけど。窓から出ていこうとすればできたので、100%の監禁とは言えない。ただ、姉には、家から出るなという両親からの意思表示になる。それを受け、姉は出なかった。だから、南京錠をかける「悪人」のイメージとは違っていたとしても、むしろ「ふつうのひと」が南京錠をかけてしまうのは問題で、伝えないといけないことだと思っています」

 ラストシーンで、母親もマーちゃんも亡き後、監督が父親にマーちゃんのことを問うている。父親は「ママが隠そうとしたからそれに従っただけだ、ママの考えでああなった」という趣旨のことを話していた。

 両親はどちらも、互いのせいにしているのだ。

 南京錠をかけるのは、夫婦のどちらが言い出したのか。聞かされた方は反対しなかったのか。「南京錠つけたらどうだ?」「そうだね」「じゃあ南京錠買ってくるか」「明日買って来るわ」……などという夫婦の会話を想像すると、グロテスクである。これに類する会話が無数にあったと想像できる。

 マーちゃんの葬儀のシーンでは、棺に国家試験の参考書などがいっぱいに入れられていて、私は胸が詰まる思いだった。死してなお、父親はマーちゃんに医師になることを強いているのか、、、。これはもう、虐待を超えた拷問ではないか。

 マーちゃんが自身を統合失調症と認めなかったのは、両親が認めなかったからだ。親の意向を、子は驚くほど敏感に察知する。それは、統合失調症になっていても同じ、あるいはさらに敏感になっていても不思議ではない。

 親とは何なのだ、、、と、私は本作を見ながらずーーーーっと思っていた。やはり、この言葉が浮かぶ。“絶対的権力者”あるいは“独裁者”。逃げられれば良いが、逃げられない子にとってはまさに“アリ地獄”だ。


◆家族のグチは他人に聞いてもらえ!

 両親が高齢になり、母親が認知症でマーちゃんの世話ができなくなったため、父親はマーちゃんを入院させることに同意した。

 3か月の入院を経たマーちゃんは、驚くほど症状が寛解していた。表情も柔らかくなり、あの間断ない瞬きが自然な瞬きになっていて、何より監督との会話が成立していた。まさに“別人のよう”であった。

 結局、その後、マーちゃんは肺がんで亡くなるが、退院してから亡くなるまでの様子は、映像で見る限り穏やかで、笑顔も多く、健康的だった。がんを患っているようには、全く見えなかった。

 前述したように、私の母親は「家の中のことを絶対に外で喋るな」と言ったが、それには「家族同士なら何を言っていても良いが」という前置きがあった。でも、「家族同士なら」はウソで、真意は「親は子に何を言っても良い」であり、「子は親に言ってはいけないことだらけ」=「親に逆らうな」が実態だった。だから、子は家の外で親に言えないこと(親へのグチ)を言うのだが、それが何かの折にバレると、母親の逆鱗に触れて、私は張り倒された。

 、、、これ、書いていて思ったけど、まさに独裁国家だよね。独裁者に逆らうな、外部に向かって国家内で見聞きした問題を喋るな。喋ったら粛清される。

 張り倒された当時は、自分が悪いと思っていたが、大人になって、明らかに母親の言っていることの方がオカシイと思うようになった。

 つまり、親や子のグチなど、他人に話していた方がよっぽど罪が軽い。一時的には恥になるかも知らんが、言葉は悪いが、他人は所詮他人である。関係が死ぬまで続く他人はそうはいない。他人はそこまで自分たちに興味もないし、いずれ忘れる。

 けれど、家族(血縁)は、大抵の場合、死ぬまで関係が続く。家族に対して吐いた毒は、吐かれた者の心に一生残る。決して消えない。どちらが罪が深いか、答えは明白だろう。

 実際、私の母親は、夫(私の父親)の悪口を姉と私に言い、姉の悪口を私に言い、私の悪口を姉に言っていた。父親は、たまに母親のことを母親の目の前で私に罵っていたが、陰で母親の悪口を言うことはなかったし、姉と私が2人で両親の悪口を言い合ったこともほとんどない。そうして、現在、家族がどうなったかと言えば、娘の一人(私)が修復不可能な断絶状態になっている。それは、私が、マーちゃんと違って、親から逃げられる身体であったからで、もし、私も判断能力を失っていたら、恐らく、拒食症からもっと深刻な状態に陥って、自宅軟禁されていたかも知れない。姉は、あの母親の支配下で生きる術を、本能的に身に付けて行ったのだろう。私にはそれが出来なかったから、現在断絶しているというわけだ。

