油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

忘却。  (1)

2024-04-05 21:17:35 | 小説
 「あんたあ、どうしたのよ。寝てるのお。い
い加減に下りて来てよ。用があるのよお」
 かすかに、かみさんの声がした。

 彼女はきっと、声を張り上げているに違い
ない。それがきわめて小さく聞こえるのは、お
れのせいだろう。おれがいまだに目が覚めず、
うつらうつらしているからに違いない。

 しかし、それにしても、何かが変だった。
 生来、せっかちの性分。いつもなら、彼女
の声を耳にしただけで、胸の辺りがどきどき
ざわざわしだす。

 おかしなことに、今回はそうはならない。
 至って平静である。どっしりと構えている。

 しかしながら、頭のどこかで、以前のくせ
を憶えているのだろう。だんだんにもともと
の性分の芽が出始めると、そわそわしだした。

 (早く返事しなけりゃだめだ。そうでないと
またまた彼女の機嫌を損ねてしまう)
 それっと、ベッドの上で起き上がろうとし
たが、どうしたことか、簡単にからだが動か
せなかった。

 「今行くからな、待っ、待って……」
 そう言っているつもりが、ううっ、ううっ
と、単なるうめき声になってしまう。

 (何かが変だ。おれの身体に異変が起こっ
ている)
 ひたいに汗がにじんだ。

 ぽたぽたと鼻やらほほをつたわって、汗か
涙かわからぬものが、ふとんを濡らした。

 それにしても、多すぎるほどの量である。
 とっくりセーターの袖で、流れる汗をぬぐ
おうとして、目の前にあらわれた右手に、別
段いつもと違う様子はない。ただ、やたらと
重いなという程度である。

 それがなぜだかわからないが、うわべだけ
は以前と同じだからと、内心、ほっとしてい
る自分がいる。

 さて起き上がるかと、上半身を動かそうと
したが、あまりに重く感じる。

 ぐわっと声をあげ、後ろにひっくり返った。
 「ぐわってって、どうしたの。大きな音を立
てて」
 またまた、かみさんの声である。
 大男、総身に知恵がまわりかね、といった
具合に、おれは自分に起きている変化につい
ていけず、ただただ戸惑うばかりである。

 このところの野良仕事の疲れが、一挙に出
ているせいだろうと、自分なりに現在の自分
の体調に分別をつけようと試みた。

 たかが十五貫じゃないか。それくらいでど
うした、どうしたと、自分を叱咤激励する。

 むかし昔、名前は忘れたが、ハワイから来
られたお相撲さんたちかおられた。

 そのうちのひとりの方が、ほっそりしてき
れいな日本人女性と結婚するに際して、自分
のぜい肉をなんとかして減らそうと懸命にな
られたことがあった。
 今のおれは、その力士の心境に似ていた。

 かみさんとささいなことで言い争いになり、
このままではけんかになる。
 口負けするのはかまわないが、と二階の自
分の部屋に逃げこんだのは、午前十時を少し
まわったところだった。

 それからあとの記憶がほとんどない。
 いつもなら、そんなことはなく、十のうち
一つや二つは、憶えているものだった。 
 目を開けようと思うのだが、やけにまぶた
も重かった。
 
 
コメント (2)
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