映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

赤い闇 スターリンの冷たい大地で(2019年)

2020-09-02 | 【あ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv71214/

 

以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 1933年、ヒトラーに取材した経験を持つ若き英国人記者ガレス・ジョーンズには、大いなる疑問があった。世界恐慌の嵐が吹き荒れるなか、なぜスターリンが統治するソビエト連邦だけが繁栄しているのか。

 その謎を解くために単身モスクワを訪れたジョーンズは、外国人記者を監視する当局の目をかいくぐり、すべての答えが隠されているウクライナ行きの汽車に乗り込む。やがて凍てつくウクライナの地を踏んだジョーンズが目の当たりにしたのは、想像を絶する悪夢のような光景だった……。

 ジョーンズはいかなる苦難の末に、スターリンの“偽りの繁栄”の実態を暴いたのか。そしてソ連の執拗な妨害工作に阻まれるなか、果たしてその一大スクープを世に知らしめることができるのだろうか。

 巨悪な力に屈せず、正しい道を選ばんとした名もなき人間の実録ドラマが、現代を生きる我々に問い質すものとは ??? ?

=====ここまで。

 

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 ロシアに行ったせいか、ソ連とかロシアものにやたら目が行ってしまう……。これも、チラシで見てから、公開されたら劇場へ行こうと思っていた作品。監督がアグニェシカ・ホランドってのも見たいと思った理由の一つ。『太陽と月に背いて』『ソハの地下水道』と、かなり毛色の違う作品を撮っているけど、どちらも面白かったので。


◆ウクライナに何かある、、、。

 このガレス・ジョーンズという記者は、もちろん実在した人で、ケンブリッジを卒業後に、ロイド・ジョージの外交アドバイザーに命じられた、、、というんだが、大学出たばっかの若造をアドバイザーにするっていうのは、どういう仕組みなんだろう。序盤に、ガレスがロイド・ジョージらが集う会議の席で、ヒトラーについて「アイツはヤバい男だ、危険!」(もちろん、セリフはもっと知的です)とオッサンたち相手に説明するシーンがあるんだけど、若造が故に(?)オッサンたちには鼻で笑われてしまっている。

 どうして、ロイド・ジョージの外交アドバイザーになったのか、、、といういきさつは全く描かれていないので分からない。でもまあ、優秀だったんだろう。いくらヒトラーに直接インタビューしたって、その危険性を早期に見抜けないヤツは一杯いたんだから。現に、ロンドンのお偉方は揃いも揃って一笑に付しているのだし。

 で、ソ連が変だ、、、ということにも気が付いたガレス。ソ連が変なことに気付いていた人は他にもいただろうが、現地に潜入取材してしまうというのは、ガレスくらいだったんだろう。大体、外国人記者はモスクワから出してもらえない、ましてや現地(ウクライナ)になんぞ行かせてもらえないんだからね。ガレスは、監視の目を欺いて、現地の人しか乗らない汽車に乗り換える。

 この汽車の中のシーンが怖ろしい。そこまでガレスが乗って来たのは、食堂車もある豪華列車。賑やかな車内は、内装も色彩豊かで、ガレスは監視者と酒を飲みながら食事をする。監視者がウォツカを飲み過ぎて酔っ払った隙に乗り換えた汽車の中は、灰色一色。壁も座席も、人々の着ている者も、、、色がない。そしてシーンと静まりかえっている。その落差に愕然とする。

 突然乗り込んできたガレスに、現地の人たちは皆一様に不審の目を向ける。ガレスも一瞬戸惑うものの、まだ実態を分かっていない彼は、しばらくすると手荷物の中からパンを取り出して口へ運ぶ。乗り合わせている人々は一斉にガレスに注目し「食べ物だ……」と囁く声もする。列車が揺れた拍子にガレスがパンを取り落とすと、一斉に皆がそのパンにたかる。その様は、例えが悪いが、本当に、まるでハエのよう、、、。

 それを見て、ガレスもようやく、ここの人たちが“異常な飢え”の状態にあることを察する。……とはいっても、本当に凄まじい光景を目にするのはその後なんだが。凄まじいと言っても、本作内の描写は抑制的で、それほど凄惨なシーンはないが、当然カニバリも出てくるし、痩せ細った死体を山積みにした荷車が通り過ぎていくシーンもある。

 それを目の当たりにして、ガレスは怖れをなして引き返す、、、どころか、さらに真相を探ろうと、身の危険も顧みずに現地の人に「これは一体どういうことなんだ?」等と聞き回るのだ。そして、案の定、捕えられる。


◆おそロシアに生きる。

 普通だったら、ここで殺されるところを、NYタイムズのモスクワ支局長ウォルター・デュランティというアメリカ人の口利きで救われる。このデュランティ、スターリン賞賛記事を書いてピューリッツァー賞なんぞももらっているんだが、半面、モスクワで乱交パーティーに興じるなど、共産主義の闇を見ぬ振りをして恩恵だけ享受しているという、曲者。外国人記者のよしみだろうか、スターリンをバックにガレスを助けてくれたわけだ。

 結局、ガレスはソ連から追い出され、ロンドンに戻ってウクライナで見てきたことを記事にする(史実ではロンドンではなく、ドイツに戻った様子)。しかし、デュランティはそれを真っ向から否定する記事をNYタイムズにデカデカと書き、ガレスはロイド・ジョージにもクビにされるわ、ソ連からはさらに睨まれるわで、居場所がなくなる。

 でも、そこでめげないのがガレスのすごいところ。『市民ケーン』で描かれたアメリカの新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストに直談判して、NYタイムズに大々的な反論記事を書いて載せるのだ。

 本作は、ここで終わっている。しかし、史実では、これによってソ連に決定的にマークされることとなり、その2年後、満州で殺された。満州にはソ連に内通しているものがいて、それらに殺されたという見方がされているみたい。真相は今も分かっていないとのこと。

 ……まぁ、彼の生き様に見合った最期なんだろうが、今も、ロシアでは体制に(というかプーチンに)逆らうと毒を盛られるという、本作の頃からの精神が脈々と受け継がれている。まさしく、“おそロシア”を地で行く国である。

 ガレスが命の危険を冒してまでウクライナを取材し記事化したのは、恐らくは記者としての使命感と、人としての正義感によるものだろう。それは誰にでも真似できるものではないけれども、そうすることで、悪を挫くことには大抵はならず、正義を通した方が冷や飯を食わされるのが、現実世界なのである。最悪の場合は、ガレスのように命を奪われる。日本でだって、、、ねぇ。公文書改ざんのスクープ記事が出たら、一昔前までなら内閣は吹っ飛んでいたはずなのに。スクープすれば斬られる、飛ばされる。一方で、悪はさらに強大化して居座り続ける、、、がーん。

 片やデュランティは、死んじまったらおしまいとでも言わんばかりに、現実主義を貫く。記者の風上にも置けぬイヤらしいヤツだが、彼のピューリッツァー賞は剥奪もされておらず、恐らく天命を全うしている。

 どちらの生き方が正解かなんて、誰にも言えない。そりゃ、ガレスみたいに生きられたらカッコイイけどね。

 自分だったら、、、まぁ、私はガレスにもデュランティにもならない、というかそもそもなれないが、なれる能力があったとしてもならないだろうな、と。ある意味、私は、デュランティよりも卑劣で、記者なんか早々に辞めて、高みの見物を決め込むのではないかと思う。ガレスのように闘う気力もないし、デュランティのような権力欲もない。それか、西側に亡命するかもなぁ。今の日本でもイヤなのに、ソ連で生活できたとは思えない、、、。


◆カニバリの歌、オーウェル、HBCの曾祖父さま、その他もろもろ、、、

 ウクライナの雪深い林を彷徨っているガレスの映る背景に流れる歌が、もの凄く怖い。メロディは単調だが哀しげで、歌声は今にも消え入りそうなか細さ。しかも歌詞がグロい。

 ♪飢えと寒さが家の中を満たしている/食べるものはなく寝る場所もない/私たちの隣人は もう正気を失ってしまった/そして ついに……

 これを子どもたちが無表情で口ずさんでいるのである。ホラー映画よりも遙かに怖ろしい光景だと思った。

 ガレスが降り立った駅では、ホームや道ばたで人が倒れて(死んで)いるが、誰も気にも留めない。もはや、風景の一部になっている。これと似たシーンは、『戦場のピアニスト』でもあった。ゲットー内を歩くシュピルマンの足下には死体がゴロゴロ転がっているが、道行く人も、シュピルマンも、それを避けて歩くだけ。

 この、ウクライナの飢饉はあの『チャイルド44 森に消えた子供たち』でも背景として描かれていたが、私は本作を見るまで、それがただの飢饉だとしか思っていなかった。でも、実際は“人工的な大飢饉”であったと知り、驚いた。ホロドモールと呼ばれ、虐殺とされている。ソ連が隠蔽したので正確な実態は分かっていないが、犠牲者は300万人を超えると言われている、、、とのこと。このことは、現在のウクライナーロシア関係にも影を落としているらしいが、……まあそらそーだよね、こんなことがあれば。

 あと、本作では、あのジョージ・オーウェルも出てくる。史実と年代が少しズレているけれども、『動物農場』を執筆しているシーンが所々で挟まれ、終盤ではガレスと直接対面するシーンもある。『動物農場』は、原作の方が面白いけれど、アニメもまあまあ良いので、一見の価値はあるかも。演じていたのが、ジョゼフ・マウルというイギリス人俳優だが、何となくオーウェルの風貌に似ている(まあ、そういう人を選んでいるんだろうが)。

 一番印象に残ったのは、デュランティを演じていたピーター・サースガード。何ともイヤらしい感じがよく出ていた。『エスター』で無残に殺される父親役だったのかぁ、、、。『ブルー・ジャスミン』にも出ていたのね。

 ガレスがアドバイザーを務めていたロイド・ジョージは、アスキス首相の総辞職を受けて、首相に就いている。アスキス首相といえば、私の愛するHBCの曾祖父さま。本作では、ロイド・ジョージはあんまし良い感じには描かれていないけど、本作は、首相を退いた後の話になるみたい。ますます、若い兄ちゃんガレスが外交アドバイザーとして選ばれたのが面白い。

 モスクワの街並みとか、クレムリンとかがちょろっとでも出てくるかと思って楽しみにしていたけれど、、、、ゼンゼンだった。……ガックシ。

 

 

 

 

 

 

 

 


極限の飢え、、、想像を絶する。

 

 



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アンナ(1951年)

2020-08-29 | 【あ】

作品情報⇒https://www.allcinema.net/cinema/1669

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 元ナイトクラブの歌手だった主人公アンナ(シルヴァーナ・マンガーノ)は、今は白衣の尼僧として病院勤めの身。

 彼女を俗世から断って信仰の世界へ導くことになった、ヤクザの情夫(V・ガスマン)と恋人(L・ヴァローネ)の諍い事を、事故で入院して来たヴァローネと再会する事で回想し、未だ彼に心を残す自分に気付き煩悶する……。

=====ここまで。

 シルヴァーナ・マンガーノの初期作品。


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 TSUTAYAの新作リストに、シルヴァーナ・マンガーノの初期作品である本作が上がっており、恐らくこれまでVHSくらいしかソフトがなかったのかも。きっと、ようやく版権とかモロモロ整理が付いて、無事DVD化の運びとなったのでしょう、、、知らんけど。

 ……というわけで、若い頃のシルヴァーナ・マンガーノが見たくて借りてみました。 

 

◆シルヴァーナ・マンガーノ!!

 いやはや、しょっぱなからシルヴァーナ・マンガーノは出ずっぱりなのだけど、最初、尼僧姿の彼女がシルヴァーナ・マンガーノだと認識するまでに1分くらいかかりました。……だって、私の知っているシルヴァーナ・マンガーノと、ゼンゼン雰囲気も顔も違うんだもん。

 私の中でのシルヴァーナ・マンガーノといえば、ヴィスコンティ映画に出ていた彼女。『ベニスに死す』でのタジオの母とか、『家族の肖像』でのビアンカとか、、、。気位の高い、ちょっと怖そうな、洗練された美しいオバサマという印象。細面でエキセントリックな感じもあったかなぁ、、、、って、それはほぼ役のイメージだね。

 でも、本作での彼女は、そもそも顔が違う!! 単に年齢による違い、って感じじゃなく、別人かと思うほど違う。大体、本作での、ナイトクラブ時代のアンナを演ずる彼女は決して“細面”ではない。田舎から出て来た元気の良い、磨けば光る“芋姉ちゃん”的な美人である。尼僧姿では衣裳のせいもあり、楚々とした美人になっているが。それにしたって、タジオの母とかビアンカに通じる面差しはほとんど感じられない、、、、のは私だけ?