 家族の問題を他人に話すことで、解決の糸口を見つけるのは、むしろ良いことだ。解決の糸口にまで至らなくとも、家族に言ったら死ぬまで禍根を残しかねない毒は、他人に聞いてもらうことで心を軽くできる。それだけで、多少なりとも問題の深刻化を防げる。

 今、家族に問題を抱えている人は、当事者同士で感情をぶつけ合うべきではない。ぶつけたくなったら、誰か心開ける赤の他人に聞いてもらった方が良い。家族の問題を、家の中に閉じ込めるのは絶対に間違っている。

 本作を見て、その思いをますます深くした。

 

 

 

 

 

 


マーちゃんが一人で渡米したのは、両親からの逃亡だったのではないか。

 

 

 

 

★★ランキング参加中★★

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

推し活レポート◆2024.Sep

2024-12-17 | 推し活

◆9月28日 金川真弓&久末航 @世田谷区民会館

 6月に日帰り強行軍で大阪まで金川さんのチャイコを聴きに行って、もう半年経つなんて、、、はやっ! このリサイタルも、3か月も前のこと、、、うぅ、サボっていて遅くなってしまった。

 4月の読響バルトークを一緒に聴きに行った友人も、すっかり金川さんのファンになってくれて、このリサイタルも是非行きたい!と自らチケットをとってくれました。ので、席は離れておりましたが一緒に行きました。

【プログラム】
 W.A.モーツァルト:ヴァイオリンソナタ第18番 ト長調 K.301
 N.パガニーニ:「24のカプリース」から第1番、第10番、第24番
 M.ラヴェル:ツィガーヌ
 オリヴィエ・メシアン:主題と変奏
 C.サン=サーンス:ヴァイオリン・ソナタ第1番 ニ短調

 金川さんはいつもながらの堂々とした弾きっぷりに、一音一音に説得力のある素晴らしい演奏だったのだが、この日の白眉は、そらもう、、、なんつってもツィガーヌだった。もう、鼻血出そうだった、、、。

 ツィガーヌは多くのヴァイオリニストが演奏しているので何人かライブでもCDでも聴いている。さすがラヴェル、ロマの音楽を感じる面白い曲だけど、何というか、あんまし聴いて感動するという曲でもなかったのだよね。でも、この日聴いた金川さんのツィガーヌは、もう、、、何だろう、完全に心を持って行かれてしまった感じ。感動するとかいう安っぽい単語で表したくない(けど、ボキャ貧で適切な表現が浮かばない)。とにかく、終わった瞬間に、マジで鼻血出るんじゃないかと感じたほどにのぼせてしまった。うわぁ、、、、、、、、ぁぁぁ、、、だった。

 あと、サン=サーンスも凄かった。特に3楽章~4楽章。金川さんの演奏は言うまでもないが、今回初めて聴いた久末氏のピアノが素晴らしかった。音がクリアで美しい。4楽章のアレグロ、あのテンポでズレないってのが奇跡的だと思ってしまうが、まあ、それがプロなんだよなぁ、、、。

 アンコールは、リリー・ブーランジェのノクターン、サン=サーンスの白鳥の2曲。何かもう、、、夢のような時間でございました。

 一緒に行った友人は「金川さんてさぁ、、、人生何周目??ってくらい、何か音楽が深いよね」と終わってからため息交じりに言っていて、そうそう、それホントそう、、、と思ったのだった。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 この日は、リサイタルが15時からだったので、普段はほとんどそっち方面に行く機会のない駒場の日本近代文学館で開催されていた「編集者かく戦へり」という企画展を、お昼前に見に行った。

 いやホントに、こっち方面に来ることってゼンゼンないので、京王線の新宿より西方向に乗ったのも何十年振り??ってくらい。井の頭線の駒場東大前駅で降り、閑静な住宅街を歩いて10分ほど。重要文化財(旧前田家本邸)の建つ鬱蒼とした林の中へ分け入り、、、

