ある日突然、言葉が喋れなくなった(口から言葉を発することができなくなった)女優エリーザベット。精神科(?)病棟に入院し、アルマという看護師が担当に着く。何も喋らないエリーザベットにアルマは「看護する自信がない」と不安をもらしつつも世話をする。
主治医に、退院し、アルマを専属看護師にして海辺の別荘での療養を勧められたエリーザベット。アルマと2人の、俗世から隔絶された療養生活が始まり、次第にアルマは自らの内面をエリーザベットに晒すようになる。しかし、変わらず言葉を発しないエリーザベット。
2人の関係が次第に不穏なものになってゆく、、、。
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜
アルトマンが『三人の女』を撮るきっかけとなった作品だというので、見てみました。
見終わった直後は、、、つまり、アルマはエリーザベットの内なる存在を体現する存在だったということか、、、? と思ったんですが、何だか時間が経つうちに、そんな単純な話じゃないのかな、、、という気がしてきました。
世間では、本作のモチーフはドッペルゲンガーとか妄想とか言われておりますが、、、。妄想ではなく、エリーザベットもアルマも別個の人間として実存するのではないかと感じます。
物理的に近過ぎる距離にいる同性同士2人、しかも顔形が非常によく似ている2人が、身体接触を含む濃密過ぎる接触を長時間にわたり遮る者なく続けた場合、果たして2人はどうなるのでしょうか・・・?
ということを考えました。すると、『戦慄の絆』というクローネンバーグの映画を思い出してしまいました。あっちは、双子の男の話ですけれども。一心同体になっちゃった双子メンズは、そろって滅びるわけですが、果たして本作ではどうかというと、、、。
エリーザベットとアルマは次第に、互いに同化しつつ、、、いや、アルマがエリーザベットに取り込まれつつあったんでしょう。ポイントは、エリーザベットが何も喋らない、ということ。こういう場合、喋る方が立場的には弱くなる。2人とも黙っちゃえばそれはそれで違う展開があると思うけれど、2人のうち1人がダンマリの場合、もう1人はどういうわけか、何とか場を持たせようと喋りまくることがママあるように思います(これは同性同士に限らずですが)。
そうすると、喋る方が知らず知らずのうちに自らの手の内を晒してしまって、相手に把握されてしまう(ような感じになるだけかも。実際に把握し切るなんて困難だし)。精神的に、だんだんダンマリに対して勝手に従属的な感じになって行くのではないかしらん。いつの間にか支配されているような感じになって、被害妄想が出てきたりして、、、。
アルマは、いつまでたっても喋らないエリーザベットに業を煮やす場面があるんだけれども、あれもリアルなシーンだと思います。自分だけがどんどん剥き出しになって行くことに対するイライラ感。対等じゃなくなって行く関係に苛立つというか。
片やエリーザベットは、優位に立っているという自覚はなく、ただただ、ダンマリのままが許され、身の回りの世話を焼いてくれ、こんなに心地良いことないわ~、って能天気に思っていたら、アルマにキレられ初めて、2人の関係の危うさに気付いたんではないかしら。
一方的にアルマがエリーザベットに同化しちゃいそうになったところで、エリーザベットの夫が現れ、夫はアルマをエリーザベットだと思い込んでセックスまでしちゃう。、、、これを目の当たりにしたことで、エリーザベットはようやくアルマを自分が取り込んでしまっていたことを自覚したのか、ここで、アルマが初めて優位に立ったのかも知れません。
……というようなことをつらつらと考えてしまいました。というのも、タイトルにある「仮面」とは何なのか、というのが分からなかったからです。仮面て、、、? 何の? みたいな。人はみんな仮面をつけている、、、メタファーである、、、と、そういえば、確かジム・キャリー主演の『マスク』の中で、精神科医だか民俗学者だかがもっともらしいことを言っていたっけ。まあ、あれはコメディ映画で、そのお説自体も、はぁ? という感じだけど、なぜ仮面というタイトルなのかがナゾです。ペルソナは、調べたら、仮面のラテン語で、パーソナルの語源らしいのですが。パーソナル=人格、といわれれば、、、ふ~んという感じかなぁ。
まあ、タイトルに囚われるのもなんだけれども、言われているように“ドッペルゲンガー”だとすれば、つまるところ、『戦慄の絆』と同じで、一心同体化しそうになったところを、アルマが自らを取り戻してそれぞれの人格を取り戻した、ってことで、一番、私としては腑に落ちる気がしますかねぇ、、、。『戦慄の絆』では同化しちゃった2人は、2人ともに死んでしまいますから、、、。エリーザベットとアルマも、あのまま同化しちゃったら、やはり互いに自滅の道でしょうし。
なーんて、あんまし理屈っぽく考える必要はないのかも。
ただ、あまりにもオーラがあって影響力のある人と親密すぎる関係になると、取り込まれちゃう、ってことはあり得るので、そこはやはりあらゆる対人関係において節度を保たなければいけないな、と思いました。
アルトマンの『三人の女』では、ピンキーという田舎娘が、ミリーという勘違い女を勝手に崇拝して慕って、ピンキーが自ら積極的にミリーに取り込まれたかに見えるんだけど、、、。まあ、その後、二転三転しますけれど、あれも、影響力のある者とそうでない者が過剰に親密になるうちに、、、っていう話でした。
でも、現実では、それが高じて一歩誤ると、怪しい新興宗教とか、マルチ商法とかに取り込まれることになっちゃう、、、いや、もっと卑近な例があったんだ! 超支配的な親に洗脳される子ども、という図式が、、、!! 完全に取り込まれていたんだった、私も。あのモンスターな母親に。
……と、俗なオチがついたところで、感想文終了です。
冒頭のサブリミナル映像が怖い、、、。
★★ランキング参加中★★
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます