「北朝鮮と対話」は残酷な選択肢だ 2度脱北した“日本人”の壮絶な半生
2017.12.09(liv erty web)
北朝鮮と中国の国境にある鴨緑江(Jordan Adkins / Shutterstock.com)。
北朝鮮が11月末に大陸間弾道ミサイル(ICBM)の発射実験を行ったことで、米朝衝突の可能性は、ますます高まっている。経済制裁により、北朝鮮が冬を越せずに暴発するという説もあれば、アメリカが北のICBM完成の前に先制攻撃するという説もある。
こうした中、「軍事的オプションではなく、対話によって、北に核ミサイル開発を放棄させる道を探るべき」という声も大きい。
しかし北朝鮮問題は、単にアメリカや日本の安全保障に止まる話ではない。それ以上に重要なのは、「世界最大の人権問題」であるということだ。北朝鮮の体制が維持される形で、核ミサイル問題が着地したとしても、それは決して「平和的決着」とは言えない。それは、地上の地獄を放置する行為でもあるからだ。
本欄では、2010年5月号記事として掲載された、脱北者の壮絶なストーリーを改めて紹介する。(再掲元は http://the-liberty.com/article.php?item_id=913 )。
◆ ◆ ◆
祖国へと戻った少女たちの人生を待ち受けていたのは、あまりにも過酷な現実だった。運命に翻弄されながらも決して生きることを諦めなかった魂の軌跡は、未来の希望へといま繋がり始めた。
日本へ戻って、5度目の春を迎えようとしている。
3月初旬の風は冷たい。団地(大阪市内)の3階から見上げる空は、鉛色で低く垂れ込めている。つい辛い過去と重なってしまいそうだ。
しかし三寒四温を繰り返しながら自然が春へと流れていくように、その閉ざされていた心にもようやく、暖かな春の光が差し始めているのを実感している。
「私は、本当の自分自身に戻ったのですから」─―。
高政美(49歳 日本名・千葉優美子)はそう言って、柔らかな笑顔を見せた。
その表情からは、過酷な運命に翻弄され続けた一人の女性の姿は、読み取れない。しかし想像を遙かに超える現実は、確かに存在した……。
厳しい現実
1960年9月23日、韓国・済州島出身の両親(朝鮮籍)の次女として、政美は大阪市生野区に生まれた。当時は北朝鮮を「地上の楽園」と謳う帰国運動が盛んだった。62年に父は早世し、子供3人を抱え生活に苦しむ母は帰国事業を担当する在日朝鮮人の男性と再婚した。
「北朝鮮へ行けば心配なく生活できる」という宣伝に心を動かされた母は63年10月18日、3歳になったばかりの政美や養父の連れ子など家族7人と、第111次帰国船に乗り込んだ。
新潟港を後にした船内は希望に溢れていた。
しかし北朝鮮・清津港に到着すると「3年経てば日本に帰国できるのに一人も帰国していない」という宣伝文句の真の意味が、すぐに理解できた。目に映る清津港は古く、出迎えの人たちの姿は貧しかった。10代後半で多感な兄は、「船から降りない。日本に返してくれ!」と言い張った。
その後、どこかへ連れ去られ、戻ってくることはなかった。
その兄と再会したのは4年半後だった。「第49号病院」と言われる精神病患者を収容する建物内で、髪は伸び放題、ボロを身に纏う人たちの1人になっていた。容姿は変わり果て、立つのもやっと。7歳の政美は、正視できなかった。その後71年頃、兄の死亡が伝えられた。
北朝鮮では、生まれた時から思想教育が徹底される。幼稚園では母音・子音のハングル文字を憶える前に「キム・イルソン」「キム・ジョンイル」の名前を「絵を描くように」暗記することから始まる。
政美は、北朝鮮で教育を受けた。「成分社会」である北朝鮮では、在日帰国者は同胞から「チョッパリ(日本人の蔑称)」などと差別される対象だったが、「神様は我々を助けてくれないが、キム・イルソンは我々を助けてくれる」と教え続けられる環境の中、誰もが「指示されるように」考え行動するようになっていく。反抗して政治犯として消えていく人たちを目の当たりにし、政美も、そして誰もが、社会的に声を上げる意志をなくしていった。