 

 茂みを抜けた先に、目指す建物があった。

アプローチはいささか味気ない、、、

 

 この階段を上がったところが入口で、あまり人気のない受付でハガキ入りの封筒を入館チケット代わりにいただき、さらに階段を上がって展示室へ。

 

左:ハガキ入りの封筒/右:チラシ裏面

 

 ……まあ、編集者の端くれとして、小説家と編集者の手紙のやり取りというのを一度見てみたい、小説家の直筆の手紙を見てみたい、という好奇心で行ったのだけど、思ったよりはマトモな文面(一応、挨拶とか普通に書いてあった)に、むしろ意外だった。もっと、編集者を詰ったり泣き落としにかかったり、、、なーんてのもあるのかしらん、という覗き趣味は見事に裏切られたのであった、、、ごーん。

 宮尾登美子のお断りの手紙(何のお断りだったか忘れた、、、)とかも、内容は単刀直入でありながら文面は婉曲という、宮尾小説まんまなお手紙だった。

 驚いたのは、吉村昭の字! あの緻密かつ骨太なノンフィクション小説を書いた人とは思えないチマチマした小さな文字。えーーーっ、と心の中の声が、、、。

 あと、手紙の差出先で、あの坂本龍一の父親、坂本一亀宛が複数の作家のものとして展示されていた。さすが名物編集者。

 中上健次はかなりの悪筆。まあでも、今回の展示にはなかったけど、石原慎太郎の悪筆に比べれば、誰の字でも美文字に見えるわ。石原慎太郎は、口も悪くて何言ってんだか、、、って感じだったが、その字はそもそも読めないもんな。

 編集者と作家なんて因果な関係だろうから、もっとドロドロした書簡が見られるかと思ったんだけど、割とフツーやったな、、、と。特別、編集者として学びと感じることはなかったかな。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 で、駒場東大前から、世田谷区民会館のある世田谷線の松陰神社前までは、京王線で下高井戸まで行って世田谷線に乗り換え。世田谷線って、、、もしかして初めて乗ったかも??

松陰神社前駅。カワイイ

 

 松陰神社前で友人と14時頃待ち合わせて、駅から5分くらいのところにあるiri coffee roastery というオサレなカフェ、、というかコーヒー屋さんへ。

 

 コーヒー、美味しかったっす。プリンも、私の好きな固めので甘さ控えめ、goo。友人のダンナのグチを聞いて、いざリサイタルへ。

 世田谷区民会館は、9月にリニューアルしたばかりで、そのこけら落しとして、このリサイタルが行われたのでありました。

 

 

さすが新しくてキレイ。ホールの音もなかなか良かった♪(上右:ホールの画像はお借りしました)

 

 面白い企画展示に、友人との楽しいおしゃべりに、金川さんの素晴らしい演奏に、、、あー、楽しかった!

 今年の推し活レポートはこれが最後です。来年も通うぞ~♪

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山逢いのホテルで(2023年)

2024-12-15 | 【や】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv87168/


以下、公式HPからあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 スイスアルプスをのぞむ小さな町で、障がいのある息子をひとり育てる仕立て屋のクローディーヌ(ジャンヌ・バリバール)。毎週火曜日、彼女は山間のリゾートホテルで一人旅の男性客を選んでは、その場限りのアヴァンチュールを楽しむ、もう一つの顔を持っている。

 そんな中現れたある男性との出逢いが、彼女の日常を大きく揺さぶることになる。もう恋を追いかけることなど想像もしなかったクローディーヌは、再び女として目覚めようとしていた……。

=====ここまで。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 チラシを見て、ちょっといいかも、、、? とよく見たら、主演がジャンヌ・バリバールで。彼女、ちょっと苦手なのでどうしようかな、、、と思ったけれど、やはり劇場まで行ってしまいました。

 サービスデーに見に行ったけど、8割がた空いてました、、、ごーん。


◆これだから男って、、、

 シングルマザーのクローディーヌ。障害のある子を持つ夫婦は、そうでない夫婦よりも離婚率が6倍高い、、、というデータがあるらしい。根拠となる統計数値は見付けられなかったので真偽は分からない、、、が、Twitterを見ていると、そういう書き込みは実に多い。しかも、大抵夫からの申出による離婚。

 私が身につまされたケースは、障害児と健常児のきょうだいを育てている夫婦で、夫から離婚を申し出られたが、この夫が健常児のみの親権を主張し、協議の末、夫の希望通りの結果となって離婚したというもの。お母さんのツイートには「私だってできることなら健常児だけと暮らしたい」という趣旨の文章が長々と書かれていて、偽らざる本音だろうと胸が痛くなった。しかも、健常児は女の子で、障害児は男の子だった。今後成長すれば、女親が体力有り余る障害者の男性を一人で面倒見るのは相当大変だろう。子の成長を考えれば、同性の親子の方が良いのではとなるが、父親の意図が明らかに「障害児育てからの逃亡」に見えて、卑劣に感じたのは私だけじゃないと思う。

 で、本作でのクローディーヌの夫も、詳細は描かれていないが、やはり「逃亡」した模様。なんかもう、序盤からやり切れない思いにさせられた。もちろん、夫が逃げた理由は分からないが、息子が理由の一つであってもゼンゼン不思議ではない。

 夫がいついなくなったのかも不明だが、息子は父親のことをほとんど知らない様子だったので、息子が小さい頃にいなくなったのだろう。

 男には逃げるという選択肢があってイイねぇ、、。母親は逃げられないんだよ。


◆男との情事より高級エステ

 クローディーヌが毎週、見知らぬ男とセックスしに行くのは、性欲を解消するためという側面もあったのかも知らんが、何かこう、、、別の意味があるように見えた。が、それが何なのかは正直なところ、全く分からなかった。バリバールの大胆なベッドシーンを見ながら、頭の中ではあの“東電OL殺人事件”を思い浮かべていた。クローディーヌは売春していたわけではないが、この2人の行動原理は、金銭授受の有無が違うだけじゃないかという印象を受けたのだった。

 各種メディアでの本作の紹介はおおむね、このクローディーヌの行動の背景について「女性の渇き」とか「心と肉体の疼き」とか「女性という性の奥深さ」とか、上記のあらすじにある様に「その場限りのアヴァンチュール」とか書かれていた。多分、これらは当たっているのだろうけど、私は“50代後半の女性が男とのセックスに非日常を求める”という設定が、あんましピンと来ないのだ。理由は主に二つある。

 一つは、自分がクローディーヌとほぼ同年齢なのもあって、見知らぬ中高年オッサンとセックスするなんて考えただけで吐きそうってこと。

 クローディーヌの選ぶ男たちは、ほぼ同年代。50過ぎの人間なんてハッキリ言って、(男女問わず)衛生的にどーなん?? 歯周病やないん?とか、老人斑の出た皮膚とか、加齢臭??とか、、、ウゲゲでしかない。セックスという究極的な肉体の交わりを実行するには、やっぱりお互いの見た目の(美醜ではなく)ある程度の清潔さって必要だろ。……などと思うのは私だけなんかな。もう、キモいんですよ、セックスなんて。

 もう一つは(こっちの方が大きいが)、そもそも、私は40過ぎたあたりから世の男全てにウンザリしたからである。

 つまり、男は全員(程度の差はあれ)「男尊女卑」なのよ。そら、世界中血眼になって探せば、4人か20人くらい(数字に根拠はありません)はそうじゃない男もいるだろうけど、少なくとも私がこれまですれ違っただけのも含めて関わった男たち、父親、友人、同級生、同僚、先輩・後輩、元カレ、現パートナー、その他もろもろぜ~~~んぶモレなく「男尊女卑」。しかも、ほぼ自覚がない。というか思想的デフォルト。

 「女は可愛ければいい」なんてのは論外だけど、「女性を守るべき」とかいう男の発言は、その端的な表れである。若い女性は、こう言われて嬉しく思う(私もそうだった)が、この言葉の裏を返せば、女をナメてるってことである。

 んで、前述のとおり、いざとなると逃げるヤツとかいる。無責任の極み。“男気がある”って言葉があるけど、あれ、ウソだよね。「男気=弱い者が苦しんでいるのを見のがせない気性」らしいけど、だったら、前述したような、障害児育てから逃げる男が多いってのは何なんですかね? それだけじゃない。相手が妊娠したら逃げる男、相手が結婚したいと言ったら逃げる男、、、みんな根っこは同じ。 

 そのくせ、女に自分たちのケアを平気で要求する。生活する上で必要な、出来て当たり前のこと、ちょっとした細々したことが出来ない。最近よく聞く「見えない家事」を夫が出来ずに妻がストレスフルになる、、、なんてのは良い例。“そういうのは女がやるもん”と無意識に思っている。こういう男が出来ないのが家事だけの訳がない。仕事も同じ。要するに“使えない”。

 ……というわけで、そんなクソ男と積極的に交わりに行くクローディーヌの心情に全く寄り添えないのでありました、、、ごーん。

 週一でホテルまで出向いてあのような行動をするには、それなりの費用も掛かるだろう。私が彼女だったら、同じ費用を掛けて、高級エステに行くかな。もちろん、スタッフは女性だけのお店でね。、、、それじゃあ、ドラマにならんのだが。


◆「ギルバート・グレイプ」「ジャンヌ・ディエルマン~」

 中盤、クローディーヌが男との情事の後に眠りこけてしまい、帰宅が遅れる、、、というシーンがある。そのとき、息子は風呂で震えていたのだが、これを見て、「ギルバート・グレイプ」を思い浮かべた人は多いのでは?

 また、クローディーヌのキチンとした日常と男たちとの情事との対照性から、「ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地」を思い浮かべた人も多いだろう。

 ジャンヌは売春だったし、クローディーヌが男との情事に求めていたものとはかなり意味が違う気がする。2人とも、ルーティンが狂ってしまうのは同じだが、結末も大分違う。

 ジャンヌが売春していたことに対し、私は、前述のような“クソ男云々”は感じなかったのだが、それは、ジャンヌがほとんど“お仕事”として売春していたからだった。生活の足しのために淡々とこなしていて、クローディーヌのように非日常を求めている感じは受けなかったからだろう。

 終盤、ルーティンが狂ってしまった情事の相手ミヒャエルと共に南米に行くか、、、というところでクローディーヌは葛藤し、結局、行かなかったのだが、ミヒャエルは3か月の出張だし、別にムリして一緒に行かんでもええやん、、、と身も蓋もない感想を抱いてしまったのだが。だって、3か月なんてあっという間だし、帰って来たらまた会えばいいだけの話でしょ??

 葛藤の末に振り切って、施設の息子に会いにくれば、息子は、とうに母親の自分から自立した姿を見せており、彼女のラストシーンでの慟哭は意味深である。息子が自立したことへの寂しさなのか、ミヒャエルに着いて行かなかったことへの後悔なのか、、、。

 でも、3か月で帰って来るんだから! と、私は嗚咽しているスクリーン内のクローディーヌに心の中で叫んでいたんだけど、、、そういう意味じゃなかったんだろうか、あの彼女の嗚咽は。ちょっと、あのラストシーンは分からなかったなぁ。


◆ジャンヌ・バリバール

 「ランジェ公爵夫人」(2006)を見て、ジャンヌ・バリバールのことはあまり良いイメージを持てなかった。その後も、「幻滅」(2022)や「ボレロ 永遠の旋律」(2023)で彼女を見たが、あまり印象は好転しなかった。

 が、本作で、彼女への苦手意識はかなり払拭された気がする。

 正直なところ、あまり好きなルックスではないのだが、本作での演技は素晴らしかった。剣のある顔だが、声は裏腹に可愛らしくて優しく、本作ではそれが徹底して息子と向き合っているシーンでのみの表現だった。それがまた、彼女の息子への思いとして感じられて、グッとくるものがあった。

 男との情事に向かうときは、どぎついブルーのアイシャドウに真っ赤な口紅の厚化粧で、むしろ老いが強調されていた。で、情事を終えて帰る電車内で化粧を取るのだが、その化粧を取った後の顔の方が何十倍も美しいのである。あれは一種の武装だったのだろう。白いワンピースもどこか安っぽいのだが、明らかに戦闘服だった。山間にヒールの高いブーツを履いて来るのは、やっぱり、非日常を求めに来ているということなんだろうね、、、。

