映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

世界で一番美しい少年(2021年)

2022-01-02 | 【せ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv75182/


  ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』(1971)で、あの美少年タジオを演じたビョルン・アンドレセンの、映画公開後から現在までの軌跡を追うドキュメンタリー。
 

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 新しい年が明けました。今年は寅年。トラといえば、大分前に流行った「動物占い」で、私はトラでした。その特徴やら気質やら書かれていることを読むと、まあ、割と当たっているかなぁ、、、と思ったものの、むしろ玖保キリコの絵が可愛くて、キャラとして気に入っていました。懐かしい、、、。

 今年はどんな年になるのやら。“疫病”は収まるのでしょうか。もはや、マスクが顔の一部と化している気がします。収束宣言が出て、マスク解禁になっても、マスクしないで出歩くことに、しばらくは抵抗がありそうです。もともとマスクは好きじゃないほうだったのに、習慣とは恐ろしい。

 何はともあれ、皆さまにとって良き年となりますように。

 本作は、大晦日に見に行きましたので、2021年の劇場鑑賞おさめ作品となりました。


◆罪深きヴィスコンティ 

 冒頭から、ホラー映画かと思うような不穏な映像と音楽で、こりゃヤバいかも、、、と思ったが、見終わってみれば、非常に真摯に作られた良作だった。

 序盤、ヴィスコンティが『ベニスに死す』に起用する美少年探しの映像が出てくる。それはそれは大勢の少年たちがゾロゾロと、、、。しかし、ヴィスコンティは「可愛い子ならいるが、美しい子は、、、」などと文句を言っている。

 が、ビョルンが現れると、ヴィスコンティは明らかに彼にくぎ付けとなり、それこそ“舐め回す”ような視線で彼を無遠慮に眺めまくる。「随分背が高いな」「美しい……」等と言いながらビョルンの周りをぐるぐる回ると、いきなり「脱げ」と命令口調で偉そうに言うヴィスコンティ。そのときのビョルンの表情は明らかに戸惑いが浮かび、不快感が現れている。「え、、、脱ぐ?」と何度か確認し、次の映像はパンツ一丁の姿になっている。それをしげしげと満足そうに眺めるヴィスコンティは、私にはただの“エロおやじ”にしか見えなかった。

 驚いたのは、『ベニスに死す』の男性スタッフのほとんどはゲイだから、彼らには「ビョルンを見てはいけない」というお達しがヴィスコンティから出ていたということ(そのスタッフの中にはヴィスコンティのお手付きが何人も居たのだろう。吐きそう)。そして、そのお達しは、「映画が公開されるまで」の期限付きであったこと。お達しが解かれた映画公開後、早速彼らに連れられて行ったゲイバーで、(明言はされてはいなかったが)ビョルンは彼らにレイプされたと思われる。しかも、そこにはヴィスコンティもいたのだ。「ルキノもいた」と、現在のビョルンが回想していた。

 私は、もともとヴィスコンティはその作品から彼の傲慢さが滲み出ている感じがして苦手だったが、このエピソードを聞いて、決定的に嫌いになった。『ベニスに死す』でキャスティングディレクターを務めた女性が言っていたが「子役を使うときは慎重にならなければならない」というのは本当にそのとおりだと思うが、いくらスタッフがわきまえていても、肝心の監督がアレでは、どうしようもない。

 ビスコンティにとって、ビョルンは一人の心ある少年ではなく、自身の作品のパーツに過ぎなかったのだ。一体、一人の人間を何だと思っているのだ。ビョルンに対する態度一つとっても傲慢そのもので、いくら歴史的名作を撮った監督だろうが、人間としてはまるで尊敬に値しない。映画友はヴィスコンティに心酔しているが、そういう人こそ、本作を見るべきだろう。

 『ベニスに死す』公開後は、ビョルン・フィーバーが世界各地で巻き起こったようだが、日本のそれはかなり異様である。来日時に日本語の歌謡曲をレコーディングさせ、そのミュージックビデオを、タジオみたいな衣装を着させて撮っている。ついでにその歌と映像は明治チョコレートのCMにも使用されていたとか。それをプロデュースしたのは、あの酒井政利氏だが、まあ、よくそんなバカ丸出し企画を思いついてやらせたもんである(ちなみに作詞は阿久悠)。そのときの映像を見ると、ひたすら痛々しい。こんなことを少年にやらせる日本の国民として、私は恥ずかしさを禁じ得ず、正視できなかった。

