映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

アイガー・サンクション(1975年)

2016-06-30 | 【あ】



 ジョナサン(クリント・イーストウッド)の、表の顔は大学教授&登山家、裏の顔は元殺し屋。

 ある日、足を洗ったはずの殺し屋稼業に再び戻らざるを得なくなる。たった1度だけ、という約束で依頼を完遂するが、その帰り道に美女の誘惑に乗り、再度、殺しをしなければならなくなる。しかも、その舞台は、今まで2度とも登頂に失敗しているアイガー北壁。殺す相手も不明。

 、、、ツッコミどころ満載ながら、まだイイ男だったイーストウッドを隅から隅まで味わえる、イースドウッド・ファンしか楽しめない(と思われる)作品。
 
 

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 もちろん、私は、俳優イーストウッドの半ば信者なので、十二分に楽しめますけれど。、、、一体、何度見たことやら、と思いつつも、BSでオンエアしていたので、ついつい録画して観てしまいました。う~~ん、カッチョええわぁ、イーストウッド


◆すぐにパンツを脱ぐ殺し屋が、アイガー北壁に挑む。

 まあ、正直言うと、本作のジョナサンのキャラは、あんまし好きじゃないんです。イーストウッドが演じる中でのベスト・キャラは、そらもう、ハリー・キャラハンなわけで。ジョナサンは、いくらなんでもマヌケ過ぎで、見た目がカッコイイだけに余計にバカに見えるという、イマイチなキャラです。

 最初の殺しも、びっくりするくらいの杜撰さ。あれでよく敵に気取られずに殺せたよなぁ、、、と。“まあこれは映画だもんね”としかコメントのしようのないお仕事の仕方です。排水管を伝ってよじ登るとことか、後半にあんだけ登山シーンで身体機能見せつけるんだから、別に今やらなくてもいいんじゃない? と、必死でよじ登っているイーストウッドにツッコミを入れてしまいます。

 でもって、女と見ると、すぐに寝るジョナサン。殺し屋なのに、そこまで下半身が緩くてよろしいの? と、またまたツッコミ。ここでも、“まあこれは映画だもんね”と思う次第。

 そして、最大の見せ場のアイガー北壁。確かに、絶壁を上るシーンは手に汗握る素晴らしさ。どうやって撮影したんだろう? と、素直に感動。イーストウッドも絶壁をまたまたよじ登っています。

 で、終盤、こいつがターゲットだったのか……!! とジョナサンは初めてそこで知るんだけど、見ている方は、とっくに察しがついている。サスペンスとしては、イマイチどころか、かなりダメダメな展開。

 イーストウッドがザイルを切る瞬間のドキドキ度といったら!!! 落っこちないの分かっているけど、もう怖くて見てられません


◆映像はさすが、、、なのでは。

 本作は、監督もイーストウッドが務めていて、もう文字通り、イーストウッドの・イーストウッドによる・イーストウッドのための映画なわけです。

 で、内容的にはツッコミだらけなんですけど、映像は、結構素晴らしいと思うのです。技術的なことは分かりませんが、この頃からすでに腕は確かだったんでしょう。

 登山シーンのアイガーを臨むホテルからの眺めや景色の美しさ・明るさ・解放感、対比するかのように青い空が上の方にだけ見えている周囲を岩に囲まれたモニュメント・バレーでの訓練シーン、殺し屋の元締めドラゴンの暗室みたいな部屋でのシーン、、、と、実に画になるシーンがたくさん。内容がスカスカでも、これだけで見応え十分。

 あとは、45歳で脂の乗り切った俳優イーストウッドのカッコイイお姿を拝んでいれば、この作品は、美味しく味わえるのです。

 今回見て思ったのは、この頃のイーストウッドは、マイケル・ヴァルタンにちょっと似ているってこと。知名度的にはゼンゼン違うけど、ヴァルタンを、もう少しごつくした感じでしょうか。顔だけ見れば、ホント、雰囲気がそっくりです。私がヴァルタン教の信者になったのも、まあ、必然だったのかもなぁ、と妙に納得しました。

 ちなみに、ヴァルタンが、『アリー・myラブ』で出演したときの役の名も、ジョナサンでした。すごいどーでもよいネタをすみません。

 イーストウッド氏、今年86歳なのですねぇ。いやぁ、すんごいお元気。創作意欲は枯れることなく、素晴らしいです。あと何本撮ってくれるんでしょうか。いつもに増して中身のない感想で重ね重ねすみません、、、。





あんまし感想を書く気にならない映画です。




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あの日のように抱きしめて(2014年)

2016-03-31 | 【あ】



 ネリー(ニーナ・ホス)は、声楽家だったが、1944年10月に逮捕され収容所送りとなる。

 戦争が終わり、ネリーは強制収容所から奇跡的に生還を果たすが、顔面に大怪我をしており、修復手術を受ける。その際、医者には元の顔とは別の顔を勧められるが、頑なに「元の顔にしてほしい」と訴える。しかし、元通りとは行かなかったのだろう、元の顔に似た顔となる。

 親友ネル(ニーナ・クンツェンドルフ)の協力を得て、少しずつ体力を回復させていくネリー。そこでネルから、ネリーの一族は全滅したこと、非ユダヤ人で生き別れになっていた夫・ジョニーが自分を裏切ったらしいこと、しかしジョニーは無事に生きていること、などを聴かされる。

 手術の痕もまだ痛々しいにもかかわらず、ネリーはジョニーを探しに夜の街を彷徨する。ピアニストだったことを頼りに探した結果、場末の酒場で働いている夫を探し当てるネリー。しかし、愛しい夫は、ネリーを見てもネリーだと分からず、「元妻に似ている女」としか認識しない。そして、こともあろうに、「元妻の一族は全滅したが、元妻だけが生きていることにすれば全財産を相続できる。相続した財産のうち、2万ドルを渡すから協力してくれ」と、ネリーに持ち掛ける。

 衝撃を受けるネリーだが、エスターと名乗り別人を演じつつ、ジョニーの申し出を受けることに。果たして、ネリーとジョニーの関係はどうなるのか。

 ……ジャズの名曲、「スピーク・ロウ」が鍵になります。監督のクリスティアン・ペッツォルトは、ヒッチコックの『めまい』にインスパイアされたと語っているそうです。え゛~~っ。『めまい』なんかよりゼンゼン味わい深く、心に沁みる作品、、、だと思うけどなぁ。

  
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 昨年、公開時に劇場に行きたかったけど行けずに終わった本作。、、、とはいえ、それほど期待していたわけではなかったんです。何となく、ストーリー的にナチものというよりサスペンスっぽい印象だったので、面白そうかな、と思った程度だったので。 

 で、やっとDVDで見ました。……すごく、グッときました。じーん、、、となるといいますか。正直、ツッコミどころはありますが、そんなことはどーでもいいと思っちゃう。

 本作を見て誰もが思うことの一つは、“ジョニーは本当にネリーを愛していたのか、いなかったのか”でしょう。評価が分かれるところのようですが、私なりの解釈は後述するとして、、、。

 ジョンは、エスターを名乗るネリーに、ネリーになりきるためにあれこれ指南します。この辺が『めまい』に通じるところですかね。歩き方、筆跡、髪の色、果ては着るものまで指示します。

