★★★★★★☆☆☆☆
某全国紙の土曜版で取り上げられていたのを読んで、見てみました。ちなみに原作未読。
さすが、40年前の映画、皆さんお若い! そして、街並みや行き交う人々の様子に懐かしい昭和がありました。いやはや、昭和51年て、こんな風だったのね。
さて、本作です。順が父親を怒りにまかせて殺してしまったのは、割とありがちなんですが、その先の展開が恐ろしい。順の母親は、なんと、血の海に横たわる夫の亡骸を前に、「一緒に2人で暮らそう!」と嬉しそうに順に言うのです。もちろん、初っ端だけは一応動揺を見せるのですが、その後の息子への言動は、もう母親ではなく「女」全開。これは怖い。そして、その母親を市原悦子が、鬼気迫る芝居で見事に演じており、驚嘆します。
その後、母親をも順は殺してしまうけれども、作品中、これといった「殺しの直接的理由」は描かれていません。作品中では、父親にも母親にも、自分の好きな女性を頭ごなしに否定され、父親には、生きる道をあれこれ指図される程度のことしか描かれていないのですが、これで十分、順が両親に相当の抑圧を感じていたことだけは分かります。苦労して家業を軌道に乗せてきた両親、成田空港が出来たおかげで所有の不動産価値が跳ね上がり、親として我が子に威張りたくなるのは、もの凄くありがちで、言ってみれば「凡庸そのもの」な親です。ここで、大抵の子どもは、物理的に親から離れ、どうにか親殺しという最悪な選択だけは避けて通るのですが、順は親離れする機会すら与えられず(もちろん自らもそのチャンスを生かせなかったんだけれども)、こういう事態に陥った訳です。
そして、肝心なのは、ケイ子の描き方です。この女性、というか、この子のことを、もの凄く中途半端な感じに描いているように思います。もちろん意図的に。中途半端にならざるを得ない女というか。家に居場所はなく、学はなく、男に張り付いてしか生きられない女、だけれども、もの凄くシタタカで図太い女、しかも、たかだかハタチになるかならないかという童顔の、でも、体と男に対する立ち回りだけは十二分に大人な女。これは、順の母親と同じくらい怖い。思うに、順は、こういう恐ろしい女を選んでしまう男だったんだろうな、と。息子に対して女を全開にする母親に育てられて来て、そりゃ、歪まない方がおかしいでしょ。この設定がかなり説得力アリだと思います。
子の自立を奪う親、ってのは、本当に、この世における「最大の悪しき存在」と言っても過言ではないと思いますね。殺したくなるのはよく分かる。でも、実際殺しちゃうのは、分からない。自分の人生棒に振るほどの値打ちのある行動とは到底思えませんから。そんな親、「棄て」れば良いのです。いや、それこそ葬るのです、心の中で。つまり、「忘れる」ということ。難しいけれど、苦しいけれども、できますよ、努力すれば。でも理不尽なことには変わりありませんね。そんな親の下に生み落されたおかげで要らぬ「努力」を強いられるのですから。
なかなかの力作には違いないのですが、何で星が6個かというと、おそらく編集で大事なシーンがかなりカットされたであろうことがうかがわれるからです。どこかこう、ブツ切りな感じで、流れが悪いというか。桃井かおりや地井武男の存在はほとんど意味がないですし。という訳で、ここで星マイナス2個ってところでしょうか。
しかし、長谷川監督作品は、『太陽を盗んだ男』もそうだけれど、独特のドロッとしたエネルギーを感じますねぇ。怒りでしょうかね、これは。監督自身の。そろそろ、また怒りを発散させた方がよろしいんじゃないでしょうか。怒りは、溜め込むと良くないですから。