 世間知らずの少年ビョルンは言われたままにやるしかなかったのだが、現在のビョルンは(本音かどうかは分からないが)日本が大好きだと言っている。当時会った人たちはみんな親切だったと。本作の撮影の一環として来日したビョルンは、カラオケボックスでその曲を一人で歌っていた。酒井政利氏とも再会しており、生前の酒井氏はビョルンを目の前にして、当時のことを懐かしそうに良き思い出みたいに語っていたから、恥ずかしいとか、少年を食い物にして申し訳なかったとか、そういう感情は微塵もなかったのだろう。芸能界のプロデューサーって、ちょっと感覚がオカシイ人でないと務まらないってことかな。

 ちなみに、あの「ベルばら」のオスカルはビョルンがモデルだ、と、池田理代子本人がご登場でビョルンに話している映像もあった。


◆美貌ゆえ……に矮小化してはならぬ。

 この映画を見ようと思ったのは、『ミッドサマー』(2019)を見ていたから。『ミッドサマー』自体は好きでも何でもない(というか、むしろ嫌い)なんだが、あの映画の中盤で、老人が崖から飛び降りて死にきれず、カルト集団に顔を滅多打ちにされて死亡する老人役を、ビョルン・アンドレセンが演じているのよね。あの老人がビョルンであることは、クレジットを見て初めて知って、すごく驚いた。

 けれど、あの美貌の少年が、顔を滅多打ちにされる(しかもそのグロテスクな顔が結構なアップでモロに映るんだよね)というのに、何となく因縁めいたもの(もっと言えば、過去の美貌に自ら決別するためではないか)を感じていた。『ミッドサマー』を見ていなければ、本作にも興味を持たなかったと思う。

 ビョルンは生い立ちも複雑で、父親は今も分からないそう。異父妹がいるが、母親はビョルンが10歳のときに行方不明となり、その数か月後に森の中で遺体となって発見される(自死)。その後、彼らを育てた祖母が、いわゆる“ステージ・ママ”で、ビョルンの美貌を金儲けの道具にしたのだ。

 ビョルンは、ただただその美貌で映画に起用され、演技も何も特に技能を持ち合わせてはおらず、美貌が消費されつくしたらあっさり世間から放棄され、忘れられた。人気子役が、その後の人生で苦しむという話はよく聞くが、ビョルンのその後も、相当に苦々しい。彼の美貌が、彼の人生を狂わせた、、、という向きもあるようだが、それは違うと声を大にして言っておきたい。彼が苦しんだのは、彼の美貌ゆえではなく、彼の美貌を利用しただけの大人たちのエゴゆえだ。

 ただ、ビョルンは50年経った今、見た目は80過ぎの老人かと見紛う老け方をしてはいるものの、決して悲観的な感じではなく、これからの人生を実りあるものにしたいという意欲が感じられるのは救いである。

 パンフに芝山幹郎氏がそんなビョルンのことを「その後の彼も、特殊な技術を身につけてきたようには見えない。苦痛の痕跡は顔に刻まれているが、苦痛と戦い抜き、それを克服してきた徴候を見つけ出すのはむずかしい。(中略)アンドレセンは、意外に楽天的なのだろうか。あるいは、見かけによらずタフで、打たれ強い部分を秘めていたのだろうか」と書いている。

 苦痛と真正面から向き合い戦っていたら、彼はもっと大変な人生だったのではないか、、、と私は思った。彼が楽天的なのかタフなのかは分からないが、いずれにせよ、彼が荒波をくぐりぬけて現在も生きていることが何よりも重要だ。それに、彼が本作のオファーを受けた理由をこう語っている。

「映画業界において子供たちが搾取されている状況は受け入れ難いものがある/この議論がもっと広がることを願っているよ」
「僕はただの精神的な重圧を抱えた哀れな奴ではないんだ。もしこの映画が誰かにとっての重荷を軽くするものであるとしたら、単なる自己満足的なものというよりもむしろ役立つものになると思ったんだ」

 ビョルンの娘さんの言葉が印象的だった。「父に『脱げ』と言ったヴィスコンティに猛烈に抗議したい」という趣旨のことを話していた。私が彼の娘でも同じことを思ったと思うな。

 

 

 

 

 

 

 

彼の母親は“芸術家・ジャーナリスト・写真家・詩人・モデル”であった。

 

 

 

 

 

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