 ネリーは、収容所で角材に座らされる拷問を受けていた、と作中語っていましたが、想像を絶する生活で、容貌のみならず、歩き方まですっかり変わってしまっていたのでしょう。ジョニーの求めに応じ、エスターとして、ネリーになるべく歩き方を練習します。しかし、筆跡は、、、練習するまでもなくそのままの文字を書くことが出来ます。ジョニーに筆跡を披露するシーンがありますが、、、。そこで、ネリーと気付いてくれるのではないか、という一縷の望みを抱いて必死で文字を書くネリーの姿がひたすら切ないです。

 どうしてジョニーは気付かないんだ! というツッコミを入れる人もいるでしょうが、私は気付かないのも不思議ではないと思うのです。どうやら、ジョニーは、保身のためにネリーをナチの秘密警察に売ったようなのですが(ハッキリは分からない)、そのことに対する激しい負い目と、あの収容所から生還してくる訳がないという強烈な思い込みが、ジョニーを現実に向き合わせることを遮っていたのでしょう。そういうことってあるんじゃないかしらん。だからむしろ、思い込みのない以前の知り合いは、ネリーを見てすぐにネリーと判別できたりする。一番、ネリーの身近にいたジョニーだけが気付かない、気付けないのです。負い目と思い込みが彼の心の眼を大いに曇らせてしまっていたのです。

 そして、ネリーは、ただひたすらに、ジョニーに気付いてほしかった。それがムリだと悟ってからは、新たな関係でも良いから、ジョニーの側にいて共に人生を歩みたいと切に願ったのでしょう。だから、健気にジョニーの残酷ともいえる要求に従っていたのです。彼女の気持ちも、振る舞いも、理解できてしまう私って、もしかしてドMでしょーか??

 ジョニーは、ネリーを愛していたらナチに売らないだろう、という疑問もあります。でも、それはネリー側から見た言い分。ジョニーはユダヤ人ではなく、ネリーをギリギリまで匿っていたし、追い詰められた状況で、最終的には自己保身に走ったとしても、それがネリーを愛していなかったことの証明にはなりません。究極の自己犠牲を伴わなかったのです、ジョニーのネリーに対する愛は。だからと言って、彼にとって、妻はネリーじゃなくても良かったわけではない。それは、今、孤独に生活していることを見れば察しがつきます。

 こういう人っているでしょう。別に責められることじゃありませんよ。私だって、自分が殺されるかもしれないというギリギリの状況で、それでも自分は死んでも、相手を助けたいと心底思えるかと聞かれれば、怪しいもんです。つい、その場で、相手を売るようなことをしてしまうかも知れない。そして、その直後には死ぬほど後悔するけれど、死ぬ勇気もなく、、、。それが一人の弱い人間の真の姿じゃないでしょうか。わが命と引き換えの究極の自己犠牲を伴ってまで愛する人を守る、というカッコよさだけが真の愛だなんて、愛の解釈が狭すぎると思います。

 なので、私は、ジョニーなりにネリーをちゃんと愛していたのだと思いました。ネリーの望む愛し方ではなかったかもしれないが、愛していたと思います。

 ジョンがネリーに指南する場面で、実にネリーのことをよく見ていたことが分かるのです。歩き方、喋り方、彼女の好み、、、。そして、ネリーの書いたメモや雑誌の切り抜きまでとってある。何より、彼には新しい女がいない。ネリーと生き別れてそれなりに時間が経っているのに、まるで女っ気のない粗末な部屋で孤独に暮らしている。あのルックスでピアノが上手ければ、女に不自由するとは思えない。

 それもこれも、こうなることを見越して、いざとなったらネリーの一族の財産をせしめようという魂胆からの行動、、、と捉えようと思えばそれもアリでしょうが、彼はそこまでの悪党ではないように思います。エスターを名乗るネリーにも極めて紳士的だしね。

 ここから、ネタバレになります。

 果たして、ジョニーの企みは成功するのか。、、、もちろん、しません。ジョニーの知り合いたちの前で、感動の再会を演じた後の食事会。ジョニーは、エスターがネリーだと遂に気付くのです。気付かせたのは、ネリーがその場で歌った「スピーク・ロウ」と、ジョニーが着せた赤いドレスの袖口から見えたネリーの腕に刻印された収容所での囚人番号。

 ピアノで伴奏していたジョニーの手が止まります。そして、ネリーは独唱する。その光景に、呆然としているジョニーの知り合いたち(おそらく彼らはジョニーの企みを知っている)。

 「スピーク・ロウ」の歌詞が、なんとも2人の関係を微妙に映していて、ニクい演出です。ご興味のある方は歌詞を検索なさってください。

 ネリーは、“I wait...”の部分で歌うのを止めて、静かに立ち去ります。果たしてこれをどう解釈するか。私は、ネリーは、結局、ジョニーの下を去る決断をしたのだと解釈しました。なぜなら、、、
 
 歌詞は、この後「愛していると囁いて」と続くのにその前で止めていること。去る時の映像が激しく焦点がぼけて光の中に赤いドレスが消えていくこと。彼女は振り向きもせず、ジョニーに視線を送りもせず去って行ったこと。、、、等々からそう感じました。何より、その直前で、親友のネルが自殺してしまっています。そして、ジョニーが、ネリーの逮捕直前に離婚届を出していたことを証明する書類を遺書代わりに残していたのです。この出来事に接して、ネリーの心は決まったのだと思います。

 ラストシーンが、あまりに悲しく、胸に迫ります。あのバッサリとした幕切れ。もちろん、解釈は人それぞれですが。私がネリーでも、やっぱり、ジョニーとはもう一緒にいられない、、、と思うのではないかな。愛していても、何か、足下から崩れていく感覚だったのだと思います。

 「スピーク・ロウ」、、、良い曲です。いろんな人が歌っているようなので、聴き比べて、本作の余韻に浸りたいと思います。





駅のシーン、ニーナ・ホスの真っ赤な口紅が印象的。




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アンジェリカの微笑み(2010年)

2015-12-21 | 【あ】



 写真が趣味で石油関係の仕事をしているイザクは、ある晩、唐突に、亡くなった娘の写真を撮ってほしいと、町の名家ポルタス家の執事に頼まれる。頼まれるまま、ポルタス家に向かったイザク。

 居間の青いソファに横たわるのは、ポルタス家の若い娘アンジェリカ。花嫁衣裳のような白いドレスに身を包み顔には微笑を浮かべており、まるで眠っているような死顔である。イザクは請われるままにカメラを向け、ファインダーをのぞいたその瞬間、アンジェリカの大きな瞳が開いたかと思うと、イザクに向かってほほ笑んだのである。ギョッとなるイザク、慌ただしく写真を撮り終えるとポルタス家を飛び出す。

 しかし、イザクはこの瞬間からアンジェリカに恋してしまったのである。翌朝、現像したアンジェリカの写真を見ると、再びアンジェリカは目を開けてほほ笑んだ。驚くイザクだったが、、、。

 今年106歳(!)で亡くなったオリヴェイラが1952年に脚本を書いた作品。制作にあたり、書き直されたとのこと。
 
 
 
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 ポスターを見て、これは見るべし! と勝手に思い込んで、オリヴェイラが好きな映画友と一緒に見てまいりました。もっと混んでいるかと思いきや、劇場はかなりがら~んとしており意外。

 以下、ネタバレなので悪しからず。

 で、見ての感想は、と言いますと、、、。幻想怪奇譚ではあるけれど、鏡花みたいなゾクゾク感はあまりなく、割とおとぎ話っぽい感じに私には思えました。まあ、ラスト、イザクは死んでしまいますので、おとぎ話にしてはちょっと生々しいかも知れませんが。

 内容的に書くことはあまりありません。ストーリーは極めて単純で、あとは、ポルトガルの風景がとても美しく、また、葡萄畑で歌いながら働く農夫たちの姿が印象的です。

 単純に解せば、イザクはアンジェリカという美しい死神に魅入られた、そして、結果として命まで捧げてしまった、、、ということなんだろうけど。身も蓋もない解釈をすると、イザクは生真面目青年ということでちょっとばかしウツっぽかったところへ、アンジェリカがほほ笑んだような錯覚(妄想)を見たことで、ますます精神のバランスを崩し、心身ともに憔悴して亡くなった、、、ということかも。こう書くと、夢もロマンもありまへんな。

 お化けのアンジェリカが夜眠っているイザクのところに現れ、2人は抱き合って夜の空を浮遊、、、というか、飛びます。このときの2人はモノクロームで、やや稚拙な(わざとだと思うが)CG映像により、むしろ幻想的な画になっています。川面スレスレのところを嬉しそうに抱き合って飛ぶ2人。もの凄い風にアンジェリカの髪がなびいています。そのスピード感がちょっと怖い。どこかシャガールっぽいけど、でもちょっと違うかな。そう思って見るからかもだけど、やはり本作の方が悲壮感のようなものが漂っている感じがする。シャガールが飛んでるのって、大抵喜びの象徴だもんね。あんまし好きじゃないけど、シャガール。

 でもまあ、ある意味、イザクは幸せな人生の終え方をしたとも言えます。妄想の中とはいえ、好きな女性と抱き合ったまま昇天したのですから。死ぬ瞬間、何を感じるかなんて、死んだことがないので分かりませんが、こういう風に死ねるのは理想的かも知れません。その時、私を迎えに来てくれるのは、玉木宏みたいなイケメンだったらイイな~、なーんて。いや、死んでしまった柴犬のクロの方が嬉しいな。クロが迎えに来てくれたら、幸せだ、、、。

 もともと、1952年に書かれた脚本では、イザクは迫害を逃れてポルトガルまで来たユダヤ人という設定だったそうです。本作でもイザクはユダヤ人ですが、設定は現代なので迫害から逃れてきたわけではありません。でも、迫害から逃れてきた、というのであれば、この話は何となく私には腑に落ちる感じがします。つまり、やはり精神的に追い詰められていて、彼は幻を見た、そこに救いを求めた。現実逃避だけれども、だからこそ、美しいものを見て魅入られてしまう、、、。心も体も弱っているときだからこそ、そういう幻を見てしまう。何か、そっちの方が怪奇幻想譚としては好きです。舞台を現代にしない方が良かったんじゃないかな、、、と思いました。

 アンジェリカを演じたピラール・ロペス・デ・アジャラは、確かに美人なんですが、彼女が初めてイザクに微笑むシーンの笑顔が、、、、ちょっとコワい。口元がもの凄いインパクトがあって、美しいには違いないんだけど、なんつーか、、、違う意味でコワいと私は思ってしまいました。

 あと、イザクが住んでいたアパートの大家さんのおばさんがイイ味出していました。おばさんの飼っているネコも可愛かった、キジトラっぽくて尻尾がすごい長くて。






101歳の感性、、、恐るべし。




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愛なき女(1951年)

2015-12-16 | 【あ】



 古美術商の夫カルロス・モンテロと、歳の離れた妻ロサリオは、あまり仲が良くない。そもそも貧しい家の借金肩代わりでロサリオはカルロスと結婚したようなものだった。カルロスは一家の主として威張っており横暴、幼い息子カルリトスが学校で盗みを疑われ傷つき帰宅したところを、息子の言い分も聞かずに頭ごなしに怒鳴るような男である。

 カルリトスはそれで絶望し、家出をするが、彼を保護して家まで連れ帰ってくれたのが、林業を営むフリオという若い男だった。フリオとロサリオは惹かれあい、不倫の関係に。しかし、ロサリオは駆け落ちには踏み切れず、フリオは彼女の下を去って行く。

 果たして20年後。カルロスとロサリオには、カルリトスともう一人、ミゲルという息子が大人になっており、2人とも医師になった。2人してカルロスの援助で診療所を開く計画になっていたが、カルロスの都合がつかなくなり計画はご破算に。

 そこへ、ある男がミゲルにかなりの額の遺産を残したという知らせが入る。ミゲルはそれを元手に開業しようとする。面白くないカルリトス。しかもミゲルは、カルリトスが思いを寄せていた女性と婚約、結婚までしてしまう。

 カルリトスは、ミゲルの遺産話に疑問を抱き、ミゲルの出生に秘密があると勘ぐる。そして、母ロサリオが夜中にフリオの写真を見て涙するのを目撃し、それは確信に変わるとともに、母への怒りを抱くのだが、、、。

 ブニュエルが自身のサイアク作品と評した作品とのこと。、、、まあ、でもこれよりヒドイ映画はゴマンとありますけどね。

 
 
 
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 そこまでヒドイ作品と言われると、逆に見たくなるのが人の情、ってもんです。

 んまぁ、確かに、グッとくるものは何もない映画でした。ベタベタなメロドラマは別にいいけど、なんか、すご~く表層的な作品、という印象です。ストーリーだけ追っているような感じ、というか、、、。登場人物、誰にも共感できないしなぁ。カルリトス(覚えにくい名前だ)は、ちょっと気の毒な気はするけれど。

 話が途中で一気に20年飛ぶんで、最初??という感じになります。ミゲルなんて息子が出てくるし。え、あの後、出来たってこと? つまりそれって、、、? と思ったら案の定、ミゲルはフリオの息子ということで。

 紹介サイト等には、カルロスが20年前のロサリオの不貞を知っている、と書いてありますが、作品を見る限り、私にはそうは思えませんでした。ミゲルに突如遺産が転がり込んできても、カルロスは単純に喜んで「フリオはやっぱりイイ男だ」みたいなこと言ってるし。大体、あの手の男が、余所の男の子どもをそうと知っていて育てるなんて考えられません。どう見ても、ロサリオの胸に秘めたことだったと思われます。

 でも、普通、あんな唐突に遺産もらったら、誰だってオカシイと思いますよねぇ。何でカルロスは疑わないのか。ミゲルも。

 カルリトスと、ミゲルが、終盤カルロスが亡くなった後に、ミゲルの出生の秘密を巡って直接対決するんですけど、そこへロサリオが現れ、過去の不倫について涙ながらに「私が愛したのはフリオだけ!!」とか言って暴露すると、それに胸打たれた息子2人はあっけなく和解、、、という訳分からん終わり方です。母親の不倫話暴露って、却って揉めるんじゃないですかね、こういう場合。「愛してた」ってのが免罪符なんですかね?

 というわけで、ストーリー的にも見るべきところはあんましないかなぁ、、、。ロサリオみたいな女は、私が一番嫌いなタイプだし。不義の子ミゲルは遺産は入るわ、好きな女性と結婚できるわで良いとこどり。正統派のカルリトスは不遇、、、ってんで、人生の不条理を描いている、ってことですかねぇ。それにしては浅いけど。

 しかし、、、これがあの『忘れられた人々』の翌年に撮られたなんて、信じられん。うーーん、書きたいと思うことが、ホント見当たらない作品です、、、ごーん。

 





なんだかなぁ、、、が正直な感想。




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愛のタリオ(2014年)

2015-08-24 | 【あ】



 ソウルの大学で教授職にあったハッキュ(チョン・ウソン)は女性問題を起こして田舎町へ追いやられる。失意の中で出会った田舎娘ドク(イ・ソム)に束の間の癒しを求めるハッキュ。しかし、思いのほか早く大学に戻れることに。さっさと身の回りを片づけソウルにもどるハッキュ。

 ドクはしかし、ソウルまで追ってきた。追い詰められるハッキュ。金で解決しようと、ドクの家まで行くのだが、ハッキュの姿が現れたことに喜びのあまり火の始末を怠り、ドクの母が眠るドクの自宅は火に包まれる。現金の入った袋を渡され呆然とするドクとハッキュの目の前で燃えるドクの家、、、。家に戻ろうとしてハッキュを振り返るドクの眼差しは、その後のハッキュの行く末を暗示する。

 韓国に伝わる「沈清伝」という話がベースらしいです。

 
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 劇場で見そびれて、DVD鑑賞ということに、、、。まあ、DVDで十分だったかな。

 韓国映画はあまり見ない方なんで、偉そうなことは言えないんだけど、こないだ見た『ハウスメイド』といい、本作といい、何とも後味の悪い作品でございます。イケメンで地位もカネもあるけど身勝手な男の性欲の捌け口にされた挙句に、あっさり捨てられる若い女性。まあ、韓国に限らず世界中にゴマンとある話ですけれども。

 分かっていたけど、濡場のシーンのスゴイこと。あそこまで描写する必要ってあるの? ネットリ、じっとり、すんごいしつこい。これでもか、これでもか!みたいな、、、。見ていてだんだん、うへぇ~って感じに。そして相変わらずムキムキの男優。大学の文学部の教授が何であんな体してんのさ。そら、マッチョな教授がいてもおかしくないけど、うーーん。

 同じ文学部教授が若い女性と好き勝手やるという設定の映画なら、『あの胸にもういちど』が思いつくけど、アラン・ドロンの体はブヨブヨとかじゃなかったけど、チョン・ウソンほど鍛え上げてもいなかった。あれはあれで??な映画なんだけど、ラブシーンは本作より露出度が低い割に官能的だったと思うなぁ。

 しかし、その最初の濡場のシーンがですね、実はかなり怖いんですよ。田舎のおぼこ娘ドクが、喘ぎながら言うんです。「絶対離れない!!」って。私が男だったら、間違いなくここで萎えますね。でもって、パンツ履いて逃げ出すと思うんですよ。怖すぎです、真っ最中にこんなこと言う女。しかし、ここでそうならないハッキュ。一瞬動きは止まるんだけど、その後、ますます盛り上がって(?)腰の動きの激しさが増しています。大丈夫か、この男は。、、、ま、大丈夫じゃないから話が成立するんだが。

 捨てられた挙句に、家と母親を火事で失ったドクは、ハッキュに復讐するんですが、それが本作の後半です。妻がうつ病で自殺し、自分は糖尿病が悪化し目が見えなくなるハッキュの下に名前を偽ったドクが現れ、あの手この手でハッキュを追い詰めていくわけですが、、、。まあ、この復讐劇は、あんまし見ていても面白くないです。結局、ハッキュの娘に、ドクはまた復讐されますしね。

 そう、復讐劇って、私は個人的にあんまし好きじゃないんですよね、、、。ものによりますけどね。松本清張の「霧の旗」とかなら、まだ復讐したくなる気持ちも分からないでもないけれど、それでも、逆恨みだもんね、あれも。復讐劇って見ていて不快なんですよ、つまり。復讐する方には復讐するだけの理由があると思っているけど、客観的に見れば、説得力がないという、、、。そら、本人にさえ理由があれば復讐になるという見方もあるけど、それこそただの逆恨みなわけで。

 しかも、復讐って連鎖するでしょ。復讐された側にしてみりゃ、お前もお前だろ!ってことで、今度はこっちがお前に復讐してやる、と。どこかで誰かが「バカバカしい」と気付くまで続くわけです。

 こう思うのは、私が復讐したいほどひどい目に遭ったことがないからだ、と突っ込まれるかも知れませんが。でも、何十年も生きてきたらイロイロありますから、復讐劇に仕立て上げることができるネタくらい一つや二つ、フツーにありますよ。でも、しないだけです。世間の大抵の人はしないのです。本能的に感知しているからではないでしょうか、そんな後ろ向きなことにエネルギーを費やすことの虚しさを、です。

 ドクは、そういう意味では、ちょっと安っぽい女性になっちゃってて残念。復讐に現れたはずなのに、目が見えなくなったハッキュとまたセックスしてるし。まあ、まだハッキュのことが好きだったんだろうけど、、、。

 女性が、自分を振った男に復讐する話としては『オネーギンの恋文』は小気味良いものです。そう、男に、自分を捨てたことを激しく後悔させること、これが最上の復讐ではないでしょうか。もはや自分がその男の手の届かないところにいる、そしてその現実に打ちひしがれている男を高見の見物、、、。気持ち良いだろうなぁ~。そんな経験、もちろんないけど。

 どうせ復讐劇なら、そういうアッパレなのが好きです、私は。





一歩間違えば三流ポルノ映画。




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アメイジング・グレイス(2006年)

2015-05-11 | 【あ】



 18世紀、大英帝国の繁栄を支えていた奴隷貿易に、真っ向から異を唱え、執念の活動の末に、遂に奴隷貿易廃止法案を成立させたウィリアム・ウィルバーフォースの物語。

 タイトルの「アメイジング・グレイス」は、奴隷貿易船の船長だったジョン・ニュートンが、牧師となって作詞した讃美歌のこと。この讃美歌、好きなのですが、てっきり、アメリカ南部が発祥かと思っていました、、、。


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 これは、数年前に劇場公開されていて、見に行こうかどうしようか迷っている間に終映となってしまい、BSでオンエアしていたのを録画して1年以上放置していたため、このGWにやっとこさ見たという次第。制作は、06年だったのですねぇ。日本公開までかなりタイムラグがあったのはなぜでしょう。分かりませんが。

 さて、ほとんど期待しないで見たのですが、なかなか素晴らしい作品でした。奴隷貿易廃止にまつわるオハナシということくらいしか知らなかったのですが、讃美歌「アメイジング・グレイス」がかようにして作られたのだと知り、驚きました。本作を見るまで、てっきり、アメリカ原産だと思っておりましたので、、、。

 余談ですが、ジェシー・ノーマンの歌う「アメイジング・グレイス」のCDをたまたま持っているので、久しぶりに聴いてみました。彼女は、ソプラノ歌手ですけれど、この歌は、ソプラノの歌じゃない気がします・・・、何となく。また、本作中で歌われている「アメイジング・グレイス」のメロディと若干違います。作曲者は不明とのことですが、出所については諸説あるようです。まあ、何であれ、非常に美しいメロディで、一度聴いたら忘れられませんよねぇ。意外に歴史が浅い歌だと知り、それも驚きでした。

 信心深く、かつ、信念に基づき行動し続ける高潔な男が、主人公ウィリアム・ウィルバーフォースです。いわゆる貴族階級ではなく、商家の息子とのこと。ヨアン・グリフィズが好演しています。ずっと見ていると、岡田准一に見えてきます。岡田君の顔をちょっと横に広げた感じ。眉間に皺を寄せて苦悩している顔は、髪型も服装もゼンゼン違うのになぜか官兵衛に見えてきます。

 このウィルバーフォースとケンブリッジで同級生だったウィリアム・ピットを、ベネディクト・カンバーバッチが演じています。20代で首相になり、40代で病死するまで、地味ですが、要所要所の大事なシーンに出てきます。この数年の彼の俳優としての飛躍振りが感じられます。

 ウィルバーフォースの妻バーバラを演じるのはロモーラ・ガライ。彼女は、『エンジェル』のインパクトが強すぎて、あんまし良いイメージがなかったのですが、本作では知的で美しい、理想的な妻を嫌味なく自然に演じていて、あら、こんなステキな女性だったのか! と嬉しい発見です。

 何しろ、20年あまりの話を120分弱に収めたわけですから、ストーリー的にはかなり駆け足で、予備知識がないと分かりにくい部分も多いです。かくいう私も、1度見た後、ネットでちらほら調べた後、再見して、ようやく全体が分かった次第。でも、1回見ただけで、ウィルバーフォースとピットの友情、二人の人柄、バーバラの魅力は、十分伝わってきました。

 本作は、奴隷貿易がメインテーマでありながら、奴隷の描写はほとんどありません。実際、当時の英国人は黒人奴隷を実際に目にしたことはほとんどなかった様子。アフリカで買われた奴隷たちは、西インド諸島の砂糖精製農場へ売られるために送られていたのであって、大英帝国本土へ売られてきた訳ではないのでした。だから、英国人たちがその実態を知ることはなかったのも道理です。奴隷商船が時折、リバプールの港に入ってきて、その悪臭に鼻をひん曲げることくらいしかなかったわけです。でもその悪臭を嗅がせるだけで、富裕層の一部には効き目があった。それほど、その悪臭は、奴隷貿易が凄惨極まるものであることを想像させるに難くなかったのです。

 これを機に(というか、ほかにももっと啓蒙活動をウィルバーフォースたちが懸命に行ったからですが)、砂糖を摂取するのを止める人が大勢現れます。現在でも、フェアトレードという言葉が一般化していますが、まあ、それと同じことでしょう。

 でも、奴隷貿易廃止法案は、こんなことではゼンゼン通る気配すらなかったんですよねぇ。

 突破口は、一見、全く関係のない法案を通したことにありました。この突破口を思いついたのは、ウィルバーフォースではなく、彼と共に活動していた弁護士です。やはり、弁護士。策士です。恐らく、この奇策がなければ、法案成立は何年も遅れていたと思います。その奇策とは、、、。

 「アメリカ国旗をつけたフランス貨物船は保護しない」という法案を、通すこと。貨物船を装った奴隷船は海賊よけのためにアメリカ国旗を掲げている、この保護を撤廃すれば貿易は利益が出ないため、船主は船を出さない、というもの。なぜフランス船か、ナポレオン率いるフランスが脅威であったイギリスにとってそれが目くらまし法案のキモ。実際の法案は「一度でもアメリカ国旗を掲げた船」とすればイギリス船も該当し、つまり奴隷船の8割は航行をやめる。ただし、これは、奴隷貿易反対派が出してはダメで、保守派に出させなくては目論見がバレてしまう。一瞬バレそうになりながらも、なんとかこの法案を通したのでした。

 で、しかし、奴隷貿易廃止法案が実際に通ったのは、その2年後、、、。可決されたその議場で、奴隷貿易推進派だった議員2人の会話が印象的です(セリフ正確じゃないです)。
 「これが、ノブレス・オブリージュだ」
 「どういう意味だ」
 「高貴な者が庶民の英知を尊ぶということだ」
はて、これをどう解釈したら良いのでしょう。今、一般的に解釈されている「ノブレス・オブリージュ」とは、「高貴な者には重い義務が伴う」というような意味でしょう。ちょっとニュアンスが違います。本作では、ある種、負け惜しみ的に発せられたセリフなのかも知れません。

 実はこのシーンには伏線があり(と私は解しました)、ウィルバーフォースが39万人の奴隷貿易反対署名を議場で広げるのですが、これに対し、推進派議員が「庶民の意思など無意味だ。統治するのは支配階級だ!」と叫ぶのです。この傲慢なセリフに対する、自問自答がこの会話なのではないか、と。

 それはともかく、脇を固める俳優さんたちも、大御所揃い踏みです。「アメイジング・グレイス」の作詞者ジョン・ニュートンをアルバート・フィニー、奴隷貿易廃止法案に途中から賛成派と転じる議員フォックスをマイケル・ガンボン、ウィルバーフォースと共に活動するトマス・クラークソンを ルーファス・シーウェル。う~ん、豪華。

 こういう歴史絵巻は、冗長になりがちですが、本作は、その辺、なかなか上手くさばいていると思います。予備知識があった方が絶対分かりやすいとは思いますが、、、。
 

 



ラストのウェストミンスター寺院前でのバグパイプによる
「アメイジング・グレイス」演奏シーンがグッとくる




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愛して飲んで歌って(2014年)

2015-04-03 | 【あ】



 ジョルジュが癌だって・・・。

 と、かつてジョルジュと何かしら縁があった女たち3人は分かると、何かと彼に関わろうとする。でも、当のモテ男ジョルジュは一度も顔をスクリーンには出さないから、どんだけイイ男なんだよ、って分かんない。

 が、3人の女たちの話を聞いていると、イイ男かも知らんが、トンデモな男でもあることが分かって来る、、、。3人の女全員を(もちろん別々に)旅行に誘っていることが判明し、あまつさえ、そのうちの1人の女の娘(16歳)にまで誘いを掛けていたんである。

 そうやって女たちがわーわーやっている横で、その夫たちはオロオロするばかり。
  
 アラン・レネの遺作。

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜

 
 結局、おしまいまでジョルジュは出てこないんです。分かってましたけど、一体、どんな男なのかと、却って興味を掻き立てられますよねぇ。ま、一見しちゃえば、なーんだ、こんなんかよ、ってなるのが分かっているので、敢えて出さないのは正解ですが。

 もともと戯曲だったものを映画化した作品ということで、映像も、ハリボテセットをバックにした、舞台そのものです。途中、暗転代わりに、車窓からの実写風景に登場人物たちのそれぞれの家の書割イラストがオーバーラップする、という感じです。

 まあ、私は、映画は好きだけど、演劇ってあんまし興味ないんですよね。舞台とか観劇に行ったことも数えるほどだし。なんていうか、見ていて入り込めない、というか、、、。もちろん、映画だって作り物には違いないんだけれども、やっぱり舞台は箱庭的というか、、、(「というか」ばっかだなぁ)。

 でも、本作は、何となく興味をそそられて、仕事帰りに見てきました。

 で、まあ、感想は、一言でいうと、やっぱし舞台劇だよね、ってことでした。どうして、こういう舞台劇をまんま映像化するのか、その意図が、私には分からないのです。折角「映像」というツールを使うのですから、そのツールの持つ可能性を最大限使わない理由が分からない、というか、、、(また「というか」を使ってしまった)。

 話の筋はそのままでも、別に、もっと違う手法はあったろうになぁ、と。どうせならそっちを見たかったかな。

 まあ、でも、この場合、観客をこの劇に集中させるために、こういう形を選んだんでしょうから、そこをとやかく言っても仕方ないのよね。

 話自体は面白いと言えば面白いけど、「女vs男」みたいな感じがして、ちょっとイヤだったかな~。「こういうとき女ってやつは・・・」とか、「こういうとき男って・・・」とか、そういう声が聞こえてきそうな。「女と男の違い」という切り口で描き分けるのって、ちょっと陳腐な気がする。これは、大分前に見たキアロスタミの『トスカーナの贋作』でも感じたことだけど・・・。巨匠と言われる人々が敢えて陳腐に手を出す、、、うーん、何故だろう。

 そりゃ、違いますけどね、女と男は、明らかに。でも、それは肉体的、生理的なモンであって、こういう陳腐感を抱いてしまうのって、つまり「男脳・女脳」みたいな、トンデモ系の似非科学の匂いのする、もっと言っちゃうと「バカ」っぽいんですよね。巨匠に対して、とんだ暴言、失礼。

 私は女だけれども、登場人物の女3人誰にも共感できませんでした。正直、まあ、劇だから面白いとは思うし見ていられるけど、アホらしい、と思っちゃいました。どうせ、男だ女だ、とやるんなら、むしろ、ジョルジュは女にすべきで、それを知ったかつて関係のあった3人の男たちがその女に関わろうとして鞘当てする、って方が、まだアホらしくなかったかも。だって、それこそ、男の人の方がロマンチストなんでしょ? ま、癌で死にそうなシワシワの婆さんじゃ、オハナシにならないってぇなら、50歳を前にあんまりヤツレない病気で若死にしちゃいそうな美魔女にするとかサ。手はいくらでもあるじゃん。どうせ姿は見せないんだし。

 ラスト、ジョルジュと本当に旅行に行ったのは、16歳の娘でした。でもって、ジョルジュは旅先で死ぬみたいなんですが、本当の最後の最後に、この娘がチラッと登場し、ちょっと謎めいたシーンが用意されています。これをどう解釈するか。

 はて、、、。私、正直言って分かりません、今も。見てから1週間近く経つんですけど。まあ、ホントにブラックにするんなら、16歳の娘がジョルジュを葬った、ってことかなぁ、という気もするんですが。でも、まあ、あんまし深く考えることでもないような。

 アラン・レネ作品は難解難解と言われてばかりで、ついつい手が出ずじまいで、今まで見たことないんですが、映画友がもの凄く好きだそうなので、これを機に、ちょいちょい見てみようかな、と思っております。
  





アラン・レネの遺作。初めて、アラン・レネ作品を見た私。




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明日へのチケット(2005年)

2015-02-04 | 【あ】



 ある列車に乗った人々の、列車内でのせいぜい数時間でのできごとを描写するだけで、その人々の人生を垣間見せる、これぞ映画の真骨頂的な作品。

 キアロスタミ、ローチ他1名、計3名の監督による連作。

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 リンク先の本作の紹介文には「オムニバス作品」とあるけれど、正確にいうと、オムニバスとは違うかと。一つの作品になっていますので。構成上、3幕に分かれている、って感じですかね、舞台でいうと。

 で、第1幕。正直、うーん、あんまし好きじゃないというか。老人が、美しい中年女性に恋心を抱く、、、っていう設定だけで、ダメでした。うーん、、、まあ、分かりますよ、美しい女性に優しくされて、ちょっと勘違いさせられるような言葉を言われたら、そういう気持ちになってしまうのは。でもねぇ、、、なんかダメでした。老人を演じた俳優さんのルックスがダメだったのかも、という気もします。

 というわけで、私が心に残ったのは、第2幕と、第3幕でございました。

 第2幕は、キアロスタミによるものです。とにかく、ここで出てくるおばちゃんが、すんごい不機嫌なわけです。最初から、フキゲン。理由は分かりません。ただただ不機嫌。イライラし、人に当たり散らすのですね。

 一緒にいる青年は、最初、誰もがこのおばちゃんの「息子」と思うでしょう。もちろん、私もそう思って見ていました。すると、途中でそうでないことが分かります。このおばちゃんと青年の関係の明かし方が実に上手いなぁ、と。

 青年は、兵役義務の一環として、将軍の未亡人=おばちゃんの付添いをしていたのです。で、未亡人=おばちゃんは、亡き夫=元将軍の1周忌の墓参りに行く途中だったというわけです。・・・もちろん、これで不機嫌の理由にはならないのですが、おばちゃんが笑顔でない理由には十分なります。

 傍若無人なおばちゃんに、青年は実に従順に仕えているのですが、終盤、彼の中で何かがプツンと切れたのでしょう。おばちゃんを足蹴にして去ってしまいます。もちろん、列車内なので、どこかにはいるはずなのですが、おばちゃん、必死になって探すも見つけられず、、、。

 下車駅にて、おばちゃんは一人、途方に暮れています・・・。

 続く第3幕は、ローチによるもの。これは、ローチらしいというか。扱ったのは、アルバニアからの移民家族と、英国からの旅行青年3人組。3人のうちの1人が、列車の切符をなくします。

 慌てる3人は、どこでなくしたか、思い出すうちに、食堂車で移民の青年にサッカーの試合のチケットを見せたことを思い出し、そのチケットと切符を財布に入れていたことから、移民の青年が盗んだのではないか、という疑惑が生まれます。

 、、、果たして真相は。

 ローチのアプローチ(ダジャレではありません)は、相変わらずシビアでして、見ていてドキドキします。3人のうち、一番、移民青年を疑い、移民家族にキツく当たっていた青年が、最後にした選択が、ローチらしからぬような・・・。でも、『ジミー、野を駆ける伝説』にも書いたけれど、初期作品ではいかにもな「救い」はほとんどなかったのに、この辺りでは既に「救い」があるものを描いていたのですね。

 で、ラスト、ローマ駅に着いたとき、3人の青年たちと、移民家族、それぞれ無事に列車の旅を終えるのですが、駅を歩く人ごみの中には、第2幕で消えた青年もちゃんと歩いています。、、、と言う具合に、この作品は3幕で一つの作品なのです。

 第2幕のおばちゃんを見ていて、私は、ちょっと反省しました。パートナー(以下、Mr.P)に対する日頃の態度を、、、。

 子どもの頃、ヒステリックに喚いている母親を見て「何であんな言い方するんだろう・・・?」としょっちゅう思っていて、さんざん反面教師にしてきたはずなのに、ふとした瞬間に、私自身がMr.Pに母親とおんなじ口調で小言を言っていることに気付くのです。そして自己嫌悪に・・・。その度に、いかんいかん、と思うのですが、Mr.Pが、ゴミを床に捨てっぱなしにしていたり、タオルは広げて掛けておいてと何度頼んでも棒状に掛けてあったり、玄関に靴がハの字に脱いであったりするのを見ると、つい、冷静さを欠いてしまうのです。あのおばちゃんの不機嫌な佇まいは、私のそれと同じだ・・・、と。

 がしかし、そう思った、その日の夜に、また私は同じことをMr.Pにしておりまして、ゼンゼン反省していないことに、またまた気付きました。ま、この先も、自己嫌悪との闘いの日々なんだろうなぁ、、、。24時間、日常的に不機嫌なわけじゃないのですが・・・。

 日常的に不機嫌な人、というのは、やっぱり、精神的に何か問題を抱えているのだろうと思います。そしてそれは自分の力じゃどうしようもないこと、ではないかな。自分のコントロールの域を超えたところにある(と本人は信じている)ものに、苦しめられているのでしょう。

 でも、傍から見ると、それは、自分の心持次第でいくらでもコントロール下に置くことができるもの、ってことも。

 しかし、人生は、そんなコントロールできるものばかりじゃなく、そもそも、不条理そのものだ、と言っているのが第3幕なのです。出自なんて、本人に何の責任もありません。生まれた国が、あるいは、家庭が貧しかった、というだけで抱える不条理。これを、ローチは容赦なく描いています。

 、、、いや、3幕とも、人生の不条理さが通底しているのかも知れません。一番、表面に出ているのが第3幕であるとは思いますが。第2幕のおばちゃんも、第1幕の老人も、不条理を抱えて、折り合いをつけたりつけられなかったりしてきたのです。それが実に切れ味良く描かれています。

 多分、若い頃に見ても、ふーん、、、で終わっていたであろう作品です。味わい深い逸品です。




人生とは不条理なり。




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悪魔の発明(1957年)

2014-11-27 | 【あ】



 ジュール・ヴェルヌの古典名作と言われる原作を、信じられないような実写&アニメーションの融合映像で描いた大傑作。

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 今、神奈川県立近代美術館(葉山館)で、「東欧アニメをめぐる旅 ポーランド・チェコ・クロアチア」と題した展覧会を開催していて、先日、はるばる行ったのだけれど(感想は後述)、その前に、有名な本作を見ておこうかな、という程度で見てみた次第です。

 ・・・が!! これが、まあ、すごいのなんの。のけぞってしまいました、ハイ。

 モノクロなのですが、素晴らしい美しさ! 背景に版画のような、線が基調の細か~い描写の絵があり、そこに、人間が実写で配されています。なんだか、人間がアニメの一部に見えてくるのです。あの人たち、絵じゃない? みたいな。でも、普通に動いているんです。

 先日見た『天才スピヴェット』が“飛び出す絵本”なら、こちらは、“動く絵本”といったところ。

 とにかく、そのアニメーション技術に目を見張ります。どうやって撮ったのだろう・・・。と思って、ネットを検索したら、ちらほらありましたけれど、まあ、折角だから色々詳しく知りたいなぁと思い、こりゃ、展覧会が楽しみだ! と期待値がいやがうえにも高まってしまった訳です。

 でも、展覧会でのゼマンのコーナーはほんのちょっとで、肝心の撮影技術に関する展示はほぼゼロ。がーん、、、。

 おまけに、チェコといえば、シュワンクマイエルだと勝手に思っていた私は(展覧会概要でも紹介されていたんだもん)、彼のアニメの原画でも見られるかと思っていたら、それもなく・・・。え゛~~、、、。

 というわけで、まあ、展覧会にはいささか失望したのですが、しかし、本作は本当に素晴らしいです。ストーリーも、60年近く前という制作時代を思うと、考えさせられる部分もありますが、それよりなにより、やっぱり映像の美しさ、緻密さ、素晴らしさ、これに尽きるでしょう、本作は。

 ツタヤでレンタルできますので、アニメ好きの方も、そうでない方も、是非ご覧ください。見て損はありません。

 

絵本が動いている、そんな感じ。




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悪童日記(2013年)

2014-10-21 | 【あ】



 美少年の双子。戦時、父親は戦地へと趣き、愛する母親に連れられ、町中から田舎暮らしの母親の実家・祖母宅へ疎開してきた。美しい母親の実母とは思えぬ容貌の祖母、おっかないのはその容貌だけじゃなかった・・・。
 
 並はずれた知力と生命力で過酷な疎開生活を生き抜く双子。引き離されるのが死ぬほど辛い二人は、しかし、ある選択をする。突然の幕切れ。

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 原作が好きだという映画友のお誘いで、快晴のお散歩日和の休日に映画館へ・・・。

 何より、主人公の双子くんが、私が原作を読んで抱いていたイメージよりちょっと大きかった。あれは日本で言えば中学1年生くらいじゃないかな。原作では、もう少し下の、小学4~5年生くらいの感じを受けていたのだけれど。

 しかし、中身に関しては、かなり原作に忠実です。よく映像化できたなぁと感心します。一つ原作と大きく異なるのは、おばあちゃんの見た目ですね。原作はやせ細っているのですが、本作ではかなり恰幅の良いおばあちゃんです。でも、まあ、魔女って言われていてもおかしくないルックスです。

 キョーレツなのがこのおばあちゃんなんですが、まぁ、それは原作どおり。双子が絶食している最中に、贅沢にも鶏の丸焼きを作って一人でムシャムシャかぶりつく。その食べ様と言ったらありません。ホント、魔女っぽい。『エレンディラ』で毒入りケーキをムシャムシャ食べる祖母を思い出しました。

 原作の、日記調を上手く生かしながら、映画ならではの「映像で見せるお話」も展開されており、原作ファンを裏切らない出来になっていたのではないでしょうか。

 私自身はそれほど原作ファンではないけれど、映画としては結構イイなぁ、と思いました。戦時下の暗い空気がどんより垂れ込めた薄ら寒い光景が、気持ちをどよ~んとさせる一方で、憎らしいまでに賢い双子の生き様にどこかスッとするのです。

 双子たちのやっていることは、もちろん、えげつないこともあります。一方で、優しさを見せもします。果たして、それが本当に彼らの優しさなのか、それさえも分かりませんが。とにかく、その辺の大人より遥かに頭が良いのです。

 戦争の悲惨さは容赦なく日常に溢れかえる、けれども、決して悲惨さ一色ではありません。

 非常時でも、当たり前だけれど、人間はそれぞれに生きているのです。双子たちはもちろん、おばあちゃんも吝嗇に徹しつつ隠した宝物を眺めてはほくそ笑んだり、我が子を疎開させた美しい母親は父親と双子のいない間に赤ちゃんを産んでいたり、おばあちゃん宅に間借りしているゲイの将校は部下とお楽しみに励んだり、、、みんな「生活」しているのです、戦火の下で。どこか緊張感はあるけれど、別に皆、絶望している訳じゃない。楽しみも悲しみもフツーにある生活をしているのです。

 その昔、もの凄く悲しくて、もう動く気力もないほど絶望していたのに、時間がたったら「腹が減っている自分」に、もの凄くショックを受けたことを思い出しました。そう、人間てそういう生き物なのです。

 双子たちも置かれた環境で、もの凄く逞しく生きています。そして、彼らは彼らにしか分からないある選択をするわけですが、ここでラストシーンなので、見ている方は「え゛ーーー」なのよね。まあ、これも原作どおりといえばそれまでですが・・・。

 この続編といわれる「ふたりの証拠」「第三の嘘」については、私は読んでいないので、双子の先行きは分からないけれど、本作を見たらちょっと読みたくなってしまった、、、。

 双子を演じた本物の双子くんは、本当に美少年の双子で、それがよけいに本作全体に厳しさを際立たせている感じです。



これぞまさに“恐るべき子供たち”




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あの胸にもういちど(1968年)

2014-08-14 | 【あ】



 へー、これがあの噂の、全裸にライダースーツの映画ですか。確かにセクシー、、、。

 この作品を一言で紹介するとなると「全裸にライダースーツを着たレベッカがひたすら抱かれたい男に会いにハーレーぶっ飛ばして、結局事故っちゃう映画」でしょうか。最初からラストは見え見えですね、、、。

 こういう作品の場合、中身をとやかく言うのは野暮ってもので、マリアンヌ・フェイスフルが可愛いだの、アラン・ドロンは相変わらず美しいけど品がないだの、そういうことを突っ込みながら見れば楽しめる訳です。ハーレーってあんな簡単に乗りこなせるもんなのか、とか、レベッカの親父はあまりにもバカなんじゃないか、とか、、、、。罪のない突っ込み方は一杯あります、はい。

 本作で一番印象に残ったシーンは、そりゃ、やっぱりラストでしょう。でも、それを言っちゃぁおしまいよ、ってことで、次点のシーンとなると、私の場合は冒頭でしょうか。冴えない夫はサーカスの舞台の真ん中で場違いなチェロを弾いています。きっとあんまり巧くない。子どもたちに笑われている。で、そこに颯爽と現れるハーレーに乗ったダニエル。もう、これだけで、なんて残酷な描写だろうと思いますね。それはもちろん、この続きを見て初めて理解するわけですが。

 ここが本作の象徴みたいなシーンだと思います。結局、危険な香りのするシュッとしたイイ男に若い女は惹かれるんだろ? みたいな作り手のノリ。自分を気遣ってくれる優しさより、強引な身勝手さの方が良く見えんだろ? だろ? って言ってるみたい。

 ばーか、そこが男の浅知恵なんだよ! と言ってやりたい気もするが、まあ、そう言いたくなる男の気持ちも分かるので、そこまで捻くれたツッコミは入れないけれど(入れてるか)。

 まぁ、若かろうが歳とろうが、人間は基本的に愚かですから、こと色恋においては学習しない傾向が強いと思います。若くても、別に危険な香りのする男なんか興味ない女性もいますしね。歳とっても(とったからか)若いことばかりを女に求めるオッサンもいます。だから、まあ、私のうがった見方かも知れませんけど。

 ダニエルが大学教授、って設定がムカつくんだよねぇ。やり過ぎじゃない? 売れない物書きくらいにしてよ、せめて。

 そうそう、監督のジャック・カーディフは、あの『赤い靴』の撮影担当だったのですね。『赤い靴』は3年前、デジタルリマスター版を劇場で見ましたが、素晴らしかった! 道理で、映像がなかなか斬新で面白い訳でした。

男の妄想&思い込み全開作品
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あなたを抱きしめる日まで(2013年)

2014-04-09 | 【あ】

★★★★★★★☆☆☆

 内容は悲惨で重いのに、作品自体の持つ雰囲気は優しくチャーミングです。これも、ひとえに主人公フェロミナを演じるジュディ・デンチの素晴らしい演技によるものだと思います。

 アイルランド、カトリック、修道院、、、とくれば、必然的に思い出すのはあの『マグダレンの祈り』。アイルランドの持つ、こうした負の遺産は私の想像以上に大きいもののようです。マーティンがカトリックに対し「クソくらえ」と言い放つ気持ちも分かるというもの。

 しかし、フェロミナは、そんな修道院を恨まず、過酷な現実をありのまま受け入れるのです。苦しいけれども、自分の中で消化しようと努力します。その葛藤が実によく描かれています。誰も、何も責めることなく、現実が導かれたすべての物事を赦すのです。彼女のラスト近くのセリフ「赦しには大きな苦しみが伴う」が全て。本作のキモです。

 ・・・とまあ、良い作品なのは確かなのですが、どうも私にはグッとくるものがありませんでした。実話なだけにストーリーにご都合主義も破綻もない、気の利いたセリフはあるし、ユーモアもある、役者の演技はバッチリ、映像もなかなかキレイ、、、といった具合にオールAなんだけど、A+が1個もない、という感じかなぁ。あまりにもキレイにまとまり過ぎというのか。引力が足りない。

 それにしても、宗教って何なんでしょうかねぇ。結局は、人間の観念が生み出したものだと思えば、あらゆる矛盾は致し方なしと思えるのですが。まあ、人は弱い生き物ですけれど。でも、信仰が自分を強くしてくれる、と話す人もいるわけで。何が正しいかなんて信じるモノによって全然違ってくるし。本作の後味の良さとは裏腹に、何とも言えない不可解な気持ちを抱えて家路に着きました。多分、この不可解さは、私が何かの信仰を持たない限り、死ぬまでつきまとうんでしょうな。・・・やれやれ。
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赤ずきん(2011年)

2014-03-23 | 【あ】

★★★★★☆☆☆☆☆

 赤ずきんというと、私は、澁澤龍彦の訳した『長靴をはいた猫』 (河出文庫)に収められている『赤頭巾ちゃん』がすぐ思い浮かんでしまう。 片山健の挿絵が何とも言えないグロテスクさを湛えた素晴らしく印象深いものであり、また、各童話の末尾に澁澤自らによる「教訓」が記されているという逸品である。

 ・・・というわけで、赤ずきんのその後、という触れ込みも相まって、澁澤版のをイメージしてしまったのがいけなかった。およそ、その世界観は似ても似つかぬ本作であった。これはこれで、一応、ミステリー&ファンタジーにはなっていると思うけれど。序盤の展開で、男を惑わす女に成長した赤ずきんの妖女ぶりが軽めのエログロの世界で描かれていくのか、という期待は見事に裏切られ、単なる謎解き話になってしまったのが残念。

 赤ずきんの話がベースとはいえ、赤いフードを被った女性が主人公で、おばあさんの家に行くため森を抜けたり、狼の腹に石を詰めたりと、話の部分部分を切り取ったシーンはあるが、元の童話の寓意性は一切なく、そこも残念かな。挙句、赤ずきん本人が狼族の者であったというオチで、ここまでくると、ちょっとトンデモ映画に近い印象になる。

 そもそも赤ずきんの話は、もの凄く性的な意味を持つ話であって、それが一切無視された作りであるところが大いに不満。主人公のアマンダ・サイフリッドも、私の目には、お世辞にもセクシーとは映らず、これは子どもが見ても何も問題のないただのファンタジー映画で、くどいようだけど、残念。まあ、美術や映像は美しかったので、プラス★1コ。
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アフタースクール(2007年)

2014-03-07 | 【あ】


★★★☆☆☆☆☆☆☆

 BSオンエアを何となく録画してあったので見てみました。ゼンゼン予備知識なし。

 まぁ、面白くなかったとはいいませんが、こういう、隠し玉みたいな映画は、あんまし好きじゃないですね。間違いさがしみたいな感じで、見た後になーんにも残りませんもの・・・。もっと若いころに見ていたら、純粋に「巧いな~」と感心できたのかも知れませんが。

 これは好みによると思います。何を映画に求めるかという。私の場合、やっぱり、見た後に何でもいいから心に残るものがあってほしい訳です。セリフでも、画でも、音楽でも、役者さんの一瞬の表情でも、とにかく何でもいいから、胸に刻まれてほしいんですが、本作はそれがない。「え、、なにこれ、どーゆーこと・・・?」だけで最初から最後まで引っ張られても、もちろん、それだけで最後まで着いては行けますが、終わっちゃったら、それでぜーんぶおしまい、っていうのは虚しいです。

 この監督さん、『鍵泥棒のメソッド』の方なんですね・・・。あちらは、冒頭5分ほど見そびれましたんで、感想はまた全部見た時に書きたいと思いますが、こういう作風でずっと行かれるおつもりなんですかね。ただ、『鍵泥棒~』の方が、まだ人間臭さがあって良かったですけれども。ぜひ、そちらをもっと探求していただきたいですね・・・。

 こういう、邦画で、ネタで勝負的な、ストーリーの捏ね繰り回し系の火付け役は、私は三谷幸喜だと思っております(もちろん彼は劇作家としては天才だと思いますし、とても尊敬していますが)。まあ、三谷作品は、『有頂天ホテル』でいい加減嫌になってそれ以降見ていないので、最近のはどうかわかりませんけれども。この監督さんが三谷の二の舞にならないと良いなぁ、と思いますね。次回作が鍵でしょうか。
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