 ……とにかく、予備知識ほぼゼロで見たので、シルヴァーナ・マンガーノが過去のある尼僧役だなんて知らなかったし、こんなメロメロドラマだとも知らなかったから、ちょっとビックリしたけど、まあまあ最後まで面白く見られました。


◆別れたいのに、身体が、、、嗚呼。

 アンナが尼僧になったのは、結婚を誓った男・アンドレアが、昔からの腐れ縁だめんず・ヴィットリオを揉み合いのうちに銃が暴発して殺してしまったから。

 アンドレアとの結婚式を翌日に控え、ウェディングドレスの試着中のアンナの下に、ヴィットリオがやってくる。小屋にアンナを連れ込むと彼女を押し倒して、復縁を迫るヴィットリオ。ヴィットリオがアンナに馬乗りになっている所へ、アンナを探していたアンドレアが入ってきてしまい、男たちは揉み合いに、、、。

 でもこれ、どう見たって正当防衛。アンドレアが罪に問われることはないと思うんだが、まあ、外国の話だからその辺は分からないけど、ともかく、アンドレアは牢屋行き。罪の意識に苛まれたアンナは俗世を棄てて神に仕える身に。

 尼僧見習い(?)となったアンナは、かいがいしく看護師の仕事に励む。看護師としては優秀なアンナ。院長の医師の信頼も厚い。そこへ、怪我をして運ばれてくるアンドレア。まだ誓約を済ませていないアンナに、「やっぱり愛してる!」と再度結婚を迫る。

 この途中で、“夜の街”で働いていた頃のアンナとヴィットリオの関係が回想形式で描かれる。ナイトクラブで踊り歌っているアンナは、当然だけど、尼僧とはゼンゼン別人。かなりしっかりしたガタイもビックリだが、身体の線を強調した衣裳で“El Negro Zumbon”を腰をフリフリ。……でも、全くと言って良いほどセクシーではないですね。健康的な感じさえする。けれども、一応、話的には彼女は客に媚びない人気歌手ということらしい。

 アンナは、このヴィットリオから離れたいと思っているのに、肉体的に離れられないみたいなのね。嫌っているくせに、自分からヴィットリオの家に行ってしまう。アンドレアは、アンナに他に男がいることは分かっていて、それでも結婚したいという何とも奇特なお方。そして、案の定、最悪の刃傷沙汰、、、じゃなくて拳銃沙汰になってしまったというわけだ。

 このアンナの気持ち~好きでもない、別れたいと思っている男と、セックスはしたい~という感覚、私には残念ながら分からんのです。セックスが良いとか悪いとかって話は聞くし、若い頃、私の友人もそんなようなことを言っていた。「あの人は、セックスがすごく良いので、別れたいけど別れられない」と。その友人も、そんなに奔放な人だったわけではないので、そういう人にラッキーにも巡り会えたということなんだろうか。若かった私は、その友人にあまり根掘り葉掘り聞けなかった。今なら聞けるかな、、、。今度、機会があったら聞いてみようかしらん。

 セックスって、要は、真っ最中よりも、その後が肝心じゃないのか? アンナはヴィットリオとの情事の後は、激しく自己嫌悪に陥っている。まあ、これは人それぞれの“セックス観”の違いといえばそれまでなんだが。私は、そこまでセックスに即物的にはなれないし、なれなかった。なりたくもない。観念的と言ってしまうと何だか違う気がするが、そのセックスを良いと感じるか否かは、非常にメンタルなものだと思っている。つまり、相手のことをどれくらい好きか、ってところに尽きる。

 だから、アンナが夜中にふらふらと意に反してヴィットリオの部屋に合鍵まで使って行ってしまう、、、というのは、全く理解できなかった。……もちろん、そういう人たちがいることを、頭では理解しているけれど。

 ……で、最終的に、アンナとアンドレアはどうなるか、、、というのは、まあ、ここに書くのはやめておきます。私なら、アンナとは違う選択をしますね、間違いなく。そこまで好きになれる人なんて、生涯でそう何人も出会えるもんじゃないでしょ。しかも、その人も自分を好きだなんて、奇蹟に近いわけで。そんな出会いは、とてもとても大切なはず。


◆エルバイヨ~ン♪とか、再びシルヴァーナ・マンガーノとか、その他もろもろ。

 この“El Negro Zumbon”は、聞いたことあるなー、と思ってちょっと調べたら、かなり有名な曲らしい。歌詞にもある「El Vaion(エルバイヨーン)」の「バイヨン」とは、「ブラジルのダンス音楽・リズム」で「サンバと同じブラジル北東部発祥の民族音楽」なんだそうである(詳しくはこちら)。パーシー・ フェースにもバイヨンの音楽があるとは。なかなか面白い音楽で、ちょっと色々検索してしまった。

 ブラジルといえば、ボサノヴァは割とCDとかも豊富だけれど、このバイヨンは、ジャンルを前面に出したCDなどはあまりないみたい、、、。氷川きよしの「虹色のバイヨン」とかの動画が出て来たけど、大分バイヨンとは違うような、、、。

 それから、やっぱりシルヴァーナ・マンガーノ。彼女のこと、私、ゼンゼン詳しくは知らず、本作を見て、ネットでちょこちょこ調べたら、wikiには「強烈なセックス・アピールで一躍スターとなる。日本では「原爆女優」と呼ばれた」なんてあって、かなり意外だった。そうだったのかー。ド素人に近かったのを、夫となったプロデューサーによって演技派女優へ転換、って感じなのかしらね。確かに、あの身体のゴツさ(私には全くセクシーには見えない)は、肉体派に違いない。原爆女優、、、って、何と不謹慎な。意味分からん。

 アンナがセックスに溺れる相手ヴィットリオを演じたのは、ヴィットリオ・ガスマン。……あまりイイ男には見えなかった、、、、ごーん。別に醜男ではないが。

 監督は、アルベルト・ラトゥアーダ。知らん名前だなー、と思って調べたら、あの『今のままでいて』の監督さんだった!! ナタキンを見る“だけ”の、オッサンの勝手な願望全開の、かなりヤバい映画。……まあ、どちらも“セックス”がキーワードってところが共通点か。調べたらかなりの数の作品を撮っていらっしゃる。何と、マキャベリの書いた戯曲を基にした『マンドラゴラ』なんてのもあって、こちらもセックスに溺れる女性が出てくるみたい(というか、マキャベリが戯曲も書いていたとは)。……そういうネタがお好きなのかしら?

 レンタルでは他に借りられそうなこの監督の作品はないけれど、プロデュースした作品があるようなので(しかもちょっと面白そう)、今度見てみようかな。 
  

 

 

 

 

 

 


セックス“だけ”が良すぎて別れられない相手、いますか? いましたか?

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惡の華(2019年)

2020-08-11 | 【あ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv66601/

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 山々に囲まれ、閉塞感漂う地方都市。中学2年生の春日高男(伊藤健太郎)は、ボードレールの詩集『惡の華』を心のよりどころにして、息苦しい日々をどうにかやり過ごしていた。

 ある日の放課後、教室で憧れのクラスメイト・佐伯奈々子(秋田汐梨)の体操着を見つけた春日は、衝動に駆られ、その体操着を掴んで逃げ出してしまう。しかし一部始終をクラスの問題児・仲村佐和(玉城ティナ)が一部始終を目撃しており、この一件を秘密にする代わりにある契約を持ちかける。

 このことから仲村と春日の悪夢のような主従関係が始まった。仲村からの変態的な要求に翻弄されるうちにアイデンティティが崩壊し絶望を知る春日。

 『惡の華』への憧れと同じような魅力を仲村にも感じ始めていたころ、二人は夏祭りの夜に大事件を起こす。

=====ここまで。

 押見修造の同名マンガが原作。押見修造原作なら期待出来そう……、と思ったけれど、、、。 


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 押見修造のマンガは「血の轍」しか読んでおらず、本作の原作は全く知らない。「血の轍」は、正直なところ“好き”というわけじゃないのだけれども、絵そのものが不穏で、あの絵で私はKOされたと言っても良いくらい。決して、楳図かずおとか伊藤潤二みたいな、おどろおどろしい絵じゃなく、普通と言えば普通なんだけれども、とにかく“不穏”なんですよ。なんか、マンガの域を超えているというか。

 ……とまあ、それはともかく。もちろん、ストーリー的にも面白いわけで、そんな秀逸な作品を描く押見修造原作となれば、きっと面白いに違いない、と勝手に考えた私が間違っていた。

 思うに、仲村佐和という女子生徒は、玉城ティナみたいな見た目の可愛いキャラでは面白くないんじゃない? 原作の仲村さんがどんなんか知らないけど、本作内ではクラスの男子どもに「キモい」「コワい」と言われているわけで、玉城ティナがいくらヘンキャラを作ったところで、キモくないし、コワくない。玉城ティナに支配される男子がいても、別にフツーの話だろ、それ、、、。

 で、この仲村さんの口癖が「クソムシ」「ヘンタイ」なんだが……。まぁ、仲村さんも春日も“イタい中学生”なんだよね。彼らは、「ヘンタイ」=他とは違う選ばれし人間、と思っているんだが、別に中二病だとか何だとか関係なく、ヘンタイを崇拝し過ぎ。ヘンタイなんて、別にレアでも何でもない。人間は例外なくヘンタイなんであって、それをヘンタイじゃないみたいに装って社会生活を送っているだけなのよ。

 まぁ、そんなことはさすがに中二じゃ分からんのは仕方ないと思うけど、それにしても、彼らが何でそこまでヘンタイを崇拝しているのかが、私にはさっぱり分からなかった。中二病って、そういうもんなのか? こういう、“青春モノ”は、かつて自らも通ってきた道として、痛くとも微笑ましく感じるものなんだが、仲村さんも春日も正真正銘“イタい中学生”としか見えなかった。

 だから、ハッキリ言って、本作については終始、意味が分からなかった。春日が憧れていた佐伯さんの豹変ぶりとか、???である。原作を読めば分かるのかねぇ? 途中、ちょっとだけ谷崎の『痴人の愛』かよ、、、って思ったりもしたんだが、ゼンゼン違ったわ。

 実は、本作は、劇場に行こうかどうか迷っていたんだけど、行かなくて正解だった。もし、見に行っていたら、多分、グッタリして虚しさのあまり、ボリューミィな食べ物とか衝動買いして余計なカロリー摂取をしてしまったに違いない。

 マンガ原作映画も、ほどほどにしとけ、ってことかな。

 

 

 

 

 

 

伊藤健太郎くんの裸は、中二にしては男過ぎやしませんかね?

 

 



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アンナ・カレーニナ ヴロンスキーの物語(2017年)

2020-01-19 | 【あ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv65599/


以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 日露戦争が勃発した1904年の満州。軍医として戦地に赴いたセルゲイ・カレーニン(キリール・グレベンシチコフ)は、患者として運ばれてきたアレクセイ・ヴロンスキー(マクシム・マトヴェーエフ)と出会う。

 この男こそ、幼い自分と父から母を奪い、さらには母が自ら命を絶つ原因となった人物だった。一時は殺意を抱くほど憎んだ相手だが、年齢を重ねた今、母の真実を知りたいと願うセルゲイ。その問いに答え、ヴロンスキーは彼にとっての真実を語り始める。

 1872年の冬。母親を迎えるためにモスクワ駅を訪れたヴロンスキーは、政府高官アレクセイ・カレーニンの妻アンナ・カレーニナ(エリザヴェータ・ボヤルスカヤ)と出会う。後日、舞踏会で再会したアンナとヴロンスキーは、急速に親密になってゆく。

 2人の関係はたちまち世間の噂となり、アンナの夫カレーニン伯爵の耳にも届く。やがて、夫からヴロンスキーとの関係を問い詰められたアンナは、彼に対する愛を告白。さらに、アンナはヴロンスキーとの子を身籠っていた。

 だが、世間体を気にするカレーニン伯爵は離婚を認めなかった。そんなアンナの周りからは次々と友人たちが去り、ヴロンスキーと暮らすことのできないアンナには、嫉妬や猜疑心が芽生え始める。

 紆余曲折を経てヴロンスキーの子を出産したアンナは、ついにカレーニン伯爵と離婚。だが、夫が手放さなかった息子セルゲイ(マカール・ミハルキン)とは別れることに。娘のアーニャが生まれながらも、セルゲイと会えないことに苛立つアンナは、密かにセルゲイの誕生日にカレーニン伯爵の屋敷を訪問。再会した息子に、善良で立派な父を愛するよう泣きながら訴える。

 その一方で、罪悪感に苛まれたアンナは、ヴロンスキーとの間に生まれたアーニャを愛することができずにいた。ヴロンスキーは、そんなアンナを持て余しながらも、社交界から距離を置き、家族で田舎へ移る計画を立てるが……。

=====ここまで。

 もう何度も映像化されてきたトルストイの小説「アンナ・カレーニナ」を、ヴロンスキーの視点から描いたバリバリのロシア映画。
 

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 本作は、劇場公開時に見に行きたかったのだけれど、結局行けずに終映、、、。DVD化されたので見てみました。


◆ヴロンスキーがステキすぎる。

 それにしても、いくつも同じ原作の映画が既にあるのに、映画人にさらに映画を撮ろうという気にさせる原作「アンナ・カレーニナ」って、よほど魅力的な小説なんでしょうねぇ。未読なので分かりませんが。ストーリーだけ先に知ってしまったばかりに、どうしても「不倫メロドラマ」というイメージがあって、そんなドロドロ不倫を描いた長編小説に手を出す気になれず、、、。

 映画は、キーラ版とソフィ・マルソー版の2本を見たけど、どちらも見た後「やっぱし、つまんねぇ不倫モノやん」としか思えず、ホントに原作小説って名作なの??と、ますます読む気が失せた。

 ……が。

 本作は、見終わった後に、なんと! 原作を読んでみたくなったのであります。いやぁ、、、自分でもびっくり。

 というのも、タイトルの副題「ヴロンスキーの物語」のとおり、ヴロンスキー視点で、アンナとの出来事を、アンナが亡くなって30年後に日露戦争下の満州で、アンナの忘れ形見・セルゲイに語る、という設定が奏功していると思う。アンナ視点だと、どうしてもアンナに共感することは難しいけれども、ヴロンスキー視点にすることで話に奥行きが出たように感じる。

 また、本作はリョーヴィンに関する話が一切省略されていているのだが、それも良かったと思う。その代わりに、日露戦争に軍医として従軍したヴィケーンチィ・ベレサーエフの著作を融合させている。

 そして何より、ヴロンスキーがめっちゃイケメン!! ってのが大きい。ただ顔がイイ“だけ”の優男ではなく、品と知性が感じられる長身のこれぞ貴族! という雰囲気のヴロンスキーは、浮ついた不倫男なんぞではなく、人妻を図らずも愛してしまったことに葛藤する真面目な将校に見えるのだ。

 もちろん、アンナも艶っぽく美しい。致命的に色気がなく品のない笑顔のキーラ・アンナとは大違いで、妖艶かつ品のある本作のアンナは、真面目なイケメン将校ヴロンスキーと実に絵になるカップルなのである。

 主演の2人の雰囲気次第で、同じお話が、ここまで別モノになるのか……と、ある意味衝撃を受けた。映像化に当たってのキャスティングは、もの凄く大事だと改めて思い知る。

 ヴロンスキーとの情事の後、アンナが着替えるシーンで頭がクラクラする。途中、ヴロンスキーがアンナのコルセットの紐を締めるところなど、ねっとり描かれていて、これって監督の趣味か?とも思うが、ついさっきまであられもない姿態を晒していた女性が、身なりを整えていく過程をじっくりと描くことで、官能効果もググッと上がる。着替え終えたアンナが、部屋に残るヴロンスキーにチラリと視線をやって出ていくその姿は、色香を残しながらもキリリとしたご婦人に変貌していて実に美しいのだ。

 ヴロンスキーのいる場所が満州の野戦病院というのも、彼の心象風景となっている。現地の中国人の少女が折々に登場するが、片言の中国語で語りかけるヴロンスキーとのやりとりは、セリフであれこれ説明しなくてもヴロンスキーがいまだにアンナに囚われていることを感じさせられる。

 アンナとのシーンは全てヴロンスキーの回想として出てくるので、現在と過去がかなり頻繁に切り替わるのが気になると言えば気になるが、これだけの長編でメリハリをつける効果になっているとも思う。

 やはり(当たり前だが)、描き方次第で、メロドラマもこんなに格調高い文芸作品になるのだなぁ、、、と嘆息。


◆壊れるアンナ、、、。

 とはいえ、やっぱり不満が残るのは、アンナが列車に飛び込んじゃうまでの精神が崩壊していく過程の描き方。まぁ、どう転んでも、アンナが勝手に自分を追い込んで勝手に死んじゃった、ってことにしかならないので難しいのは分かるけど、、、。

 ヴロンスキーとアンナの気持ちや行動がいちいちすれ違ってしまうところは良いのだけど、その後、駅に向かって疾走する馬車の中でアンナが泣きながら絶望の言葉を叫んでいるのが、なんかね、、、。何でいきなりそうなるの??という感じで、この辺りがどう書かれているのか原作を読んでみたくなった理由の一つ。おまけに、御者のマントが翻って馬車が通りを駆け抜けていくところがスローモーションなのが、ちょっと演出的にやり過ぎな感じもして。

 本作でのヴロンスキーは非常に真っ当な感覚の持ち主で、情緒不安定になるアンナにできるだけ寄り添おうとする、誠実な男に描かれている。多分、原作のアンナも相当ヤバいんだろうな、と思うが、本作でもアンナの壊れていくのが速すぎて、ちょっと着いていけない。あれで自殺されては、ヴロンスキーが気の毒すぎる。

 こんなことを書くと身も蓋もないけど、アンナは要するに“ヒマすぎた”ってことなんじゃないかなー、、、と思った。他にすることがないから、ヴロンスキーに出した手紙の返信ばかり気になってしまう。今か今かと、外の馬車の音にも過剰に反応したり、、、。何事も“待つ”ってのは時間が長く感じるもの。やることが山ほどあって忙しくしていれば、そこだけに神経が集中しないから、悲観的になりすぎることもない。貴族って基本ヒマそうだもんね(ダウントン・アビーとか見ているとマジでそう感じる)。生活に追われる庶民は、男から手紙が来ないくらいで自殺することを考えたりする余裕はないのだよ。

 いずれにしても、アンナが壊れていく過程を原作で確かめてみたい、、、と思った次第。


◆その他もろもろ

 イケメン将校ヴロンスキーを演じたのは、マクシム・マトヴェーエフというロシア人俳優。品があり、知性を感じる顔立ちな上に長身で細身過ぎず、軍服が実に似合って美しい。これなら、アンナが惚れるのもむべなるかな、、、である。キーラ版やソフィ・マルソー版のヴロンスキーより断然ステキだ。舞台出身の俳優さんらしいが、あの容姿ならばさぞかし舞台映えすることでしょう。舞台上の彼を見てみたい。映画では、『オーガストウォーズ』(2012)に出演しているとのこと、俄然見たくなってしまった。

 アンナを演じたのはエリザヴェータ・ボヤルスカヤという、こちらもロシアのお方。ポスターの画像はイマイチだけど、上品ですごく美しい。完全無欠な美人というよりは、表情が本当に美しい。写真よりも、動いている姿の方が美しさがより分かる。ネットの感想で「アンナが不美人」と書いている人がいてびっくり。どういう審美眼なのだろう。キーラやソフィ・マルソーのような美しさとはゼンゼン違うのは確かだけど。

 でもって、このマクシム・マトヴェーエフとエリザヴェータ・ボヤルスカヤは実生活でご夫婦だというのでビックリ。こんな絵になるカップルが実際に夫婦として存在しているのか~、と嘆息。

 ヴロンスキーとアンナが決定的に恋に落ちる舞踏会のシーンが素晴らしい。美術も衣裳も豪華そのもの。ただの舞踏会なのに、ある意味、官能シーンになっていて、このあたりの演出が凄いなぁ、、、と感心する。やっぱし、ロシアの原作は、ロシア人が制作する方がハマるんだろうなぁ、と妙に納得させられた。ヴロンスキーのイケメンっぷりは、本作の公式HPの予告編でご覧になれます。

 カレーニン氏を演じたヴィタリー・キッシェンコも良かった。イイ人なんだかイヤなヤツなんだか微妙な感じを実に上手く演じておられました。

 そうそう、セルゲイの子ども時代を演じた少年がすごく可愛かった! あんな可愛い子に「ママが一番好き! 行かないで!!」なんて泣かれたら、私がアンナだったらセルゲイをあのまま拉致してヴロンスキーのところに連れ去ってしまうかなー、などと妄想してしまった。恋も息子も!と、アンナももっと欲深く生きれば良かったのに、、、。時代的にムリだったのは分かるけど。

 アンナと不倫していた頃の若きヴロンスキーもステキだが、30年後に満州で傷ついた50代後半と思しき枯れたヴロンスキーもイケている。皺が深くなり、髪も白くなっているが、歳をとってもイイ男はイイ男。軍医になったかつての美少年セルゲイとのやりとりは、これまでの「アンナ・カレーニナ」の映画にはない味わいがあって、これはこれで良いと思った次第。

 監督のカレン・シャフナザーロフ氏は、ロシアでは巨匠のお一人のようだ。独ソ戦をテーマにした映画も撮っているみたいだから、見てみたい。
 

 

 

 

 

 

 

 


キャスティングの重要性がよく分かる逸品。

 

 

 

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ある女流作家の罪と罰(2018年)

2019-08-24 | 【あ】

作品情報⇒https://eiga.com/movie/90813/

 

 以下、公式サイトよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 かつてベストセラー作家だったリーも、今ではアルコールに溺れ、仕事も続かず、家賃も滞納、愛する飼い猫の病院代も払えない。生きるために著作を古書店に売ろうとするが店員に冷たくあしらわれ、かつてのエージェントにも相手にされない。

 どん底の生活から抜け出すため、大切にしていた大女優キャサリン・ヘプバーンからの手紙を古書店に売るリー。それが意外な高値で売れたことから、セレブの手紙はコレクター相手のビジネスになると味をしめたリーは、古いタイプライターを買い、紙を加工し、有名人の手紙を偽造しはじめる。様々な有名人の手紙を偽造しては、友人のジャックと売り歩き、大金を手にするリー。

 しかし、あるコレクターが、リーが創作した手紙を偽物だと言い出したことから疑惑が広がり……

=====ここまで。

 オスカーにも何部門かノミネートされながら、いずれも受賞を逃したせいか日本では劇場未公開。

 

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆

 

 TSUTAYAの新作リストで出ていて、面白そうかも、と思って見てみました。何で劇場公開されなかったのか、、、。少なくとも、『天才作家の妻 -40年目の真実-』よりはゼンゼン面白かったゾ。

 

◆難易度の高い犯罪

 主人公のリー・イスラエルは、“作家”と言っても小説書きではなく、ノンフィクション、伝記作家の方ね。リーが“伝記作家”であったことが、この話では鍵になる。ちなみに、本作の元ネタは実話だという。

 本作の中で、リーはいとも簡単に有名人たちのニセ手紙を書いているように見える。けれども、この“偽造”は、もの凄くハードルの高い技だと思う。

 ただ有名人に起きた出来事をそれっぽく文章に書けば良いという単純なものではない。文章自体はタイプライターで打つのだが、文体や言い回しを本人の特徴に合わせなければいけないし、もちろん、事実に沿った内容でなければならないし、読ませる文面にしなければならない。

 何より、バイヤーが言うとおり、「刺激的な事実の告白」があればより高く売れるわけだから、いかにそれらを悪目立ちすることなく折り込んで本物っぽく仕立て上げるかというのは、ハッキリ言って、伝記を書くより何倍も難しいのではないか。

 そもそも、簡単に伝記と言うが、ノンフィクションを書くには、まず、綿密で広範な取材を行う必要があり、その取材成果から何を書くのかの取捨選択をしなければならず、さらに“売れる本”に仕上げるのには、読んで面白い内容と文章を書かなければならないという、大変なテクニックとエネルギーが必要なのだ。その上で、手紙を偽造となれば、さらにハードルが数段上がるはずだ。

 いくら生活に困って追い詰められたからと言っても、並のライターがそんなことをしたら、すぐにバレて買ってももらえないはずだ。しかし、リーの偽造手紙は、コレクターが皆目の色を変えて買うのである。文書偽造という立派な犯罪にもかかわらず、正直、見ていて痛快な気分になる。

 こんな才能があるのに、エージェントと上手く行かず、時代の流れに取り残されて、書きたいものが書けずに生活に困窮してしまうなんて、何というか、リー自身にとってももったいないが、社会にとっても損失だと思う。……まぁ、リーに限らず、社会に埋没している優れた才能なんて数え切れないほどあるとは思うが、、、。

 本当に優れた才能なら必ず日の目を見るはず、というのは、やっぱりちょっと違うだろうなぁと思う。余談だが、数週間前の新聞に出ていたが、ハリウッドの役者の世界では、役者自身の才能よりも、良い作品に恵まれたかどうかの方が売れっ子になる要素としては大きいという、真面目な調査結果もあるらしい。ライターの世界でも同じで、作品が日の目を見るかどうかは運に左右される部分も大きいだろう。

 ともかく、才能をイケナイ方向に使ってしまったリー。もうちょっと控えめにやってりゃ良いものを、調子に乗ってやり過ぎた。

 そこで偽造ができなくなったからってやったことが(ここでは敢えて書かないケド)、、、、これはさすがにマズイし、見ていても痛快さはまるでない。そして、これは、一発でバレて捕まってしまうのだ。万事休す。

 リーが法廷で裁判長に弁明する、その内容に胸が詰まる。

 

◆アラフィフ女とゲイの友情物語

 この映画は、一応、リーの才能が実現可能にした犯罪を描いているのだが、本作が面白い映画になっているのは、リーとゲイの友人ジャックとの友情を丁寧に描いているからだろう。

 単にリーがどうやって巧みに偽造手紙を書いたか、、、ということを描写したのであれば、テレンス・スタンプ主演の『私家版』のようなサスペンス映画っぽくなったはずだ。

 『私家版』も非常に面白い映画だったから、どちらが良いという訳ではなく、本作は、ジャックの存在が非常に重要だと感じた。リーは、性格的にもちょっと問題があるので親しい友人はおらず、可愛がっているネコだけが心許せる相手だったところへ、ジャックと何の利害関係も恋愛要素もない純粋な友情が自然に育まれていく様は、見ていてホッとさせられる。

 ちなみに、リーの偽造がバレたのには、リーがあまり紙にこだわらなかったからとも言われているらしい。文体や内容には非常に凝ったのに、紙はその当時にはなかった透かしの入ったものを使うなど、かなり無頓着だったらしい。引き換え、『私家版』ではテレンス・スタンプが微に入り細を穿って偽本を作っていて、その描写が息を呑むほどスリリングだった。

 ジャックは一見チャランポランなんだが、根は思いやりがあって、イイ奴なのだ。リーの偽造にも協力し、見返りも求めない。私がグッときたのは、悪臭漂う荒れきったリーの部屋を、鼻をつまみながら掃除してあげるジャックの姿。ベッドの下にネコの糞が大量に溜まっているのも、「ギャ~」とか言いながらキレイにしてあげる。こんなこと、私にはムリ。

 またまた余談だけど、リーが住んでいるアパートの部屋は掃除をすればなかなか良い部屋で、あんな部屋、住んでみたいと思ったくらい。欧米の住まいって、壁に作り付けの棚がある部屋が多くて素敵よねぇ。リーの部屋もあちこちに作り付けの棚があって、羨ましい。私も壁の棚が欲しくて、壁一面の棚をオーダーしてしまったくらいだけど、それでもやっぱり作り付けの壁の棚とはちょっと趣が違う。ああいう棚のある部屋に住みたいわ~。

 で、ジャックなんだけど、終盤に弱った状態になってリーと会うシーンが哀しい。もう、何もかも済んで、リーも偽造から足を洗っていてお互い笑顔で話しているんだけど、ジャックはエイズを発病していることが分かるんだよね。もちろん、リーも分かっているんだけど、敢えてジョークを言ったりして、、、。泣ける。

 リーを演じているのはメリッサ・マッカーシーで、アメリカでは有名なコメディエンヌらしいが、非常に演技も上手い。酒ばっかし飲んでブータレているアラフィフ女を実に巧みに演じている。ジャックは リチャード・E・グラント。ホントにゲイじゃないの?ってくらいハマっていた。  

 

 

 

 

 

原題“Can You Ever Forgive Me?”の方が切ないね、、、。

 

 

 

 

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ある少年の告白(2018年)

2019-04-28 | 【あ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv66965/

 

以下、公式HPよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 ジャレッド(ルーカス・ヘッジズ)はアメリカの田舎町の牧師の父(ラッセル・クロウ)と母(ニコール・キッドマン)のひとり息子として愛情を受けて育ち、輝くような青春を送っていた。

 しかし思いがけない出来事をきっかけに、自分は男性が好きであることに気づく。ジャレッドは意を決してその事実を両親に告げるが、二人はその言葉を受け止めきれず、動揺する。

 父から連絡を受けた牧師仲間が続々と家を訪れ、助言をする。父は、「今のお前を認めることはできない。心の底から変わりたいと思うか?」とジャレッドに問う。悲しげな母の顔を見たジャレッドは、決心して同意する。

 ジャレッドは母の運転する車で施設に向かう。治療内容はすべて内密にするなど細かな禁止事項が読み上げられ、部屋へと案内されると、白シャツの同じ服装の若者たちが弧を描くように椅子に座っていた……。

=====ここまで。

 今でもアメリカにあるというゲイ矯正施設のお話。

 

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 それほどそそられた訳じゃないのだけれど、何となく見に行って参りました。キリスト教って一体、、、。

 

◆親が受け容れる以外に道はない。

 “性の多様性を認めよう”という世界的潮流にある中で、アメリカでは、まだこのような施設が“神の教え”の名目下に残っているらしい。これまで、キリスト教の色々な蛮行を映画で見てきたので、本作を見ても正直なところ全く驚きはない。ましてや広大な田舎国家であるアメリカなら、さもありなんという感じ。

 数年前に松原國師著 『【図説】ホモセクシャルの世界史』(作品社)という本を購入したんだが(まだ全部は読んでいないけれど)、その本によれば、同性愛というのは、記録が残る範囲でメソポタミア文明の頃からあって、もう5000年の歴史を刻んできているという。つまりは、ほとんど人類の歴史と共にあると言ってもよいのでは? キリスト教なんかよりゼンゼン古い。日本でももちろんあって、“日本に同性愛はなかった”などとのたまうゴリゴリ保守の人々は一度この本を読んだ方がいいかも。古今東西の同性愛の記録が、絵や写真、図が満載で解説されていて、実に面白い本である。何せ600ページ以上もあって3センチくらいの厚みのある本だし、図も豊富なので、最初から丁寧に読むという感じでもなく、あちこち拾い読みしていてなかなか全編読破するに至っていないのだけれど。

 それにしても、同性愛はタブーだって聖書に書いてあるらしいんだけど、本当にキリスト自身はそう言ったんだろうか? 同性愛ではなくても、キリスト教ってのは性欲というか、性的悦楽をタブー視しているけど、キリストもそう言っているの? セックスは繁殖のためだけに快感を伴わずにやれと?

 まあ、その辺がよく分からなくても、牧師である父親が、息子の同性愛告白を受け容れられないのはよく分かる。生理的に受け容れられないのもあるだろうし、自分の保身から受け容れること=自身の破滅、という思考回路が働くってのもあるだろう。

 しかし、本作は根本的には、親が自身の理想から外れた我が子とどう向き合うか、という非常に普遍的なテーマを扱っている。だから、同性愛とか、信仰とか、それらはあくまでも副次的なものであり、本作の本質を見れば、息子ジャレッドの行動と、母親の変化、父親の苦悩というのは、信仰を持たない人間であっても共感できる。

 だから、見た目の素材に囚われることなく、多くの子を持つ親にとって、本作は見るに値する映画だと思う。そして、“自身の理想から外れた我が子とどう向き合うか”という問いに対する答えは、ただ一つなのだということに行きつくはずだ。その答えは、本作の終盤 「自分の信念でお前(ジャレッド)を失うことになるかも知れないが、それは嫌だ」という父親に対し、ジャレッドが言っている。

「僕を失いたくないなんてウソだ。僕を変えることは出来ない。僕を失いたくなければ、父さんは僕を受け容れるしかない、僕が同性愛者であることを受け容れるべきだ。それが出来ないならもうこれっきりだ。父さんは僕を失うんだ」(セリフ正確じゃありません)

 若いのに、ジャレッドはここまでちゃんと親に対してモノを言えて、本当に素晴らしい。この言葉を言うのはとても勇気がいるはず。でも彼はそれをちゃんとやり遂げ、父親の目を少し開かせた。父親は、ここまで言われてようやく(不本意だったろうが)「(ジャレッドを受け入れるよう)努力するよ」と言ったのだ。

 ちなみに、私の母親は、私の人生を通して自分の人生のリベンジを果たそうとし、それを拒絶する私に対し「親とうまくやって行きたいのなら、親は変わらないから、子どもであるお前が変われ!」と面と向かって言ってきた。もう25年くらい前だけど。あの時の私に、ジャレッドの勇気のほんの10分の1でもあれば、、、。そして、母親は娘である私を現に失っている。実際、あの人は死ぬまで変わらないと思うが、変わるにもタイミングは大事で、ジャレッドがオッサンになってから父親が変わる宣言をしても、ジャレッドにしてみれば「何を今さら」になるだけで、むしろ溝が深くなる可能性もある。ジャレッドに二択を迫られた時点で「努力する」と曲がりなりにも言えた父親は、まだ望みがある。ただただ、父親が頑張るしかないのよ。

 

◆その他もろもろ

 父親を演じていたのはラッセル・クロウなのだけど、あまりの太り様に、最初彼だと分からなかった。顔もゼンゼン違うし、何より身体つきがあまりにも違い過ぎて、衝撃的だった。人間、こんなに太れるものなのか?? 一方の、母親役は、ニコ姐で、相変わらずの痩身。夫婦役で2人が一緒にいるシーンは、まさに、団子に串みたい。不釣り合いすぎる。

 本作の原作者ガラルド・コンリーの両親の画像が、エンドロールの前に出てくるのだが、実際の夫婦に確かにこの2人は似せているが、母親の方はもう少しふくよかだ。ニコ姐の細さはちょっと尋常じゃない感じで、もう少し太った方が良いんじゃないかね? 50代半ばであんまり痩せていると、貧相に見えるし。まあ、ビノシュみたいにどすこい体形になっちゃうのもいただけないけれど、、、。

 ジャレッドを同性愛に目覚めさせる(?)引き金になった“レイプ事件”のレイプ犯ヘンリーを演じていたのは、ジョー・アルウィン。『女王陛下のお気に入り』にもヘンな化粧して出ていたけど、こっちで見る方がはるかにイケメン。『ベロニカとの記憶』にも出ていたとは、、、。本作ではトンデモなゲス野郎だけど、その風貌から到底そんな風に見えないのに実は、、、、という役柄にピッタリ。ジャレッドをレイプするシーンは、地味だけど凄惨で、ちょっと正視に耐えない。しかも、コイツは常習犯で、被害者はジャレッドだけでないばかりか、自分の性癖を隠すためにさらにトンデモな行動に出るのだから、もうとことんゲス。そういう役を、こういう爽やかなイケメンがサラッと演じてしまうあたり、やっぱり日本のタレント役者とは根性が違う。こんな俳優がたくさんいるイギリス映画界が羨ましい。

 肝心のジャレッドを演じていたのは、最近よく見るルーカス・ヘッジズ。本作の予告編で、ジュリア・ロバーツとの共演作『ベン・イズ・バック』が流れて、何か本作と似たような雰囲気の作品らしく、こういう似た感じの作品で同じ出演者の予告編を流すってのは、いかがなもんかねぇ、、、と思ってしまった。別に悪くはないけど、若干興醒めな感じはするよなぁ、、、と感じたのは私だけかもね。本作ではほとんどルーカス君は笑わないんだけど、考えてみると、『マンチェスター・バイ・ザ・シー』『スリー・ビルボード』での彼も、ちょっと屈折した役だったし、あんまり彼の笑顔をスクリーンで見たことないかも。そのせいか、表情豊かというイメージがあまりないなぁ。演技は上手いのだろうけど、正直それもあんましよく分からない。本作では、彼より出番の少ないジョー・アルウィンの方がかなりインパクトは強い。まあ、でも若干22歳でキャリアも十分、今後の俳優人生も明るそう。

 矯正施設の責任者役&本作の監督を務めたジョエル・エドガートン、『ゼロ・ダーク・サーティ』しか出演作見たことないけど、一見普通で実はトンデモな施設責任者がなかなかハマっていた。監督2作目みたいだけど、監督の才能もかなり高いのでは?

 

 

 

 

 

見た目より普遍的なテーマを描いている映画です。

 

 

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ある日どこかで(1980年)

2019-01-23 | 【あ】



 WOWOWのあらすじからコピペです(一部加筆しています)。

=====ここから。

 1972年、演劇を学ぶ大学生リチャード(クリストファー・リーヴ)。見知らぬ老婦人が急に寄ってきて、彼女から古い懐中時計を渡され“帰ってきて”と囁かれるが、彼にはまったく訳が分からない。

 8年後、劇作家になったリチャードは、とあるホテルで、1912年に生きていたというエリーズ・マッケナ(ジェーン・シーモア)という女性の肖像画に一目惚れする。リチャードが調べると何とエリーズは、8年前に懐中時計を渡されたあの老婦人だった。

 リチャードがエリーズに会いたいと願うと、いつの間にか彼は1912年の世界に飛んでいて……。
 
=====ここまで。

 今まで知らなかったのですが、何でも、熱烈なファンがいる映画だそうです。ファンサイトまであるらしい、、、。
 
 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 大分前にBSでオンエアしていたのを何気なく録画しておいて、ようやっと先日見た次第。録画した映画の中で、一番時間が短かったから、、、という理由だけで本作を選んで見ました、、、。


◆念力でタイムスリップ!

 まるで本作のことを知らずに見たのだけど、こんなぶっとびファンタジーラブロマンス映画だったとは、オドロキ。

 一番驚いたのは、何と言ってもリチャードがタイムスリップする手段が、ひたすら念じる、、、というもの。ううむ、なるほど。ヘンなマシンとかクスリとか使わないで、コストもかからず、それでいて意外に説得力もある感じ。 

 リチャードは、70年前のファッションに身を包み、ホテルの部屋の中からタイムスリップ先の年代にはふさわしくない現代的なもの(テレビとか)は一切排除し、ベッドに横になると目をギュッと閉じて、事前にテープレコーダーに自分で録音しておいた「時は1912年6月、、、心を無にして受け容れろ」とかなんとかナレーションを流し、汗だくになって念じる。……が、なかなか上手く行かない。

 このシーンを見ていて、なんでテレビは排除するのにテープレコーダーは手元に置いているのかね?? それも立派な現代的なものじゃないのか?? と思ったんだけど、案の定、上手く行かないのよね。で、リチャードは60年前の宿泊名簿をホテルの屋根裏で探し当て、そこに、エリーズの名前と、自分の名前を見つけ「やっぱりボクも60年前ここにいたんだ!!」となって、再び部屋に戻って、ようやくテープレコーダーの存在がマズイと気付いたのかベッドの下に隠して、ベッドに横たわり強く念じる、、、。

 ……と、ハイ、今度は見事タイムスリプ成功! というわけでした。

 あとは念願叶ってエリーズと出会い、あっという間に恋に落ち、愛し合って将来を誓い合い、幸せの絶頂で、ふとしたことから突然、リチャードだけ現代に連れ戻される。2人は強制的に時空を超えて引き離されてしまったのでした、、、ごーん。。。 「ふとしたこと」とは何かは敢えて書きません、ふふふ。一応、序盤にちゃんと伏線はあります。

 現代に戻されたリチャードは、廃人のようになって、(多分)死んでしまう。そして、あの世で、若く美しいエリーズと再会し、、、というラストシーン。

 いやぁ、、、少女漫画も真っ青なファンタジーラブロマンスでござんした。


◆美男美女だからこそ、、、

 とまあ、かなりシンプルなストーリーで、ツッコミ所も多いが、そんなツッコミは野暮と思えるほど突き抜けているから、却って清々しいとも言える。

 とは言っても、それなりに修羅場をくぐってきたオバサンとしては、やっぱり見ていてちょっと小っ恥ずかしくなるシーンもあり、、、。

 例えば、リチャードが無事タイムスリップし、エリーズに出会うまでのシーンとか、、、。明らかに浮いているダサダサファッションのリチャードが、あちこち訪ね歩いている姿は、まあ、クリストファー・リーブがいかに美男でもかなり滑稽。

 割と感動的なシーンとされている、エリーズが舞台上で台本にないセリフを言ってリチャードへの愛を語る場面も、こりゃちょっと恥ずかしい。いや、まあ、映画なんで良いんだけど、その愛のセリフを聞いているクリストファー・リーブの表情とか、、、、もう見てられない、、、すみません。

 コレはある意味、少女漫画よりも少女漫画な展開である。

 本作が「「カルト古典」映画としてコアなマニアによって好んで視聴され」などとwikiに書かれるのは、しかし、こういう少女漫画チックなところを照れずに突き抜けて描いているからではないかと思う。こんなシナリオ、今時コンクールに出したら一次審査も通らないと思うけど、逆に言えば、こんなシナリオは今時のプロを目指す素人は“書けない”はず。多分、今時は少女漫画でもここまでの激甘なファンタジックラブロマンスは絶滅危惧種なのでは?

 そしてまた、それをファンタジーとして、またラブロマンスとして強引に成立させてしまっているのは、何と言っても、主演のクリストファー・リーブとジェーン・シーモアの2人。この、キラキラな美男美女が繰り広げる悲恋物語だからこそ、見る者は切なくなるのであって、凡庸な容姿の男女が演じていたら目も当てられないはずだ。

 残念ながら、私はそこまで心動かされることはなかったけれど、コアなファンがいるのは何となく分かる。私は、なんだかんだ言っても、少女マンガの金字塔「キャンディ・キャンディ」のコアなファンなのだ。絶版となってしまったけれども(ちゃんと本は持っています。愛蔵版ですが)、この映画に負けず劣らずのラブロマンスもの。だから、本作を好きな人と、根底では通じるモノがあるんだろうと思う。まぁ、私が好きなのは、「キャンディ・キャンディ」というより、テリィなんですけどね。……ま、どーでも良いです。

 クリストファー・リーブは、やっぱり良い役者。こんな小っ恥ずかしい話なのに、素晴らしい演技で見事に世界観を体現している。何度も書くけど、やはりあの美形あっての本作である。

 ジェーン・シーモアの美しさも特筆事項。彼女の他の出演作を見ていないけど、そこまで絶世の美女というイメージはない女優さんだったけれど、本作での美しさは溜息モノである。現在のお写真をネットで見てしまって衝撃を受けたんだけど、ま、それも残酷な現実の一つってことですね、、、がーん。
  
 2人の恋路を何かと邪魔するウィリアム・ロビンソンを演じたクリストファー・プラマーが、なかなかカッコ良かった。最近のクリストファー・プラマーはすっかりお爺さんで、トラップ大佐とあんまし結びつかないけど、本作の彼は今のクリストファー・プラマーに通じる感じがある。まあ、同一人物なんだから当たり前だけど。トラップ大佐もカッコ良いけど、本作のウィリアムもなかなかでした。








私も念じればタイムスリップしてテリィに会いに行けるのか? ……あ、あれは漫画か。




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アイ・フィール・プリティ! 人生最高のハプニング(2018年)

2019-01-13 | 【あ】



以下、公式HPよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 レネー・ベネット(エイミー・シューマー)は、ぽっちゃりでサエない容姿を気にして、自分に自信が持てない。高級コスメ会社リリー・ルクレアのオンライン部門に勤めているが、美しい社員たちが勤める華やかな本社ではなく、チャイナタウンの地下の小部屋においやられ、サエない毎日を送っていた。

 ある日、レネーは一念発起し、痩せるためジムに通い始める。しかし、トレーニング中にバイクから転落!その勢いで頭を強打し、失神してしまう。

 目が覚めたとき、レネーは自分の異変に気づく。なんと絶世の美女に変身していたのだ。しかし、それはレネーの思い込みであり、実際は何一つ変わっていなかった―。
 
=====ここまで。
 
 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 新年劇場鑑賞『メアリーの総て』→『ボヘミアン・ラプソディ』に続くハシゴ3本目。2本目の『ボヘミアン~』は、訳あって(まあ、早い話が世間のノリに着いていけないってことですが)感想文書くのはお預け。3本目にはちょうどよい、軽くて色々考えずに見て楽しめる作品でした!


◆人は見た目が9割。

 “人間、外見じゃない、中身だよ!”……なんて言われてもね。人との出会いにおいて、視覚から入る情報ほどその相手のイメージを形成するに当たって強力なものはない。

 特に、恋愛では、外見から受けるイメージがほぼ全てといっても良いです、私の場合。外見と言っても、“雰囲気”であって、イケメンか否か、ではない(←ココ重要)。なので、第三者から見れば「あんなのの何がええの?」というパターンも当然あるわけで。でも、私はそれで「こんなはずじゃなかった、、、」という大ハズレに当たった経験はなく、というより、100%大アタリだったわけで、、、。つまり逆を言えば、初対面でパッと見「……あ、ダメ、、、」と思った人と、その後、色っぽい展開になったことは一度もない。ちなみに、「ダメ」の大半は、恋愛でなければ別にダメじゃない人だし、私に「ダメ」と決めつけられた人のほとんどは、私に恋愛感情など抱かないのであり、だから、私がダメとかダメじゃないとか無意識のうちに篩にかけていても、人畜無害なのであります。

 そもそも、恋愛に限らず人間関係の基本として、世の中の大抵の人々は、こういう“篩にかける”作用を心の中でしているのでは? していない人なんて、いるんですかね? 「優しそう」「キツそう」「ヤバそう」……etc。だからこそ、「人は見た目が9割」なんて本がベストセラーになるのでは。非常に的を射たタイトルです。

 ただ、その本を読んでいないので分からないけど、「見た目が9割」といっても、それは美男美女であるべき、と言っているのではないんでしょう、多分。美男美女はたくさんいるけど、そうじゃない人はその何倍もいるわけで、そうじゃない人々が、じゃあ、みんな見た目で損しているかというと、決してそんなことはないはず。美男美女こそ、その見た目がかえってアダになるパターンもあるのでは?

 ……ということを、本作は面白おかしく描いているのです。

 外見から受けるイメージがほぼ全て、と書いたけど、それはその人の醸し出す雰囲気であって、本作でもレネーは、失神する前と後で、外見は全く同じなのに、“気持ち”が変わったことで雰囲気もガラリと変わる。失神した後、絶世の美女になったと勘違いしたレネーは、突然、自信を持って、姿勢や歩き方まで変わり、全身から明るさを発するようになっている。発言も、卑屈さがなくなり、そのポジティブさはいささか度が過ぎるとは言え、そこは映画ならではのデフォルメであり自分を肯定することのカリカチュアだと思えば、自分で自分を受け容れることが、いかにその人の雰囲気を変えるかが分かるというもの。

 と書くと簡単なことなのだけど、人間、そんな単純な生き物ではない。鏡を見れば、自分の容姿の程度などイヤでも分かるし、幼い頃から周囲の反応で自分が回りからどう見られているかはイヤというほど経験させられる。ネガティブな言葉を度々吐かれれば、自分を肯定できなくなるのは当たり前。人は、相対的なモノの見方をする生き物だから、どうしたって自分だけでなく、他人でも親でも子どもでも兄弟姉妹でも、回りと比べてしまうのだ。レネーだって、好きであんなネガティブな性格になった訳じゃなく、そういう扱いをされ続けてきたことで、卑屈になり、もう自分ではどうしようもないところまでそれを拗らせてしまったのだ。

 とはいえ、私は、レネーがそこまで自分を否定するほどヒドい外見には思えなかったし、身なりも(センスはちょっと、、、だが)気をつけているし、性格だって決して悪くない、十分、問題なく社会生活を送れる女性に見えた。だから、レネーは一体、何を望んでいるのか??と疑問だったんだけど、まあ、女優並みの美貌を望んでしまえば、世の中のほとんどの女性は自己肯定できなくなっちゃうわね。

 レネーは勘違いによって自己肯定することができ、それによって、イーサンという恋人もゲットし、仕事でも頭角を現し、自信を得ることが出来た。けれど、再び頭を強打し、勘違いの魔法が解けた後は、再び自信喪失のネガティブ・レネーに逆戻りする。

 この、ネガティブ・レネーに戻ってしまってから、ラストまでの展開がイマイチだったので、6コにしたんだけど、もう少し葛藤があっても良かったんじゃないかなぁと思った次第。割とあっさり、ネガティブ・レネーから脱却してしまったのがね、、、。失神前に、あそこまで容姿のために後ろ向きだったレネーが、プレゼンで初めて失神前と後で容姿が変わっていなかったことに気付いて一瞬でポジティブに転換する、ってのはちょっと拍子抜け。というか、プレゼンの場に出ていくこと自体がちょっと???な展開。

 レネーにとって、失神前と後で容姿が変わっていないことに気付くシーンはものすごく重要だと思うから、そこはもっとじっくり、イーサンや親友たち、あるいはエイヴリーとの絡みなどで描いても良かったと思うのね。というか、そうであるべきじゃないかしらん。その重大な事実と、信頼できる人からの信頼できる言葉で、初めてレネーの思考回路に変化がもたらされる、、、という方が、まあ、見ている方は説得力を感じるよね。

 
◆ナンパ男なんか絶滅しろ!

 レネーが、その辺の男たちから粗末に扱われるシーンの数々が、あまりに漫画チックで笑えると同時に、かなり不快でもある。あそこまで露骨な言動をするのかね、アメリカの男たちは。……というか、日本の男たちもそーなの?

 イケメンとそうじゃない人と、私はあそこまで露骨に対応を変えてしまっているかしら、、、。というか、そこまでウキウキするほどのイケメンに、そもそもドラッグストアや街中で出会ったことなんかないんですけど?? 仕事やその他の関係でも、会うのが楽しみなイケメンなんて、幸か不幸か、これまでいなかったわ。まあまあカッコイイくらいならいたけど、話しかけたいとか、気を引きたいとか、、、それとこれは別だしね。

 大昔(20代)に、渋谷でナンパされたことがあるんだけど、私はその日スッピンで髪もテキトー、服装もその辺のスーパーにちょいと買い物、って感じでいたから、ハッキリ言って「お前、女なら誰でもええんだろ!!」と却ってもの凄く不快になった。そんな安っぽく見られたんだと思うと、ムカついたよね。無視してさっさとかわしたけど、たとえ小綺麗にしていてナンパされたって別の意味で不快になったに違いなく、ナンパってホントに失礼だと思うわ。

 だから、本作でも美人さんたちがナンパされていたけど、ナンパする男たちってホント、救いようのないバカだよね。そういう奴らに限って、レネーに失礼な態度を平気でとるんだから。全女性をバカにしていることに自覚がないのもほどほどにしろ、と言いたい。

 レネーが美人に「一度で良いからあなたになってみたい」とか、「あなた、ホントに内蔵入ってるの?」とか言っているのがウケた。でも、一番ウケたのは、やっぱり失神後に、絶世の美女になったと勘違いしてモデルウォークして街中を歩いたり、イーサンを強引に口説いたりしているシーン。同じ人間なのに、あそこまで変わるのかと。最初はイタい勘違い女っぽかったんだけど、それも一瞬で、ビキニコンテストで弾けまくるレネーは、もう圧巻。

 そういう意味では、“人間、外見じゃない、中身だよ!”は真理でもある。それくらい、レネーは、意識が変わっただけで輝いたのだからね。

 アドラー先生じゃないけど、上手く行かないことがあると「この外見だから……」と何かのせいにしている方が楽な側面はあると思う。レネーは、これから生きていく上でイーサンと破局するかも知れないし、仕事でつまずくかも知れないが、これまでみたいに外見のせいにすることはもうできない。そのときこそ、レネーの真価が問われるのだと思う。頑張れ、レネー!!






ミシェル・ウィリアムズが別人みたいで全然分からなかった!!




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悪女(1964年)

2018-09-10 | 【あ】



 以下、上記リンクよりストーリーのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 円城家に新しい女中さんがきた。田中姫子(小川真由美)は福島の貧しい農家に生れ、砂利トラック相手の売春婦にまで身を落した過去をもっていた。だが、砂利トラックの運転手鈴木亀吉(北村和夫)を知ってからは、地道に結婚資金を稼ぐために、弥生家政婦会に所属したのだった。

 円城家は、狭心症で寝たきりの主人礼次郎と、芸者あがりの後妻由紀(高千穂ひづる)、長男のテレビライター英介(梅宮辰夫)、長女の短大生冬子(緑魔子)、それに婆やのしの(浦辺粂子)が、広い邸宅に住むブルジョア家庭であった。姫子にとっては上流家庭の雰囲気だけでも、快いものであったが、礼次郎の莫大な資産をめぐる由紀と冬子の争いには、へきえきさせられた。

 そんな姫子に悲劇が襲って来たのは、冬子の誕生日であった。らんちき騒ぎの末、クジ引きで負けた冬子が、その全裸の代りを姫子に要求したのだ。だがそれは英介の出現で、救われた。前から姫子の肉体を狙っていた英介にはよいチャンスであった。

 思いあまった姫子は、弥生会のはつ(杉村春子)に廃業を申し出たが励まされて、ひとまず亀吉の実家に帰った。だが英介の子供を身ごもったと知った亀吉に追われ、再び円城家に帰った。

 一方冬子は、財産を狙い、礼次郎の命を縮めて英介とも関係をもつ由紀へのはらいせに、姫子を英介の別荘にやり、由紀との三人の対決を仕組んだ。

 数日後、由紀に呼び出された姫子は、二百万円で子供をゆずって欲しいと持ち出された。財産目当の由紀が巧みに考えたことであった。思いあまった姫子は、礼次郎にすべてを話した。だが、礼次郎は、姫子を養女にしようと言った。

 あわてた英介、冬子、由紀の三人は、姫子を誘いだし湖に突き落した。だがその夜、英介は水びたしの姫子によって猟銃で射殺された。姫子の執念が、英介の前に辿りついたのだった。

=====ここまで。

 すごい豪華キャスト、、、、(嘆息)。

 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 先日まで神保町シアターにて「1964年の映画――東京オリンピックがやってきた「あの頃」」という特集をやっていて、『愛と死をみつめて』とか『乱れる』とかはどーでもよいけど、『月曜日のユカ』『五辧の椿』『散歩する霊柩車』なんかは見たいなぁ、、、と思っていて、でも『月曜日のユカ』『五辧の椿』はDVDも出ているし、何よりスケジュール的になぁ、、、と思って諦めかけていたんだけど、ひょっこり平日の昼間に時間が出来て、滑り込みセーフで、本作を見て参りました。

 これは……、見に行って正解! ソフト化して欲しい!!


◆このキャストで面白くないわけない。

 オープニングが、何やら怖ろしげで(スクリーンの右半分に小川真由美の虚ろな表情の顔、左半分に「悪女」とタイトルが入り、小川真由美のあの調子のナレーションが流れるのよ)、これは、一体どんな悪女を小川真由美サマは演じておられるのだろう、、、、と思って見ていたら、ゼンゼン違うやん! え~~っ!! となりました。本作の“悪女”は、小川真由美サマではないよね??

 ……しかしまぁ~、とにもかくにも、今から思えばすんごい豪華キャスト。主役の小川真由美サマにとって、同年の『二匹の牝犬』での緑魔子とのW主演作に続く主演映画。脇を固めるのは、家政婦紹介所の元締めを杉村春子、円城家のドラ息子を梅宮辰夫、姫子の彼氏を北村和夫、家政婦の先輩を浦辺粂子、、、と錚々たる顔ぶれ。

 緑魔子といえば、私にとっては『盲獣』なんだけど、やっぱり本作でももの凄い存在感で圧倒。緑魔子演ずる冬子嬢のキレイな脚を風呂場で愛おしそうに撫で洗う姫子の小川真由美の画は、もう邦画の名シーンの一つと言っても良いと思う。それくらい、この2人が同じ画面にいるのがキョーレツなのであります。

 私の知っている小川真由美は、やっぱし『八つ墓村』のイメージが強く、妖艶で、得体の知れない怖さと貫禄を感じるのだけど、本作での彼女は、ホントに田舎から出て来たちょっとオツムの弱い娘、って感じで、かなり意外。当然、貫禄などもなく、華奢で可愛らしい。金持ち独特の底意地の悪さや些細なことなど、あっけらかんと気にせずに、「わだすは人が喜ぶ顔見ると、嫌なことぜ~んぶわすれるんです~☆」とか言いながら、冬子の脚を泡泡にしながら洗っている姫子は屈託がない。ホントに、小川真由美が可愛い、なんて意外過ぎる。

 ドラ息子・英介に靴を磨けと言われて、靴を磨く姫子に、「君、ボーイフレンドいるの?」と英介が聞くと、姫子は「はい、一人!」なんて無邪気に答える。英介が「一人いれば十分なんだよ!」と大笑いして返すシーンは微笑ましくさえある。

 一方の冬子嬢は、仏文を学ぶ女子大生なんだけど、レズビアンで、しょっちゅう家にガールフレンドを連れ込んでお楽しみに耽るという、この時代にしてはかなり先鋭的なお嬢。緑魔子、ある意味、ハマり役かも。

 冬子の継母・由紀を演じた高千穂ひづるが、いかにも芸者上がりという感じで、おまけに冬子に負けず劣らず性悪なところが笑える。この継母、心臓が悪くてほとんど死にかけて役立たずの夫(円城家の主)を、早く死なせようと添い寝して興奮させ(もちろん出来ない)、その一方で、継子のドラ息子・英介とセックスしているのである。

 まぁ、金持ちの家族が狂っている、っていう設定はありがちだけど、本作の円城家の人々もなかなかの狂いっぷり。しかも、演じているのが緑魔子と梅宮辰夫だからね、、、。そこに思いがけず入り込んじゃった、これまたある意味狂っている田舎娘が小川真由美、、、。面白くないわけないよね。


◆“悪女”とは誰のこと?

 英介にレイプされて妊娠してしまった姫子。そのせいで、彼氏の亀吉には「淫売!」とまで言われて捨てられるんだけど、でも、姫子は(この辺がオツムの弱さを露呈しているんだけど)英介の子を妊娠したのだから、英介と結婚すれば良い、と考えちゃう。使用人など犬猫以下と思っているような人間との結婚を、本気で考えてしまう、、、。亀吉への未練とか、ほとんど描かれていない。

 結局、あれがあってこれがあって、英介に殺されかけた姫子は、逆に英介を猟銃で射殺する。お腹の子の父親でありながら、自分と子どもをもろとも抹殺しようとしたことへの怒りだったのかなぁ。それとも、殺さなければ、殺される、という思いからなのかなぁ。その両方かも知れない。とにかく、姫子は英介を殺し、自首して、刑務所で出産する。

 まあ、中盤から終わりまでは、前半のノリは一転して暗く陰惨な感じになっていくのだけど、詰まるところ、本作での悪女は、小川真由美演ずる姫子ではなく、冬子と由紀になるのではないか。姫子は、飽くまで被害者で、殺されそうになったから殺した、ということを考えると、悪女とは言い難いでしょ。

 でも、あの曰くありげなオープニングからは、どう見ても、姫子が悪女である、と言っているように見えるのよね。この辺が、ちょっと最初の印象と中身がゼンゼン違うなぁ、、、という感想になった所以であります。


◆余談&東京五輪

 緑魔子と梅宮辰夫は、その後もたくさん共演しているらしい。浦辺粂子とは、『盲獣』でも共演している、、、と思ったら、あちらは千石規子だった。すんません。

 小川真由美もそうだけど、この頃の若い女優さんは、皆、ものすごく美しいし、なんというかオーラがある。姫子のような田舎娘を見事に演じていても、やはり端々に見せる美しさは隠しようがない。映画スターという単語がしっくりくる役者さん達である。

 60年代~70年代の邦画を見ると、勢いを感じる上に、挑戦的で見ていてゾクゾクさせられる作品が多いと思う。今の邦画も良い作品はあると思うが、良くも悪くも商業映画が主流で、やはりこの頃の、アバンギャルドさは感じられない。業界がある程度成熟した、という面もあるとは思うが、本作などを見ると、やっぱり何か現在の邦画に物足りなさを感じることは否めない。

 それから、オリンピック、、、。

 東京オリンピックなんて全く興味ない、というより、むしろ、今からでも1,000億円払ってでも返上して欲しいくらい。前回の1964年に東京にオリンピックを誘致する意義は確かにあったんだろうなと思うけど、2020年に東京でオリンピックを開催することに、一体どれほどの意義があるのか疑問。いや、ほとんど意義などなく、ムダだと思う。オリンピックやってる場合か、とさえ思う。

 オリンピック開催中に、東京湾直下の地震が起きたらどーすんの? 津波、確実に湾岸エリアに来ますよ?? そこに、施設がたくさんありますが、どーすんの、避難とか。今の五輪実行委員会の面々が真面目にそういうことを考えているとは、到底思えない。地震なんて来るわけない、んだよね、きっと。でも、来ない保証はないよ??

 ○兆円というお金があれば、今、東京が、日本が抱えている喫緊の課題がたくさん解決できるはずなのに、福島だっておよそアンダー・コントロールじゃないのに。

 私は、東京に住んでいて、あちこちで五輪ポスターを目にするけれど、目にする度に憂鬱になり、怒りさえ覚えます。関心の全くない都民の一人として、オリンピックなど関係なく過ごしたいのに、向こうから強引にやってくる。

 せめて、興味ない人にはオリンピックなど見聞きしなくてすむよう静かに過ごさせてくれ。って……ムリなんだろうな、、、トホホ。







緑魔子、やっぱりイイなぁ~。




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暗殺のオペラ(1971年)

2018-08-30 | 【あ】



 以下、公式HPよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 北イタリアのとある小さな町に降りたつ男。彼の父はかつてこの町でレジスタンスの闘士として活躍しファシストの手によって殺されていた。父の愛人から犯人を突きとめて欲しいと頼まれた男は、父の死の真相を探る為にやってきたのだ。

 当時の関係者に話をききにいく彼。ヴェルディのオペラ“リゴレット”やシェイクスピアの“マクベス”からの引用を散りばめながら語られる父の姿。

 彼はやがて驚くべき事実に直面するが…。

=====ここまで。

 
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 ベルトリッチの若き日の作品。原作というか原案は、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの伝奇集「裏切り者と英雄のテーマ」という短編だとか。意外にも面白かった!!


◆ベルトリッチ、、、今なら立派なパワハラ&セクハラ。

 『ラストタンゴ・イン・パリ』も『ラストエンペラー』も???な作品で、『暗殺の森』は、ううむ、、、という感じの私にとって、ベルトリッチは別に好きでも嫌いでもない監督だったんだけど、数年前に、『ラストタンゴ・イン・パリ』にまつわる不快なエピソードを知って、もともとマーロン・ブランドが嫌いだったこともあって、かなり嫌悪感を催す監督になってしまった(不快なエピソードについては、こちら)。

 これについて、ベルトリッチはいろいろ弁解しているけど、やっぱりこれはアウトだろう。何しろ、マリア・シュナイダー自身が、「マーロンとベルトルッチの両方に少し強姦されたような気分だった」と語っているくらいなのだ。これは、控えめに言って、こういう発言になったのではないかと、私は想像している。こういうやり方を是とし、しかも、「罪の意識は感じるが、後悔はしていない」などと言ってしまう神経が、やっぱりちょっと信じられん。芸術のためなら、他人の尊厳を蹂躙しても良いという発想は、人間としてダメだろう。

 ……と言いつつ、本作をわざわざ台風が関東に迫っている日に見に行ったのは、ボルヘスが原作であること、アリダ・ヴァリが出演していることを知り、しかも予告編の動画にそそられたからである。とはいっても、日本ではあまり知られていない作品だし、大して期待もしていなかったのだが、これは見に行って正解だった。

 ベルトリッチ29歳の作品。TV用映画として作られたらしく、スタンダードサイズだが、緊張感が終始みなぎる映画に仕上がっていると思う。やはり、人間的にはダメでも、映画監督としての才能には恵まれた人だったことは間違いない。


◆これは幻想譚?

 本作の舞台となるのは、“タラ”という架空の町。オープニングのシーンから不穏さ全開で、見ている方も緊張する。アトスが一人歩く町並みは、夏の強い日差しで、白い壁や塀に眩しく照り返すが、人気がなく、地面に落ちる木々の陰は黒々と異様に濃く、暑さがこちらにも伝わってくるような、不気味で手に汗握る描写。時が止まったかのような町の風景は、まさしくキリコの絵そのもの。大昔に見たメキシコ映画『ザ・チャイルド』というホラー映画に出てくる風景にどことなく似ている気がした(本作の方が先に制作されているけど)。

 ところどころにいる人は老人ばかりで、アトスを見ると皆、口々に「お父さんにそっくりだ」と言うのである。父親の胸像まで建っている。それくらい、この町で父親は英雄視されているのである。

 が、真相を探っていくと、実は、父親を殺したのは、ファシストではなく、レジスタンスの仲間達であり、しかも、自分を殺すように父親自身が企んだものだったという事実に行き当たる。さらに、父親はファシストに情報を漏らした裏切り者でもあった。

 その真相に迫っていくまでの描写は、微に入り細を穿つように丹念で、それでいて、見ている者を惑わせる怪しさも十分。ストーリーはシンプルだが、カメラワーク、カット割り、画面の明暗、俳優の立ち位置や動きなどで、実に凝った演出がされていると感じた。

 印象的だったのは、中盤、アトスが昼寝をするシーン。中庭で眠るアトスの衣服をゆるめ、彼を起こさぬようにそっと椅子ごと家の中に引きずり込むのは、アリダ・ヴァリ演ずる父親の元愛人。蚊取り線香を点けてやり、アトスの眠る姿を見て微笑む。その一連の描写が何とも美しく、背景に流れる音楽がまた何とももの哀しい。後で調べたら、この音楽(カンツォーネ)のタイトルは、この後の作品『暗殺の森』の原題(Il Conformista)だという。今は亡き愛する人を偲ぶ歌らしい。

 英雄だと思っていた実の父親が、蓋を開けてみれば、裏切り者で、自らの死を利用する策士だった、、、という、アトスにしてみれば、自分のアイデンティティが根底から覆されるような現実を突き付けられる、何とも残酷なお話だ。

 けれども、ラストシーンは、ちょっと幻想的で、どこかこう、非現実的な描写なのである。冒頭、アトスがタラの町に来たときは普通の線路だったのに、ラストではその線路が草ぼうぼうであり、とても電車が走れる状態には見えない。駅のホームにしゃがみこむアトスもどこか虚ろで、もしかするとこの一連の話は、アトスの(もしくは元愛人の)妄想だったのではないか?? 幻想譚だったのか? と思わせる描写でもある。

 そういえば、前述の昼寝のシーンの前に、アトスは、元愛人の使用人に不思議な飲み物を飲まされていたのだった。もしや、これらの話は、このときの夢物語なのだろうか、、、。それにしては、ずいぶんリアリティがあるようだし、、、。

 こういう、足下を掬われるような、不安に駆られるような気持ちにさせてくれる映画は、嫌いじゃない。何とも言えないモヤモヤ感が残り、気持ち悪さもあるけれど、すっきりしないところが余韻でもあり、いつまでも尾を引く感じが良いのである。

 『暗殺の森』の有名なタンゴシーンがあるが、本作でも、やはりダンスのシーンがあり、前述のカンツォーネのタイトルといい、本作は、ベルトリッチにとって『暗殺の森』の根源的な作品になったのかも知れない、、、などとちょっと思った次第。









アリダ・ヴァリ、、、すごい威圧感。




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悪魔のような女(1955年)

2017-11-29 | 【あ】



 横暴な夫を、夫のモラハラに耐えかねた妻と、その妻公認の愛人が密かに共謀して殺そうとする。愛人も夫にDVを受けていたのだ。

 計画通り、夫を溺死させ、夫が校長を務める学校のプールに沈めるが、数日後プールの水を抜いたら、夫の死体は消えていた。一体どうなっているのか、、、? 怯える妻と愛人。

 愛人は怖れを成して実家に帰ってしまい、一人取り残された妻の周辺で奇怪な現象が起きる。恐る恐る様子を見に行く妻は、バスルームの水が一杯に張られた浴槽に白目を剥いた夫が沈んでいるのを見てしまう!! 殺したはずの、プールに沈めたはずの夫がなぜここに!!!??? 驚きのあまり心臓発作を起こす妻、、、。

 一体どういうことなのだ?!

 ※※本作は、予備知識なく見た方が良いので、未見の方はお読みにならないでください。上記リンクには結末が書かれているのでご注意を!!※※

   
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 午前十時の映画祭にて鑑賞。名作の誉れ高い本作。何度も見ていて、オチも知っているけれども、何度見ても良く出来た映画だなぁ、、、と感心してしまう。さすがに、初めて見たときの衝撃はないけれど、良い映画は何度の鑑賞にも耐えるものなのですね。そして、初めてスクリーンで本作を見ましたが、やはりゼンゼン違いました、迫力が。怖かったです、何度も見ているのに。

 ちなみに、本作を未見の方で、これから本作を見る予定のある方は、絶対にオチを知らずに見た方が良いので、ここから先のネタバレバレはお読みにならないでください。くどいようですが、未見の方、ここから先は読んじゃダメです。


◆クルーゾーの思うツボにハマる。

 観客の心理をここまできっちりコントロールする映画って、他にあるだろうか、、、(いや、ない)。

 本作の場合、最初は、殺人計画が上手く運ぶだろうか、という点に見ている方の興味は向く。そして、計画通りにコトが運んでヤレヤレ、と思うまでにも、途中で夫の溺死体を入れた衣裳ケースのヒモがハズレそうになったり、衣裳ケースから水が漏れているのを目撃されたり、衣裳ケースから死体をプールに投げ入れようとしているところでパッと隣接する建物の明かりが付いて現場が照らされたり、、、と、冷や冷やさせる。

 どうにかプールに死体を遺棄し終えたところで、しかし、まだ映画の半分にも至っていない。つまり、ここからが本作のメインテーマなのだと、誰でも分かる。……ということは、この殺人事件、犯人がどう暴かれるの、、、? と大半の観客は思う。

 しかし、その後、プールの水を抜いたら、遺棄したはずの死体が消えている! ここで、観客は、ただのミステリーではない、なにやら不穏さを覚える。

 おまけに、夫が死んだときに着ていたはずのスーツがクリーニング屋から届けられる。ここで、妻も愛人もギョッとするが、観客は、“え、オカルト……??”となる。そんな、まさか、、、! とも思う。しかし、さらにオカルトが続く。

 学校の生徒の記念写真。背後の校舎の窓に浮かぶ、死んだはずの夫らしき男の顔。しかも、顔の半分くらいが宙に浮いた感じで映っている。妻も愛人も、もう恐怖のどん底に突き落とされる。観客も、え゛、、、マジで何これ、、、? 状態。

 ここで、愛人脱落。怖れを成して実家に帰ってしまうのだから。妻が一人残され、観客は、いよいよ、これから夫の亡霊が妻に襲い掛かるのか、、、!! などと完全にオカルトモードになっている。

 そして、続く怪奇現象。誰もいないはずの部屋から明かりが漏れ、男の影が部屋を横切る。怖いけれど確認せずにはいられない妻の心理に、観客も同調していく。さらに、誰もいないはずの部屋から、今度はタイプを打つ音が、、、。もちろん、誰もいない。

 この辺、見ている者を怖がらせる演出が非常に上手い。現代のCGでありとあらゆるおぞましい映像に慣れているはずなのに、こんなシンプルな演出にゾッとさせられる。これは、モノクロであることも効果を上げていると思う。

 怖ろしさのあまり、走って自室に戻ってきた妻が、心を落ち着かせようと洗面で水を出し、ふと浴槽を振り返ると、、、。ぎゃ~~っ!!

 なんだけれども、この、浴槽で沈んでいる夫が立ち上がる辺りから、観客は、その動きがあまりにも生きている人間そのものであることに、逆にギョッとなる。え、ダンナ、生きてたってこと、、、?? え、どーゆーこと???

 ……と、頭が混乱している最中でも、スクリーンの中では妻が驚きと恐怖で心臓発作を起こし死に、ドサリと床に倒れる。

 ああ、、、妻が死んでしまった! と観客は思うが、すると、今度は夫がごく自然な動きで、目から演出用の白目を取り出し、フツーの夫の顔に戻る。浴槽から出てくると、今度は、何と、物陰から愛人が登場するのである。

 「上手く行った?」と愛人。「ああ、行ったさ」と夫。そして、ひしと抱き合う二人はブチュ~~っとキスする。妻の亡骸の横でね。愛人は夫に「びしょびしょよ」とか言って、なぜか上着だけ乾いたものに着替えさせるんだけど、シャツもズボンもびしょ濡れのままなんだよな、、、。まあ、それはともかく、「これで俺たちは大金持ちさ!」と二人で明るい未来に祝杯を上げそうになったところで、どん底に突き落とす展開が、、、、。

 ……と言う具合に、愛人が再度登場してからエンドマークまで、観客は思考停止状態だ。それくらい、呆気にとられるオチなのだから。

 まあ、途中で読めた、っていう人はこういう作品に対しては必ずいるんだけど、だから何なのさ、と思う。私は読めなかったクチだし、思いっきり、作り手の思うツボにハマって、でもそれでも爽快でさえあるのだから、そうやって楽しめる方が幸せじゃない?

 ここまで鮮やかなオチが用意されているわけだけど、最近の映画にありがちな、観客を惑わせることに終始して中身スカスカのだまし絵みたいな作品ではなく、きちんと細やかな人物描写がなされ、それでいて観客の心理を上手く誘導するという、どちらも両立させているその演出手腕に脱帽である。今時のミステリー映画で、こんな秀作はなかなかお目にかかれない。


◆その他もろもろ

 妻と、妻公認の愛人と、職場である学校でやりたい放題の男・ミシェル(ポール・ムーリス)だけれども、あらすじだけ読めば、一体どんなイイ男なのかと妄想しちゃいそうだが、見てビックリ!! 何でこんな冴えないオッサンが?? という印象は、何度見ても変わらない。どう見ても、愛人ニコルを演じるシモーヌ・シニョレとはバランスが悪い。 何でこの人が、、、。

 ……ということは、みんシネにも愚痴を書いたんだが、今回見てもやっぱりそう思ったんだから仕方がない。どうせなら、もっとちょっと悪そうなイイ男が良かったなぁ。

 シモーヌ・シニョレって、ホント、凄い女優だなぁ、と感服。存在感に圧倒される。本作の中で、彼女は、ラストシーン以外、全く笑わない。大柄で濃い化粧、髪もショートカットで、煙草をくわえて歩き、男たちを見下している感じである。こんな女性と、あんなショボいおっさん、、、嗚呼。

 有名なエピソードだけど、妻を演じた、クルーゾー監督の妻・ヴェラは、数年後に、本当に浴室で心臓発作で亡くなるんだよね(自殺説もアリ)。何やら、因果なものを感じる。

 クルーゾー監督というと、『密告』『恐怖の報酬』など佳作揃いの印象が強い。個人的には『囚われの女』とか、かなり好きだけど、、、。

 でも、彼の撮ったカラヤンのライブ映像は、、、うーむ、イマイチって感じだったんだよね。演奏云々ではなくて、映像が、、、あんまし面白くないっていうか。まあ、カラヤンとの関係も短期で破綻したようだし。とはいえ、これを端緒に、カラヤンはソフト進出に邁進したんだわね。

 他のクルーゾー作品も、また見ていきたい。
 


 








邦題がちょっとネタバレっぽいのがダサい。




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愛に関する短いフィルム(1988年)

2017-06-06 | 【あ】




以下、Movie Walkerよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 19歳の郵便局員トメク(オラフ・ルバシェンク)は、毎晩8時半に、盗品の望遠鏡で向いのアパートに住む女流画家マグダ(グラジーナ・ジャポロフスカ)の部屋を覗き見ていた。次々と違う男を部屋に連れこむマグダに、トメクは執拗に無言電話をかけ続ける。それは、出征中の友人の母親(ステファニア・イヴァンスカ)のアパートに間借りする孤独な少年の、屈折した愛情表現だった。

 彼女に逢うために、トメクは、牛乳配達のバイトを始める。そしてある晩、恋人と別れて一人で泣くマグダを見たトメクは、翌朝、偽の為替通知を彼女のポストに届けた。郵便局に為替を受け取りに来て責任者に罵られた彼女に、トメクは駆け寄って初めて声をかけた。

 「昨日君は泣いていた」。

 彼のしたことを告白されて、マグダは「人でなし!」と叫んだ。その夜彼女は少年を挑発するように男を連れ込んだ。覗き見されていることを彼女に知らされ、男はトメクを呼び出して殴り倒した。翌朝、牛乳を届けに来たトメクに、マグダは「どうしてつけまわすの?」と聞いた。トメクは「愛しているから」と答えた。

 そして、初めてのデート。しかし、マグダの部屋で、トメクはマグダの言う〈世間でいう愛の正体〉を見せつけられ、絶望して部屋を飛び出していった。後悔したマグダは彼に詫びようとするが、少年は手首を切って病院にかつぎこまれていた。彼を住まわせていた老婦人は、「あなたは笑うでしょうが、恋の病です」と言ったきり彼の行方を教えようとはしない。

 その日から、今度は彼女がオペラグラスで向いのトメクの部屋を見つめ、彼からの電話を待つ夜が続いた。そしてある晩、とうとうトメクが退院したことを知ったマグダは、トメクの部屋を訪れた。眠っているトメクと老婦人の傍らから望遠鏡で自分の部屋を覗いたマグダは、泣いている自分と、その肩に少年の手がそっと置かれるのを見た。

====コピペ終わり。

 愛って、、、何なのだろうか???

   
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 しばらくポーランド映画が続きます。

 本作は、「十戒」をモチーフとした、クシシュトフ・キェシロフスキ監督のTVシリーズ『デカローグ』(全10作)のうちの、第6作。ドラマ版は1時間ものだったようだけど、本作は、87分。ドラマ版は未見。噂(?)によると、ラストがドラマ版と本作ではゼンゼン違うとのこと。


◆愛についての短くない観念話。

 上記、あらすじを読んでいただければ分かる様に、本作のメインストーリーは、“覗き”&“ストーカー”。

 で、本作を見て、同じポーランド映画ということで、イヤでも頭に浮かんでしまうのが、2008年公開のイエジー・スコリモフスキ監督『アンナと過ごした4日間』。みんシネではあんまし評判良くなかったけれど、私は結構気に入ってしまった。主人公の男が、ある女性にストーカーするオハナシなんだけれども、これが痛いながらも愛すべき作品になっていて(詳細は忘れている部分も多いが)、あれもまさしく“愛”を描いていたのだと思う。おそらく、スコリモフスキは、本作にインスパイアされている部分が多いのだろうと思われる。

 で、本作で描かれている“愛”なのだが、、、。覗きから始まる愛、ストーカーから始まる愛、、、。

 愛に正しい定義などはないので、別にこれが愛だと言われれば否定する気はさらさらありません。しかし、もし私がマグダだったら、覗いていた若い男を愛しいと思えるか、と想像すると、答えはどうしたって“NO”なんだよねぇ。

 とはいえ、一方で覗きたくなる気持ちも分かる。好きな人の知られざる一面を見たい、と思うのは、人として自然な感情でもあると思う。

 でも、好きだからこそ見たくない、ってのもあるわよね。私は、まあ、こっちだけれど。好きな人の日記が、見てくれと言わんばかりに机上に置かれていたとしても、私は、怖ろしくて見られない。だから、配偶者や恋人のケータイを見てしまう人の心理が分からない。何でそんな怖ろしいことができるのか、、、。そこに、何が書いてあっても受け入れられる自信、、、、私にはナイ。見たくないわけじゃないのだろうけど、それ以上に怖ろしい。

 それに、いたって現実的な感想になってしまって恐縮だけど、やはり、現実にストーカー被害に遭って殺されている人がいることを思うと、トメクの行動を“愛だわ~”と肯定する気にもなれないし、終盤、マグダとトメクの立場が逆転するのも、あれが“愛”だとか言われても、あまりにファンタジーな感じがして、正直なところ、これはいささか脳内で考えただけの観念的に過ぎるオハナシじゃない? と白けてしまう。


◆見返りを求めてはいけません。

 覗きにしても、ストーカーにしても、まあ、感情の一方通行ってやつで、相手の気持ちは度外視している行為だよね。

 この、相手の気持ちを度外視した独り善がりが、相手の気持ちを動かすことになる、という誤ったメッセージを本作から読み取る人もいるんじゃないかしらん。私は、ストーカーではないものの一方的に感情を押し付けられた経験があるので、こういうのを愛だとか描かれるのは、ちょっと受け容れ難いものがある。

 本作で、トメクが覗きからストーカーに転じたきっかけは、マグダがある晩、哀しみに暮れてミルクを瓶からこぼして(覆水盆に返らず)、そのミルクを拭きもせずに指で撫でながら泣いている姿を覗き見したことだ。それから、直接的にマグダに働き掛ける。そこから、話は一気に展開し、マグダがトメクを自室に招き入れ、「愛とはこういうものよ」と言って、トメクに自分の身体に触れさせるだけでセックスもしないまま射精させる。これに傷つくトメクは、自宅に逃げ帰り、手首を切って自殺を図る、、、。

 覗き、ストーカー、セックス、、、。キェシロフスキは、こういった敢えてインモラルなことで、愛を描こうとしたのは分かるけれど、、、うぅむ、という感じ。確かに、愛なんて独善的なものだし、美しいものでも崇高なものでもない。だから、インモラルは良いのだけど、やっぱり、愛ってのは対象があって、双方向性も、ある程度は大事なんじゃないかと。独善的だから一方通行で良い、ってのは、、、なんだかなぁ、と。

 でもって、一方通行が、逆方向に向いてまた一方通行で、交わらないんだよね、本作では。それが愛なんだ、と言われりゃ、まあ確かにそうかも知れない、と言う気もするが、、、。

 ただ、昔、瀬戸内寂聴氏(個人的にはあんまし好きじゃないが)が言っていたけど、愛ってのは、“渇愛”(見返りを求める愛のこと)ではダメである、とか。双方向性は、愛には求めてはいけない、つまり、ひたすら与えるのが愛だ、ということ。

 その説から言えば、ひたすら一方通行な覗きは、まさに、“真の愛”ともいえるかも、、、(!!!)。ストーカーは見返りを求めているからダメだけど。


◆求めよ、されど与えられぬ……それが愛!?

 ……と、下世話なことばかり書いてしまったけれど、本作では、最初は、一方的なトメクの覗きの“愛”に始まって、“愛=セックス”だと思い込んでいたマグダが、トメクの思いに触れて“本当に自分が求めていた愛”を見出す、という、マグダから見た“愛”で終わっている。

 トメクもマグダも、非常に孤独な者同士、傷をなめ合っている感がないでもない。そういうところも、ちょっとイヤかも。それに、マグダの求めていた愛ってのは、詰まるところ、癒やしじゃないか。インモラル全開で来たのに、ラストはあまりにも凡庸じゃない? それも不満かな。

 愛って、何だろう?? そもそも、愛って本当にあるものなのか。見えないけれどあるんだよ、って、金子みすずみたいだ。そういうもの?

 もしかしたら、愛なんて、所詮は全て“自己愛”に帰結するんじゃないか、という気も正直してしまう。

 そういう意味では、私自身、愛など語る資格はそもそもないわけで。

 ただ、ストーカーでもずっとやってりゃ、いつかは相手に思いが通じる、とか勘違いしている人がいたら、それは大間違いだよと言っておきたい。覗きも然り。

 この後、トメクとマグダはどうなるのか。彼らが愛し合う、ということにはならないだろうと思う。トメクもマグダも、それまでとは愛に対する向き合い方は変わるんだろうか。トメクは変わるかな。ドラマ版では、郵便局で働くトメクをマグダが訪ねたところ、トメクが冷たく突き放すというオチだそうだが、まあ、その方が、私的には腑に落ちる展開の様に思う。

 でも、マグダは、、、。余計に辛いその後が待っているようにも思う。セックスにも愛を感じられず、ますます愛に懐疑的になるだけ、、、とか。

 “求めよ、さらば与えられん”とは言うけれど、愛に限っては、あまり当てはまらないような。






覗きは犯罪です。




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雨の朝巴里に死す(1954年)

2016-10-14 | 【あ】



 以下、Movie Walkerのあらすじ要約です。

 1954年5月8日、第二次大戦集結に湧くパリで、チャールズ・ウィルス(ヴァン・ジョンソン)は、マリオン・エルスワース(ドナ・リード)とカフェ・ディンゴで出会い、祝賀パーティに招待された。チャールズはパーティで、マリオンの妹ヘレン(エリザベス・テイラー)に出会い、一目惚れ、、、。チャールズはマリオンの恋心に気づかず、ヘレンと結婚。昼は通信社に籍を置き、夜は小説を書きつづけた。傷心のマリオンはクロオドと結婚する。

 ヘレンは華美な生活を送り、妊娠がその生活を中断させたが、ヴィッキーが生まれるとまた元の賑やかな毎日だった。チャールズの小説は空しく出版社から返送され、続いて執筆した第2作も同様の結果に終わった。失意のうちに第3作にとりかかったころ、チャールズは別の女性と知り合い、第3作の失敗がチャールズを彼女との遊びの世界に駆り立てた。

 その頃、遊びに飽いたヘレンはアメリカに帰って生活をたて直そうとしたがチャールズに拒絶された。女性を誘ってモンテカルロ・パリ間の自動車競争に参加したチャールズが、レースに負けて雨のパリに帰って来たとき、カフェ・ディンゴでヘレンとテニス選手ポール(ロジャー・ムーア)の睦じい姿を発見した。チャールズは思わずポールに喧嘩を売り、怒ったヘレンはポールを連れて出て行った。

 深酒して帰宅したチャールズは、前後不覚に眠りこんで、夜半ヘレンが雨に濡れながら玄関の戸を叩いたことを知らなかった。ヘレンはやむなくポールのアパートを訪れたが落ち着けず、雨の中を姉夫婦の家へ行って倒れた。肺炎だった。ヘレンはチャールズに娘ヴィッキーの将来を託して世を去った。

 数年後、アメリカに渡ったチャールズは小説家として成功しており、マリオンが保護者となっている娘ヴィッキーを引き取りに、パリにやって来た。だがマリオンはヴィッキーを渡してくれず、、、。

 ……あー、長いあらすじだった、、、。要約というか、ほとんどコピペですが。、、、まあ、別に見なくても損しない映画ですね、ハッキリ言って。


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 ワイラー監督『嵐が丘』のDVDを借りたら、2枚組で本作も付いてきました。なので、別に見たかったわけじゃないけど見た次第。


◆リズの眉毛はどうしたものか、、、。

 原作は、あのフィッツジェラルドの小説「バビロン再訪」だそうです。もちろん未読です。きっと、原作はもっと奥が深いんでしょうが、本作は、なんだかなぁ、、、という感じの、どーでもよいメロドラマになっております。

 こう言ってはナンなんですが、主役の男チャールズを演じるヴァン・ジョンソンが、全然ステキに見えないのですよねぇ。好みの顔じゃないってのもあるけど、好みの顔でなくてもカッコイイと思う俳優はたくさんいるわけで、ヴァン・ジョンソンは、まったくカッコイイと思えないし、雰囲気もちょっと愚鈍というか、頭が切れるタイプにはまるで見えないのがツラいところでして、、、。

 やっぱし、映画なんだから、リアリティよりも何よりも、見た目でも楽しませてもらいたいわけですよ、こういう作品の場合は特に。

 一方のリズも、まあ確かに美女には間違いないのですが、別にこの作品に限らずですが、どうしても私は彼女の“眉毛”が気になって仕方がないのです。あの不自然に真っ黒な眉毛。描いているのはいいんですが、眉間の生え際とか不自然過ぎだし。黒すぎ、太すぎ、、、ヘンじゃない? 皆さんはそう思わないのでしょうか??? 彼女の写真、どれを見てもあの眉毛でしょ? 年齢を重ねてからの顔もあの眉毛。もともと濃いのだろうけど、それにしても、、、。とにかく終始、リズの顔が映ると眉毛ばっかし目が行っちゃって作品に集中できません。

 リズのことは好きでも嫌いでもないけれど、正直、以前からあまり品性とか知性とかは感じられないなぁ、と思ってはいましたが、本作でも役柄的なこともあるけれど、やっぱり、、、という感じでした。

 むしろ、私はマリオンを演じたドナ・リードの方が美しいと思いましたねぇ。知的な感じもして、品もあるし。リズより断然好きです、私は。

 、、、というわけで、主役2人に好感を抱けなかったので、作品を見る目にもバイアスがかかってしまったかも知れません。


◆ヘンな夫婦で悪いか!

 ヘレンとチャールズがヘンな夫婦で何なんだ!! みたいな感想をネットでちらほら目にしましたが、この夫婦がおかしくなった直接の原因は、チャールズの小説がなかなか日の目を見なかったことにあると思うのです。もし、3本目の小説でデビューできていたら、あの夫婦は、傍から見ればおかしな夫婦でも、それなりに上手くやっていたと思います。

 夫婦なんて、傍からどう見られていても、本人同士が理解し合って納得し合って生活できていれば良いわけで、そういう意味では、ヘレンが夜遊びしていてもチャールズがそれを大してイヤだと思っていないのだから、別に良いじゃん! と思うのよ。

 しかも、母親のくせに幼児を置き去りにして夜遊びとはけしからん、みたいなことを書いている人もいたけれど、夫が面倒見ているんだからいいじゃん。何で母親が夜遊びしちゃいけないわけ? あの映画の中でヘレンが誰かにそう言われているというシーンがあっても良いけど、現代に生きる人間がちょっと時代錯誤な見方じゃないですかね。父親が毎晩酔っぱらって帰って来てもさして責められないのに、母親だと糾弾されるってのは、やっぱしおかしい。2人そろって育児放棄しているんじゃないんだから、どっちが面倒見てようが夫婦が納得していればいいでしょう

 大体、チャールズは小説を書きたいから、むしろ、子どもが寝た後、妻もいない方が集中できて良いくらいじゃないのか? 実際、作品中でもチャールズは黙々とタイプ打っているだけだったし。

 むしろ、自作の小説が評価されないからって、ヤケを起こして他の女性と親しくなるチャールズの方が悪質だと思いますね。

 、、、というか、まあ、ホントにどーでもいいんです、この夫婦のことなんて。それくらい、見ていて心動かされない作品なので。


◆マリオンの屈折した気持ちが哀しい

 強いてグッと来たのは、マリオンです。マリオンは、もともとチャールズのことをちょっと好きだったけれど、一顧だにされなかった。それで他の男性と結婚した、、、。という伏線があったために、ヘレンが亡くなった後、数年後小説家として成功したチャールズがヴィッキーを引き取りに来ても、頑として渡そうとしなかったのです。

 なんか、この時のマリオンの気持ちは、正直、私には分からないけど、でも、自分の気持ちを蔑ろにされたことへの屈折した気持ちが、こういうところに現れるのか、、、と思うと、哀しかった。

 だって、こういう場合、一番考えるべきはヴィッキーの幸せであり、ヴィッキー自身は父親であるチャールズと暮らしたがっているのです。だったら、普通はヴィッキーの望みを叶えてあげるのが、ヴィッキーを愛する者の行動であると思う。でも、そんなことは百も承知のはずのマリオンなのに、それができないのですから。思ったよりマリオンの心の傷は深かったのだということでしょう。なにより、赤の他人ではなく、実の妹と、チャールズは結婚してしまったのですから。

 映画では、夫に説得されたマリオンは、チャールズにヴィッキーを渡すんですが、原作では渡さないんだとか! それも凄い、、、。さすがフィッツジェラルド。ヴィッキーがチャールズの腕に飛び込むラストシーンは、思わずウルッとなりました。






邦題はなかなか詩的で良いですが、ちょっとネタバレかも。




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嵐が丘(1939年)

2016-10-11 | 【あ】



 嵐が丘に居を構える慈悲深い富豪アーンショウ氏が旅先で拾った孤児の少年ヒースクリフを連れて邸に帰って来る。跡取りの息子ヒンドリーは、ヒースクリフを最初から毛嫌いしたが、妹のキャシーはヒースクリフと親しくなる。アーンショウ氏が亡くなり、ヒンドリーの代になると、ヒースクリフは馬丁に格下げとなる。

 成長したヒースクリフ(ローレンス・オリヴィエ)とキャシー(マール・オベロン)は愛し合うようになっていたが、キャシーは「スラッシュクロス」と呼ばれる上流階級リントン家の邸宅での暮らしを垣間見、憧れるように。リントン家の跡取り息子エドガー(デイヴィッド・ニーヴン)が、キャシーに惹かれプロポーズしたことで、キャシーの心は揺れるものの、ヒースクリフではなく、エドガーを選ぶ。

 ヒースクリフは失意のうちに失踪してしまうのだが、、、。

 エミリー・ブロンテの小説「嵐が丘」を、ウィリアム・ワイラーが大胆に映画化。こってこてのメロドラマに仕上げていますが、結構イケます。


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 『女相続人』に衝撃を受け、ワイラー監督の『ローマの休日』以前の作品を見たくなりました。主役2人をイギリス人俳優で固めながらもアメリカ製。でもそんなことはゼンゼン関係ない気がしました、本作については。


◆期待は裏切られません、、、一応。

 嵐が丘、といえばもうこれは、ヒースクリフを誰が演じるかでその作品価値の半分は決まると言っても過言ではないのでは。本作では、ローレンス・オリヴィエさまでございます。当時32歳のオリヴィエ氏、野性味のある美男子ヒースクリフには、まあ、悪くない(サー・オリヴィエに対し失礼な!)。私のヒースクリフのイメージとはちょっとばかし違うのですが。

 でもって、キャシー役のマール・オベロンさまも、なかなかのキツそうな美女で、イイ感じです。

 この2人が主役なら期待できそう、、、!? 

 結論から申しますと、期待を裏切られることはないと言って良いと思います。もちろん見る人の感性次第ですが、原作を大幅にカットし、ヒースクリフとキャシーの悲恋だけに焦点を当てたのが奏功していると感じます。原作を全部映像化すると、やっぱり4時間とか、6時間とか尺がないと到底ムリですもんね。


◆理想キャストは、ヒースクリフ:DDL、キャシー:HBC、、、なんだよなぁ。

 ただまあ、あんまりイロイロとここに感想を書きたくなる作品ではなかったのですよねぇ。

 それはやはり、原作が鉄板の名作であって、もうその内容について云々することも思いつかないくらい、ストーリーが脳内に刷り込まれているので、今さらそういう視点で批判的に見ることもなかなか難しいです。

 ただ、私は、この「嵐が丘」のオハナシ自体はあんまり好きではなくて、それは、ひとえにキャシーが同じ女性として好きになれないからです。キャシーのキャラは好きなんですが、生き様がね、、、。時代もありますけれど。この小説の魅力は、やっぱり狂気のヒースクリフにあると思います。

 でもって、私の中で評価の定まっている原作モノを映像化した映画であるために、どのくらいその世界観を具現化してくれているか、という点でしか見られない、というのもあります。

 そういう意味では、やっぱし、オリヴィエ氏のヒースクリフは、私にはちょっと違うと思ってしまう。野性味はあって欲しいんだけど、オリヴィエ氏はちょっとゴツ過ぎる感じ。もう少しストイックさを感じて、なおかつ細身な方が良い。、、、そう、私の中では、ヒースクリフは、DDLなのですよねぇ。そして、キャシーは、HBCで。この2人のコテコテ英国版『嵐が丘』が見たかった、、、のです。私の脳内では、その映像というか妄想が勝手に出来上がっているので、どの版の嵐が丘を見ても、物足りなさを感じるのは、まあ当たり前なわけで、、、。

 でも、レイフ・ファインズ&ジュリエット・ビノシュのピーター・コズミンスキー監督版『嵐が丘』よりは、本作の方が良いと思います。やっぱし、ビノシュがキャシーってのは、ミスキャストだったわけで、、、。でも、もう一度見てみたいかも。

 
◆ブニュエル版が見たい!!

 ローレンス・オリヴィエって、こんな顔だったっけ、、、? と思いながら見ていました。なんか、もう少し細面だったような気が、、、。こんなゴツい顔だったかなぁと。

 マール・オベロンは細くてちょっと神経質そうな感じが、ヴィヴィアン・リーに似ている気がしました。キャシーをヴィヴィアンが演じていても良かったかも、、、とか。マール・オベロンも魅力的ですけれど。

 個人的には、エドガー役のデヴィッド・ニーヴンが、あんましステキに思えなくて、、、。ひ弱すぎな感じ。オリヴィエ氏との対比で、ああいう配役にしたのかしらんとも思ったり。まあ金持ちの息子だから逞しいのも違うとは思うけど、もう少し、シュッとした感じの人が良かったな、なーんて。ま、おばさんの寝言です。

 まだ見ぬ、ブニュエル版の『嵐が丘』を見てみたいなぁ。舞台をメキシコに移した作品だとか。メキシコ時代のブニュエル作品はヒリヒリするのが多いから期待できそうなんですけれど。販売もレンタルもないし、、、。幻の映画なのかしらん。見られないとなると無性に見たくなる、、、。






水村美苗著「本格小説」を読み返したくなりました。




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アスファルト(2015年)

2016-09-13 | 【あ】



 フランスのとある郊外にある古びた団地。寒々しい灰色をした外観で、しょっちゅうエレベーターは壊れ、ときどき不思議な(不気味な?)音が響き渡る。そこに住む人々と、空からやって来た宇宙飛行士、ふらりと仮住まいに来た落ちぶれた女優、近くの病院に勤める看護師たちとの、不思議な、心ふれ合うドラマが淡々と語られる。

 ちょっとシュールで、ファンタジックな物語。


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 何かの映画の予告編で見て、面白そうだな~、と思っていたので劇場まで見に行ってまいりました。


◆孤独な人々の織り成す人間ドラマ

 本作に通底するものは、恐らく“孤独”。出てくる人たちは、皆、どこか孤独なのです。孤独な赤の他人同士が、思いがけず心通わせ合う3つのドラマが実に巧みに行き来しながら展開します。3つのストーリーには何のつながりもないけれど、脈絡なく映像が流れる割には、一貫したトーンがあって、全体で一つのオハナシを見ているような感覚になります。これって、ある意味、凄いことなのかも、、、と思います

 主要な登場人物は6人。団地の住人&誰か、という組み合わせで3組、計6人。

 団地2階の住人スタンコヴィッチ&看護師、鍵っ子のシャルリ&落ちぶれた女優ジャンヌ・メイヤー、アルジェリア移民の女性ハミダ&宇宙飛行士ジャン。なんじゃそれ、な組み合わせ。

 でも、集合住宅って、ある意味、なんじゃそれ、な集合体ですよねぇ。いろんな世界の人々がごった煮のごとく居住している空間、それが集合住宅・団地。

 ただ、本作の場合は、空から宇宙飛行士が降ってくるのが、まあシュールと言えばシュールなんですが。

 人間なんて、所詮、みんな孤独なんだよ、、、と言われているような気がしてきます。


◆凸凹な男女たちがそれぞれに展開する心温まるお話

 スタンコヴィッチは2階に住んでいるから、エレベーターの修繕工事費用を出すのを渋る。絶対にエレベーターを使わない約束で他の住民たちと何とか折り合い、費用を出さずに済んだと思ったら、間もなく、足を悪くして車いす生活に、、、。ま、人生そんなもんですよねぇ。いつか足が不自由になる、なんて、今普通に歩ける人間は想像だにしませんから。エゴを通して、それがモロに自分に還ってくる。

 でも、本作はそういうことを説教する映画ではありません。そこから、このスタンコヴィッチの意外なドラマが始まるのです。DVDで『マディソン郡の橋』を見て感化されたのか、深夜の病院で夜勤の看護師(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)に出会うと、自分を「カメラマンで、ロケハンに来ている」などと大嘘を言って、そこから看護師との不思議なやりとりが展開し、、、。

 一番心温まる話は、アルジェリア移民の女性ハミダ&宇宙飛行士ジャン(マイケル・ピット)のそれ。フランス語しか話せない老女と、英語しか話せない宇宙飛行士の青年だけど、なぜか意思疎通がちゃんとできている。ハミダがとても優しくて、最初は警戒気味だったジャンがどんどん心をほぐされていく過程を見ているのが心地良いです。言葉は大事だけれど、言葉だけでは足りないものが、やはり人と人とのふれあいにはあるのだなぁ、と。

 ハミダが「クスクス作るわ!」と言って、「クスクス」を連発すると、ジャンも笑顔になって「クスクス!」と返すシーンとか。そして、ハミダが作ったクスクスを、美味しい美味しいと言って食べるジャン。料理って、人と人との心の距離を縮めたり広げたりするものなんだなぁ、と。

 一番印象的なのは、そら何と言っても、鍵っ子のシャルリ(ジュール・ベンシェトリ)&落ちぶれた女優ジャンヌ・メイヤー(イザベル・ユペール)の巻。シャルリは、高校生だと思うけど妙にクールで、自分よりはるか年上のジャンヌに物怖じすることなく接する。彼女の出演した古い映画を見てその良さを理解したり、彼女が舞台の大役を取り損ねて酔いつぶれているのを優しく介抱したり、歳だけ喰ったオヤジよりもよっぽど大人な男。

 ジャンヌが15歳の役に執着していることに異を唱え、90歳の役の方がよっぽど存在感があると喝破。ジャンヌをその気にさせて、オーディションのための映像まで撮ってあげてしまうという、なんという青年!!

 こんな子が隣に住んでたら、私だったら、ちょっと平常心じゃいられないかも、、、。なんか、全部見透かされているような感じがして落ち着かないわ。


◆“幸せ度”は幸せを感じる能力が高いか否かで決まる

 最終的に彼らはどうなるのか、、、。まあ、あんまり明確な結末というのはないんだけれど、ジャンはNASAがお迎えに来てくれて、団地を去ります。お迎えのヘリコプターが飛び立つシーンが終盤にあるのですが、これがまた、どこか寒々しい団地を背景にしているのに、すごく美しい。

 ただ、団地に響き渡る謎の大きな音の正体は、最後にちゃんと明かされます。なるほどね、、、と。

 そんなに伏線が張られているわけじゃないけれども、ラストに向けて、ちゃんと見ている者の心を満たしてくれるように作られていて、そういうところもgooです。変に予定調和でもなく、悲劇でもなく。

 本作は、好みが分かれるかも知れませんが、でも、とても丁寧に作られた味わい深い逸品だと思います。

 人生とは不条理なことだらけで、悲しいことだらけだけれども、その中にも小さい心温まることや嬉しいこと楽しいことがあって、それを掬い取れる人が、人生を豊かに幸せを感じながら過ごせるのだよ、と言われているみたいな感じがしました。

 
◆その他もろもろ

 ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ、やっぱり美しいですね。もう50過ぎですけど、年齢相応の美しさがあって、くたびれた夜勤中の看護師役なのにオーラがありました。

 宇宙飛行士のジャンを演じたマイケル・ピット、トム・ハーディに何となく似ていて、どこかで見た顔だなぁ、、、と思っていたら、あの『ファニーゲームU.S.A』に出ていたのですね。映画は見ていないけど、ポスターで見た顔だったんだ。フランス語しか話せないハミダとのコントみたいなやり取りがすごく面白かったです。

 イザベル・ユペールは、もう、圧倒的な存在感。彼女が出てくるだけで、画面が締まるというか。なんなんでしょう、彼女。相変わらず、無表情っぽい顔なのに、すごい表現力です。カメラに向かって演技するシーンが、すごくグッと来てしまった。役の上でもだけど、女優として命懸けている、という感じが悲壮感も伴って、それでいて生き生きとしていて、とてもセクシーでした。

 でも、本作での特筆事項は、そりゃあもう、ジュール・ベンシェトリ君でしょうねぇ。監督サミュエル・ベンシェトリの息子さんで、お母さんはマリー・トランティニャン。あの、ジャン・ルイ・トランティニャンのお孫さんってこと。あんましお祖父さんに似ている感じはないけど、すごくキュートなルックスで、中身は大人な男とのギャップが、これまたグッとくる。これは、末恐ろしい若者が現れたものですな、、、。やっぱり血は争えない、ってことでしょーか。








クスクスが食べたくなってしまった!




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