「あんた、どうすんのよ。げっぷばかりして。あたし、ふたりで
お茶するの、楽しみにしてたのよ」
めったに言わない言葉を、思わず、口にしてしまい、かみさんが
ほほを染めた。
「ううん、そうだなあ。お茶だけでいいのか」
「食料いっぱい買い込んだけど、これは明日からの分でいいわ。今
晩はどこかで食べたいわ」
「ふうん、そうさなあ」
おれは腹ぐあいを確かめるつもりで、ハンドルから左手を離した。
のの字を書くように、腹の上で左手を動かす。
「ちょっとだけ、大丈夫みたいだぞ。食後のデザートの用意もでき
てるし」
「デザートって?」
「いやなに……、なんでもない」
「いやだわ。男のくせに、一度言いだしたことをひっこめるなんて」
安上がりでいいわとかみさんが言うので、ふたりしてサイデリアの
ドアを通る。
(先ずはドリアドリア、コインみっつで食べられる……)
思い起こせば、ミラノドリアはせがれの大好物だ。
フォークとナイフを上手に使い、こげ茶の皿の中に、いまだに残り
かすが付着しているとみれば、スプーンのふちを器用に使い、きれい
に平らげる。
ファミレスの飲食物に詳しく、それなりに口も肥えている。
幼い頃からしばしば、かみさんの女きょうだいふたりとともにファ
ミレスに通った。
かみさんは若いときは、親の手伝いがとても忙しかった。
野良仕事である。
「おまえは長女だから、あとっとりだぞ」
父親にそう言われつけてきた。
言葉が人を創るもので、自らも、ああそうなんだと、いつしか納得
してしまったらしい。
「いらっしゃいませ」
ウエイトレスのひとりが、ようやく、厨房から出て来て、
「おタバコはお吸いになりますか」
とつづけた。
「いいや」
おれは右手を上げ、一度横に振った。
彼女の腰のあたりで、ぴっちりと巻き付いているものが気になってし
まう。
それはエプロンに違いないのだが、おれにはまったく異なった生き物
に見えてくるから不思議だ。
彼女は若いだけに、豊満な体だ。
思わず、おれは空腹をおぼえ、腹がぐぐぐぐっと鳴った。
小さな紙切れに注文番号を書き付けてからテーブルの隅に置いてある
呼び出しボタンを押した。
「ミラノドリアふたつですね。お飲み物はどうなさいますか」
「ドリンクバー、ひとつ」
「かしこまりました」
立ち去って行くウエイトレスに、おれは言わずもがなの一言を放つ。
「この前来たときのドリア。ちょっとぬるめだったんだよな」
ウエイトレスは、踵を返し、まじめな顔で、
「わかりました」
と、頭を下げた。
「まったく、あんたって人は……、そんなにうるさかったんだっけ」
「おまえに似てきたよね」
「うそおっしゃい。また人のせいにして」
俺の意思とはうらはらに自らのからだに起きている変化。
おれはそれについて行けそうもない。
筋肉といい、皮膚といい。うずうずごわごわしている。
おれ自身が、どんどん、どこかに追いつめられていくようだ。
ふと複数の人の気配を感じ、あたりを見まわす。
しかし、誰もいない。
熱いドリアがふたつテーブルの上にのせられるのに時間がかかった。
「やっぱり、あったかいドリアっておいしい」
かみさんが目を細めて言った。
(うんうん、おいしいもので腹を満たすといい。おれは願ったり叶っ
たりだ)
今度は鋭い視線だ。
それもひとつやふたつじゃない。
それらがおれの体を突きさす。
店内にいるのは、男女の二人連れが、三組ばかりである。
彼らは誰ひとり、おれを見つめてはいない。
「ごちそうさまでした」
かみさんの声と、それに伴った笑顔。
おれはそれらを、全力で覚えておかなければと思った。
ひとしきり長すぎるからだを振り回してからおれは、おれの四本の
鋭い爪をたよりにして、平たく硬い天井にとどまることに成功した。
喜びとか怒り。楽しみとか悲しみ。
そういった感情が、するすると、おれの頭の中から抜け出ていく。
こうしちゃいけないとか。ああすべきだとか。
そういった知恵のたぐいも、すんなりどこかに消えてしまいそうだ。
おれはあえて口を開けない。
口は開けたほうが楽だったが、この世の最後のご奉公とばかりにぐっ
とこらえた。
おれの両目から、血の涙がぽとぽと垂れる。
イタリアの街を思い起こさせる心地よい音楽が店内に響きわたる。
お茶するの、楽しみにしてたのよ」
めったに言わない言葉を、思わず、口にしてしまい、かみさんが
ほほを染めた。
「ううん、そうだなあ。お茶だけでいいのか」
「食料いっぱい買い込んだけど、これは明日からの分でいいわ。今
晩はどこかで食べたいわ」
「ふうん、そうさなあ」
おれは腹ぐあいを確かめるつもりで、ハンドルから左手を離した。
のの字を書くように、腹の上で左手を動かす。
「ちょっとだけ、大丈夫みたいだぞ。食後のデザートの用意もでき
てるし」
「デザートって?」
「いやなに……、なんでもない」
「いやだわ。男のくせに、一度言いだしたことをひっこめるなんて」
安上がりでいいわとかみさんが言うので、ふたりしてサイデリアの
ドアを通る。
(先ずはドリアドリア、コインみっつで食べられる……)
思い起こせば、ミラノドリアはせがれの大好物だ。
フォークとナイフを上手に使い、こげ茶の皿の中に、いまだに残り
かすが付着しているとみれば、スプーンのふちを器用に使い、きれい
に平らげる。
ファミレスの飲食物に詳しく、それなりに口も肥えている。
幼い頃からしばしば、かみさんの女きょうだいふたりとともにファ
ミレスに通った。
かみさんは若いときは、親の手伝いがとても忙しかった。
野良仕事である。
「おまえは長女だから、あとっとりだぞ」
父親にそう言われつけてきた。
言葉が人を創るもので、自らも、ああそうなんだと、いつしか納得
してしまったらしい。
「いらっしゃいませ」
ウエイトレスのひとりが、ようやく、厨房から出て来て、
「おタバコはお吸いになりますか」
とつづけた。
「いいや」
おれは右手を上げ、一度横に振った。
彼女の腰のあたりで、ぴっちりと巻き付いているものが気になってし
まう。
それはエプロンに違いないのだが、おれにはまったく異なった生き物
に見えてくるから不思議だ。
彼女は若いだけに、豊満な体だ。
思わず、おれは空腹をおぼえ、腹がぐぐぐぐっと鳴った。
小さな紙切れに注文番号を書き付けてからテーブルの隅に置いてある
呼び出しボタンを押した。
「ミラノドリアふたつですね。お飲み物はどうなさいますか」
「ドリンクバー、ひとつ」
「かしこまりました」
立ち去って行くウエイトレスに、おれは言わずもがなの一言を放つ。
「この前来たときのドリア。ちょっとぬるめだったんだよな」
ウエイトレスは、踵を返し、まじめな顔で、
「わかりました」
と、頭を下げた。
「まったく、あんたって人は……、そんなにうるさかったんだっけ」
「おまえに似てきたよね」
「うそおっしゃい。また人のせいにして」
俺の意思とはうらはらに自らのからだに起きている変化。
おれはそれについて行けそうもない。
筋肉といい、皮膚といい。うずうずごわごわしている。
おれ自身が、どんどん、どこかに追いつめられていくようだ。
ふと複数の人の気配を感じ、あたりを見まわす。
しかし、誰もいない。
熱いドリアがふたつテーブルの上にのせられるのに時間がかかった。
「やっぱり、あったかいドリアっておいしい」
かみさんが目を細めて言った。
(うんうん、おいしいもので腹を満たすといい。おれは願ったり叶っ
たりだ)
今度は鋭い視線だ。
それもひとつやふたつじゃない。
それらがおれの体を突きさす。
店内にいるのは、男女の二人連れが、三組ばかりである。
彼らは誰ひとり、おれを見つめてはいない。
「ごちそうさまでした」
かみさんの声と、それに伴った笑顔。
おれはそれらを、全力で覚えておかなければと思った。
ひとしきり長すぎるからだを振り回してからおれは、おれの四本の
鋭い爪をたよりにして、平たく硬い天井にとどまることに成功した。
喜びとか怒り。楽しみとか悲しみ。
そういった感情が、するすると、おれの頭の中から抜け出ていく。
こうしちゃいけないとか。ああすべきだとか。
そういった知恵のたぐいも、すんなりどこかに消えてしまいそうだ。
おれはあえて口を開けない。
口は開けたほうが楽だったが、この世の最後のご奉公とばかりにぐっ
とこらえた。
おれの両目から、血の涙がぽとぽと垂れる。
イタリアの街を思い起こさせる心地よい音楽が店内に響きわたる。