《本記事のポイント》
- 地獄は存在し、獄卒の鬼も閻魔大王も実在する
- "霊界へのアンテナ"の役割があるお墓の大切さ
- この苦しみに満ちた世界を生き抜くことの意味
死んだお母さんと逢うため、小学5年生のかりんは化け猫のあんずちゃんに導かれて地獄界へと旅立つ。地獄の存在や閻魔大王、獄卒の鬼などが出てくるので、この夏休み、供養やあの世、特に地獄の世界について、子供たちに親しんでもらうにはピッタリの映画だ。
お寺育ちの"化け猫"で、ちょっとずぼらなあんずちゃんを、森山未来がひょうひょうと演じている。また、幼い頃から大人の厳しい世界の現実と直面してきたせいか、少し裏表がある"猫被り"な性格の少女かりんを五藤希愛が体当たりで熱演する。
地獄は存在し、閻魔大王も鬼も実在する
地獄世界の探訪というと、最近では宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」が記憶に新しいが、この映画では、仏教で説かれている古典的な地獄が下敷きとなっており、"ゆる系"ではあるものの、閻魔大王や獄卒の鬼がしっかりと登場する。
こうした地獄を描いた代表的な仏典としては、平安時代の僧侶、恵心僧都源信が著した「往生要集」が思い出される。同書には、畜生道や阿鼻叫喚地獄、黒縄地獄など様々な地獄の様相がリアルに描かれ、日本人の地獄観を決定づけた。
今回はそこまでリアルではないものの、鉄棒を持った鬼たちが、地獄に落ちた罪人などを責め苛んで罪を反省させる様子が、それとなく描かれている。また、鬼たちを統括している閻魔大王も登場し、裁判官よろしく地獄での処罰を決めている姿が描かれていて、お盆の季節に観るのにぴったりの映画だ。
今、閻魔大王や地獄の獄卒としての鬼が、あの世に本当にいると信じている人は恐らく数少ないだろうが、霊界の真実としては確実に存在する。
大川隆法総裁の『妖怪にならないための言葉』には、地獄の獄卒を務める鬼について、「仏を外護するための地獄の執行官(パニッシャー)」であり、「検察官や警察官、悔い改めを現実化するための執行官であって、修行中の菩薩や諸天善神も多い」とされている。
また閻魔大王についても「生前の善悪を裁く閻魔大王も、姿を変えた如来や菩薩であって、『正義』と『公平』を追究している」とある。
地獄も鬼も閻魔大王も実在し、死後の世界で我々が出会うことになるかもしれない存在なのだ。だから、子供の頃にしっかりと地獄があると教えられることは大切だ。たとえ犯した悪が人に知られなくても、死後には確実に地獄で鬼に反省を迫られると信じていれば、自ずから躊躇することにもなるだろう。
"霊界へのアンテナ"の役割があるお墓の大切さ
また、この映画では、地獄に旅立つための入り口として、お寺やお墓が重要な役割を果たしている。
借金取りに追われている父親に、その実家である伊豆のお寺に預けられることになった少女かりんは、3年前に亡くなった母親の命日にお墓参りをするべく、寺に飼われている化け猫あんずちゃんと一緒に東京に出てきて、母親が葬られているお寺へと向かう。そして、お寺のトイレが実は霊界への入り口になっているという設定だ。
大川隆法総裁によると、お墓とは"霊界へのアンテナ"の役割があるという。「死者を葬っているお墓は、原始的な形の小さい『石の建造物』ではあっても、"霊界へのアンテナ"になっていると言われています。お墓に花や線香を供えてお祈りをするときには、『天国か地獄か』は別として、その祈りが亡くなった親族のところに届くようにつくられたもの」(『青銅の法』より)なのだという。また「地上における神社・仏閣や教会、その他の宗教建築等も、『この世を去った実在世界にいる神への通信手段としての特殊空間』である」(同書より)とされている。
最近では、樹木葬や0葬など、お墓や葬式を軽視する風潮もあるが、小学校5年生の女の子が母親に供養の心を手向けたい一心で墓参りに行く姿を描いたこの映画はとても好感が持てる。
また化け猫のあんずちゃんも、お寺で飼われているということで、大変ずぼらなところもある反面、何か人助けをしなければならないという使命感を持った存在として描かれている。
今現在の自分の快楽のことしか考えないのが当たり前の世の中で、お寺でのお墓参りや仏壇に手を合わせることの大切さがしっかりと描かれているこの映画は、観ていて不思議と心安らぐものとなっている。
苦しみに満ちた世界を生き抜くことの意味
霊界で母親と対面し、地獄から連れ出して、地上に戻ってきたかりんたちだが、追いかけてきた閻魔大王の説得によって、母親は地獄に戻ることになる。
どうしても母親と別れたくないかりんは、「自分も死んで母親と一緒に地獄に行く」と言ってきかない。そこで母親がかりんを説得し、たとえ苦しくても、この世で生き抜くことの大切さを語るシーンはとても感動的だ。
物心つく頃から、数々の厳しい現実と向き合ってきた子供に対して、この苦しみに満ちた世界の中で、「なぜ生き続けていかなければならないのか」を説得するのは、実際のところとても難しいことだ。
このことについて大川隆法総裁は、「人生は一冊の問題集である」として、試練と向き合うことの意味を次のように説いている。
「『<さまざまな苦難・困難、試練のなかをくぐりながら、自分の魂を鍛え、心を鍛えて、立派な人格をつくる>という目標を持って生まれてきて、現実に努力しているのだ』ということは忘れないでいただきたいのです。一点の非の打ち所もない完全な理想家庭に育つことが、自分の幸福になるかといえば、そうではありません。まず、子ども時代に、いろいろな問題が起きますが、その問題のなかに、自分自身を発見する種、自分探しをする種があるのです」(法話「子どもたちの試練と自立について」より)
また映画では、地上で生きているかりんの父親が、借金を重ねた挙句、悶え苦しんでいると、その姿が地獄に現れるところが描かれていた。これは、地獄とは死後の世界にあるだけなく、生きている自分の心の中に既にあり、日々、その心の中の思いや行いを点検することが大切であるという霊的な真実を反映していると言えるだろう。
一日一生ともいわれるが、今日一日の心構えで、毎日の反省を欠かさず、悔いのない人生を生ききる決意を持つことが、すなわち地獄から抜け出す道なのである。
映画のラストでは、化け猫のあんずちゃんが、暮らしていた伊豆のお寺に戻り、お寺の境内に鎮座する大仏の前を掃除している姿が描かれていた。
あたかも人間界のすべての事象を温かく見守るように、静かにたたずんでいる大仏の微笑がとても印象的なシーンだ。
結局、霊界もこの世も、すべては大いなる御仏の統治する世界であり、その大御心の中で私たちは"生かされている"のだ。このことを垣間見せてくれる本映画は、夏休みに親子で見るのにピッタリのスピリチュアルな映画だと言えるだろう。