 一度きりの情事で終わらなかった男ミヒャエルを演じたトーマス・サーバッハーは、他の男たちよりは確かにイイ感じだった。、、、けど、まあ、やっぱしオッサンだよなぁ。私にはムリだわ。

 思ったよりボカしの入るベッドシーンが多かったけど、バリバールの演技は下品にならず良かったと思う。

 

 

 

 

 

 

 

ダム湖のほとりのホテル、行ってみたい~。

 

 

 

 

★★ランキング参加中★★

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画鑑賞後のトークショーあれこれ

2024-12-07 | 映画雑感

 今年も残すところあと20日余り。今年はあんまし劇場に行か(け)なかったような気がするのですが、トークショーがあるので敢えてその回目指して見に行ったってのがいくつかありました。

 トークショーは舞台挨拶と違って、出演者がお出ましになるわけじゃない場合が多いので、それほど混まないし、その作品に関連する背景などを知ることが出来るので、割と好きなんですよねぇ。で、印象深かったトークショーレポートを3本ほど。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


◆翻訳家・柴田元幸氏によるP・オースターについてのトーク&朗読 ~「スモーク」(1995年)上映後~@新文芸坐 '24.Jun.29

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv10827/

 

 「スモーク」は大昔に一度見ただけで、ハーヴェイ・カイテルが三脚を使って写真を撮っているシーンが印象に残っているものの内容はあんまし(というかほとんど)覚えていなかった。

 ちょうどこのちょっと前にオースターが亡くなってニュースになっていて、おそらくその兼ね合いでこのトークイベントも企画されたのかと思うが、私は柴田元幸氏の翻訳が好きで、柴田氏のトークを聴きたくて見に行ったのだった。……といっても、オースターは本作の原作である『オーギー・レンのクリスマス・ストーリー』を映画を見た後に読みかけただけなんだけど。

 映画は、、、良かったけど、まあ、あんまし感想をあれこれ書きたくなるような感じではなかったな、やっぱり(だから書いてない)。

 終映後の柴田氏のトークの内容は、主にオースターについて。柴田氏はオースターと個人的にも親しかったとのことで、本作のシナリオもオースターは手掛けているのだが、シナリオを書いたのは本作が初めてで、非常に楽しかったと言っていたとか。

 例の、写真を撮るシーンについては、確か、アウグスト・サンダーというドイツの写真家の撮影した労働者の写真にインスパイアされて描いたものだということだった。このサンダーの写真は、ラシードの偽名を名乗ったトーマスが最初に読んでいた本の表紙なんだとか。

 あと、ウィリアム・ハート演ずる作家ポール・ベンジャミンの部屋が妙にリアルだと思ったのだけど、あれは、オースターが拘って監督に進言したものだというような話もあった(違っていたらすみません。メモが殴り書きなもので、、、)。

 やはりトークは聴いて良かった。特に、最後に原作の一部を朗読されたのだが、それがすごく沁みたのだった。

 読みかけて放ってある原作を読んでみよう!と、帰宅途上では感動していたのに、いまだに果たせておらず。原作本を探してもいない、、、嗚呼。

 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


◆緑魔子氏による映画「盲獣」と増村保造監督についてのトーク ~「盲獣」(1969年)上映後~@国立映画アーカイブ '24.Sep.7

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv22431/

 ご存じ変態映画「盲獣」が、“ぴあフィルムフェスティバル2024”にて増村保造監督特集が組まれて上映されると知り、これは是非見ねば!と。この映画、好きなのだけど、スクリーンで見たことはなかったので。

 しかも、よく見たら、主演の緑魔子のトークショーもあるという。もう行くしかない!! 映画友(彼女は本作をかつてスクリーンで見ているという)も行きたいというので、一緒に魔子様のご尊顔を拝しに馳せ参じた次第。

 まあ、映画はあの凄まじい舞台装置がスクリーンいっぱいに広がり圧巻。今回、ウン十年ぶりに見たのだけど、船越英二ってすごいなぁ、、、とビックリ。千石規子も凄かったし、とにかく、この映画は主要登場人物が3人しかいないのだが、この3人が3人とも狂っていてスゴい。

 で、終映後、魔子様のご登場。今年、80歳とのことだが、お美しい。

 あの女体オブジェについて、スタジオに入ってセットを見た瞬間、「監督はナニ考えてるんだろう?」と思ったと。今にして思うと「監督はあの女体オブジェに押し潰されたかったんじゃないか?」とも言っていて笑ってしまった。すごく弾力のあるオブジェで、走りにくかったと。へぇー。

 監督がシャイだとかという話も面白かったが、一番印象に残ったのは、魔子さんが、口調はおっとり柔らかに「この映画は男の目線で女を撮った男の映画だ」とぶった切っていたことだった。いやもう、、、ホントそれね。自身が演じたアキという女性について、「すごくかわいそう。私は監督みたいに頭も良くなくて普通の感性だから、SMとかフェチとか理解が出来なかった」みたいなことも言っていて、やはり女優が身体を張って演じることの大変さを垣間見た気がした。

 このトークショーは対談形式で、聞き手が増村作品の大ファンだとかいう映画監督だったんだが、ハッキリ言って聞き手としては最悪だった。魔子さんが、本作のオファーを受けたときに「テレンス・スタンプが好きだったので『コレクター』みたいな作品だったらイイなと思って……」みたいな話をされたときも、どうもテレンス・スタンプを知らなかったみたいで受け答えがトンチンカンもいいとこ。魔子さんもちょっと??な感じだったし、聴いている方も白けてしまった。ああいうインタビューはかなりの技術を要するので、人選はもう少し考えた方が良い。ただ映画が好きだとか、同業者だとか、それで務まるもんじゃない。

 トーク終了後は撮影タイムが設けられ、私も頑張って撮影したけど、、、うぅむ。

 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


◆フィリップ・グレーニング監督自身による作品解説 ~「兄弟はロベルトという名でバカ野郎」(2018年)上映後~@アテネ・フランセ文化センター '24.Oct.12

作品情報⇒http://www.athenee.net/culturalcenter/program/gu/groning.html

 

 本作の監督による「大いなる沈黙へ」(2005年)が岩波ホールで公開されていた時に、ちょっと興味があったものの、あまりに長い(160分)し、ほぼセリフのない映像だけの作品だと聞いていたので、躊躇して結局見に行かずに終わったのだけど、その監督のオンライントークがあると知り、聴いてみようかな、、、という軽い気持ちで行ってしまった。

 ……で、正直なところ、かなり退屈だった。映画自体も、ハッキリ言ってめちゃくちゃ観念的な映画で、頭の中で捏ね繰り回しただけのモノという感じだった。後半の胸糞悪い展開などから、ちょっとラース・フォン・トリアーに通じる感じもあり、ハッキリ言って嫌悪感さえ抱いた。

 おまけに、オンラインインタビューは、さらに輪を掛けて観念論に終始していて、なんというか、途中からどーでもええわ、、、という感じにさえなってしまった。

 のだけど、1つだけ印象に残った話があり、それは、本作の前半、草原で兄と妹が寝転ぶようにして話をしているシーンについて、アンドリュー・ワイエスの「クリスティーナの世界」にインスパイアされた、という話。別にこの絵が好きなわけではないが、割と有名な絵だし、このモデルになった女性の話とかを何となくは知っていたので、それが、本作の妹のキャラ設定と若干被り、なるほどね、、、と思ったのだった。

アンドリュー・ワイエス「クリスティーナの世界」(画像お借りしました)

 

 とはいえ、このトークで通訳を務めていたのは日大のドイツ映画専門家(?)の渋谷哲也氏というお方だったのだが(この方は、「戦場のピアニスト」のトークショーでも話を聴いたことがある)、ワイエスのことを知らなかったみたいで、ココでも話が噛み合っていなくて、何となくガッカリだった。

 いずれにしても、いかにして、観念映画を作ったか、、、という観念論を延々聞かされて、めっちゃ疲れたのだった。何が何のメタファーだとかいろいろ話していたけど、ここまで来ると、ただの自己満じゃないの?という感じ。人に見せるということを考えていないわけじゃないみたいなのが、逆に不思議でさえあったわ。

 本作は恐らく劇場公開されないだろうけど、されても見に行かないね、間違いなく。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする